涙が流れる
ただただ書きたかったので書きました。
どうか読んでやってください。
いつもと何も変わらぬある日。もう夕方だというのに相変わらず梅雨の時期特有のジメジメした空気が部屋に流れ込んでくる。
ついさっき家に帰ってきたばかりの私はあまりの蒸し暑さに宿題にも手をつけることなく、扇風機の前で涼んでいた。
「あー…涼しい…」
首を伝う汗をタオルで拭う。とにかく暑くてたまらなかった。
そんな時、一階の方から「ただいま」と聞き慣れた低い声が聞こえてきた。
兄が帰ってきたのだ。
まあ、兄が帰ってきたからと言って大したことはないので私はあらためて扇風機に向き直り、吹き抜ける風に身を任せた。
ふと目を開けると、私はいつの間にか眠りにおちていたようで、すっかり窓の外は薄暗くなっていた。慌てて腕につけっぱなしにしていた腕時計へ目を落とす。
「8時…」
とっくに晩御飯もできている頃だ。いつもなら母が呼びにくるはずだ…しかし、私は今まで寝ていた。
ということは…何かあったのだろうか…?
疑問に思った私は扇風機と部屋の電気のスイッチを消し、そそくさと部屋を出た。廊下に出ると明かりのついた兄の部屋を横切り、階段を降りて行った。
リビングに入ると、母が困った顔で受話器を握っていた。
「あ、はい。そうですね…最近は成績も落ちてきたので、部活のほうも…」
兄の放送部の顧問と話をしているようだ。母は私の存在に気づくとテーブルの方を指差した。何だろうと思いつつ一応目を向ける。そこには、それぞれのイスの前に味噌汁だけがちょこんと置かれているなんとも言い難い殺風景が広がっていた。どうやら、母は夕食の準備を代わりにしてくれ、と言いたかったらしい。私は快く了承すると、キッチンのカウンターに置いてあった料理をテーブルに並べ始めた。
料理を並べ終えて兄を下に呼ぶと、ちょうど母の電話が終わった。母は「やっと終った…」と、疲れたように呟くと、吸い込まれるようにイスに座った。すでに私と兄は食べ始めていたので母は簡単に「いただきます」とだけ言い、料理に箸をつけだした。
「…俺の顧問から…?」
ふと何気なく兄は聞いた。母は味噌汁をちまちまと飲みながらうなずいた。
「あんたが今、生徒会から受けてる仕事。その話をついこの前まで聞いてなかったから、ちゃんとそういうのは言わせるように…とか、最近カメラを落としたりして物にあたってるので注意してください…とか言ってたわ」
「はあ?…マジわけわかんねぇ…」
兄はどこか不機嫌さを含ませた声を上げる。
兄から聞くに、その顧問の人は、偉そうに自分の意見を出すと、生徒の意見を踏みつけてまでそれを貫こうとし、加えてそれが原因で怒られた時は何食わぬ顔で生徒に罪をなすりつける、兄が知る限りの最も最悪な教師らしいのだ。
私はなんとか重い空気にならないように
「うわっ、そういうのをわざわざ電話で言うとか、どんだけうぶなやつなの…⁈」
と大げさに反応をする。が、そんな思いとは裏腹に兄の声はますます不機嫌味を増していった。
「…本当、あいつわけわかんねぇ…この前の大会の時だってせっかく俺たちが作った映像を勝手にいじくってさ、そのおかげで審査員から散々に言われるし…。それだけならまだ許せるのに、「私は何もしていません」って!…マジで…もう…」
感情がたかぶり、兄の目が徐々に潤んでいく。私はつい気まずくなって、テレビの方へ目を逸らす。
「そんなんが毎回毎回続くんだ。毎回何かするたびにぐちぐち言われてさ‼…ほんと…もう…うんざりする…」
そして、次に兄の顔を見た瞬間、その兄の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。
私はただただ驚いた。
「そんな泣くくらいなら部活やめれば?」
「嫌だ!」
母が提案するが、兄はあっさりと拒否した。
「俺は、あの部が好きなんだ。…ただ顧問がダメなだけで…」
「だから言ってるの。そんなにその顧問が嫌ならたとえその他が良くても同じことでしょう?」
「嫌だ‼やめたくない!」
頑として言い張る兄に今まで静かにしていた私は我慢できずに思わず問いかけた。
「なら、直接言えばいいじゃん。いちいち首を突っ込むな!…とか」
すると、兄はさっきまでの勢いを突如なくし、目を下に伏せて言った。
「言いたいけど、仮にもあいつも教師だから…言ったら何されるかわかんないし…。でも、だからと言って物にあたってるわけじゃない!…ちゃんとその辺はセーブしてるから…」
ならその不満はどうしているのだろう…
私は不思議に思った。そして、兄の次の言葉に驚愕した。
「集会の時とかに放送室で1人になるから、その時、自分の体を殴って物にあたらないようにしてるから…」
私が「眠い」とあくびをしている時に、
私が「つまらない」とうとうとしている時に、
…兄は、泣きながら自分の体を殴っていたのだ。楽しい部にいたいから、最後までこの部にいたいから、
みんなに黙って自分だけを苦しめて…
私は夕食を食べる気をなくし、気まずい空気の中にこれ以上いたくなかったので、口早に「ごちそうさま」と言い、自分の部屋へ戻った。
そして、今までずっと苦しんでいた兄に、
今までずっとそばにいてくれた兄の苦しみに気づけなかった自分に涙が出てきた。
ただただ悲しかった。
同情とはどこか違う、深い悲しみが突然私の心を抉る。
涙が止まらない
涙が止まらない
まくらに顔をうずめ、歯を食いしばって叫びたいのを我慢する。
私は何ができるだろうか。
兄に何ができるだろうか。
何か…何か…
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世界のどこかでそんな出来事が起こった。
あなたの知らぬ世界の中で…
あなたには何ができるだろうか?