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07. キムチ鍋(1)

 ゴールデンウィーク前半の初日。律保(りほ)と毎日会うのがすっかり当たり前になっている今の健二は、改めて過去を思い返してみる。去年の今ごろは、律保と連日顔を合わせられないもの寂しさに、ミスをしては剛三に怒鳴られていることが多かった。あのときはまるで自覚がなかった。あの段階ですでに自分は恋に落ちていたのだ。

 健二は去年の自分に、「偽善者」と言ってやりたくなった。「一年後には、こんなことをしているくせに」と。

 目覚めたばかりでぼんやりとした思考を、腕の中で眠る律保へと移す。彼女は生まれたままの姿で少しだけ背を丸め、まだ小さな寝息を立てていた。そんな律保の寝顔を見たら、愛おしさがまたこみ上げる。健二は彼女を起こさないよう、そっと頬へ唇を寄せた。

「ん……」

 甘ったるい呟きを耳にしたら、もっと居た堪れない気分になった。健二は名残惜しげに律保を解放し、布団から抜け出した。

 ぬるいシャワーで火照った気持ちや身体を落ち着ける。暦の上では、もうすぐ立夏。今日も暑くなりそうだ。

(肝はかなり冷えそうだけど)

 これからの予定を脳裏に巡らせた途端、健二はぶるりと肩を震わせた。

 今日は、律保の両親と初めて会う。これが結婚を前提とした挨拶であれば、ここまで緊張することもないだろう。だが律保は、初詣のとき健二が告げたプロポーズに、ノーの答えを返して来た。ではなぜ彼女の両親が、突然健二に会いたいなどと言い出したのか。どうポジティブに捉えようとしても、その理由が不穏な憶測ばかりになってしまう。その上こんな間柄になってしまったとあっては、律保の両親に対する後ろめたさを禁じ得ない。健二の中で、思考が千々に乱れ飛んだ。

(でも、律保さんは親御さんに話をしてくれてはいる、ってことだよな)

(じゃあ、どうして結婚は無理なんだろう)

(反対されてる? だとしたら、どうしよう)

(いや、それなら会いたいなんて言わないだろうし。でも、この状況は不誠実だと思われるよな、やっぱ)

(いや、別にばれることはないだろうし。いやいや、考えてみれば、ばれて困ることじゃないし)

(そもそも俺には結婚の意思があるんだから、悪いと思わなければいいんだ)

「って……無理。それ、絶対ムリ」

 ついには声にしてしまったぼやきと溜息を、シャワーの飛沫が慰めるように掻き消した。


 律保が眠っている間に、軽い朝食を作る。そうめんと落とし玉子の味噌汁に、鮭の塩焼きとほうれん草のおひたし。それに炊きたてのご飯を添えれば、あとは彼女の目覚めを待つだけだ。

 こうしてともに朝を迎えることは、これまでにも時折あった。仕事の話に盛り上がり過ぎたときや、なんとなく離れがたいとき、落ち込んだときなど。ときには自分が弟のように、またあるときは律保のほうが妹のように。もし兄弟がいたら、こんな感じだろうか。兄弟のいない健二にそう感じさせる穏やかな眠りを二人で味わうことは何度かあったものの、昨夜は少し違ったのだ。律保から打診された実家を訪ねる件に快諾の返事をしたあとで、唐突に律保が言ったのだ。

『やっぱり不経済だから、一緒に暮らしましょうよ』

 健二はその言葉を、プロポーズの快諾と受け取った。拒まれなかったことも手伝い、勢いのままに律保と肌を重ねた。だが、そのあとのピロートークの中で、それが健二の勘違いだと思い知らされた。

『結婚は離婚の始まりだもの。家族を巻き込んでのいざこざは、もう懲り懲り、っていうか』

 健二は何も言えなかった。律保の発した言葉から、剛三や律保の母親を糾弾する憤りが以前よりも薄れていた。思春期につけられた染みは、なかなか綺麗には拭えない。律保の自分自身に対する歯痒さや、見えない未来に対する怯え、割り切れないでいる苛立ちが、その一言に滲み出ていた。同時に、健二への罪悪感を燻らせた憂いが律保の瞳に宿っていることにも気がついた。健二はそんな彼女を、無言で抱きしめた。大人しく自分の懐へ収まる彼女に、気長に待つという意向が伝わることを願いながら。抱き寄せた彼女の顔が触れている部分は、寝息が聞こえて来るまで、ずっと汗以外のもので湿っていた。


 襖の向こうから、律保の携帯電話の着信音がかすかに聞こえた。すぐに鳴りやんだことから、彼女が目覚めたことを知る。健二はガスコンロをとろ火でつけ直し、ダイニングを兼ねたキッチンで律保を待った。恐らく実家からの電話だろう。自分は席を外しているほうがよいと思われた。

 やがて襖がそっと開き、律保の顔だけがおずおずと覗いた。

「……おそよう。起こしてくれたらよかったのに」

 そう呟く彼女の頬が、心なしかほんのりと赤い。一つ年上とは思えない愛らしさを目の当たりにすると、それまで健二の中に渦巻いていたネガティブな予想が一瞬だけ消し飛んだ。

「おはようございます。お昼を兼ねた朝飯になっちまいましたけど、食べられますか?」

 いつもより早口な高いトーンになってしまった。まるで律保に釣られたかのように、健二の頬まで火照り出した。

「うん。ねえ、ちょっとだけ、目を瞑ってて」

「え」

「お風呂場、健ちゃんの座ってる椅子の、そっち」

「あ」

 うろたえた健二は、咄嗟に瞼を固く閉じた。こんなとき、ふと安田の存在が脳裏を過ぎる。

(安田さんなら、きっとこういうときも、スマートに対応しちゃうんだろうなあ)

 向かい合わせた椅子の背に着替えなどを掛ける小さな音がする。健二はそれを聴きながら、今一つ男性としての魅力に欠けた自分の不器用さに落ち込んだ。

 ぎぃと扉の開く軋んだ音のあとに「もういいよ」というはにかんだ声が聞こえた。再び瞼を開ければ、そこに律保の姿はなく、シャワーの水音が背後から健二の鼓膜を軽く揺すった。その水音をBGMに、味噌汁を掻き混ぜる。そうしている内に、健二の心臓も次第に落ち着きを取り戻した。律保が風呂から上がるころには「今さら隠すこともないのに」と冗談を口にするだけの余裕が戻っていた。


 さきほどの電話は、やはり律保の母親からだった。昨晩のうちに律保から「訪問する時間は当日連絡する」という実家からの意向を聞いていた。律保の異父弟、淳也の予定を考慮した上での配慮だった。

「あの子、最近お父さんには何かと反発するらしいの。お母さんや私にはそうでもないんだけれどね。今日はお父さんがいるから、淳也がサッカーの練習で出掛けている間に訪ねるほうがいいかと思って」

 そんな淳也が最近よく口にするのは「姉さんには何も言わないくせにどうして僕だけ」というものらしい。

「ひょっとしたら、淳也って、私だけが岩田を名乗っていることについて、何か誤解した解釈をしているんじゃないか、って。淳也の区別の仕方を考えて、ふとそう思ったの」

 彼女はそこまで言うと、小さな溜息をついて、鮭の切り身をつまらなそうにつついた。

「淳也が生まれたあと、お母さんの体調がひどく悪くて、私が世話をしていた時期が長かったの。淳也は私とお母さんの二人で育てて来たような感覚なのね。大学のときに家を出たものの、五歳って一番かわいい盛りなのよ。私のほうが寂しくなっちゃって、ちょこちょこ実家には帰っていたのだけれど、それが却ってよくなかったのかしら」

 決して養父の浜崎に対して嫌悪感は抱いてないが、やはり他人行儀になってしまう。それを淳也が敏感に察していたのではないか、と。律保はそう語っている間にも、自分を責め立てるかのように、鮭の切り身をつつき続けていた。そんな彼女を見て、健二の口から苦笑が漏れた。

「考え過ぎですよ。男の子にとって、父親の存在そのものが障壁、という一面もあると思います」

「そうなのかしら」

「ええ。早い子だと、小学校高学年で自分が男だという意識を持ち始めるそうですよ」

「まだ子供なのに?」

 意外そうにくすりと笑う余裕が生まれた様子を見て、健二は憂う律保の気持ちをやわらげるように言葉を繋げた。

「思春期って、子供だけど大人、って部分がありませんでした? 自負心や自尊心が芽生える時期、っていうか」

「ああ、そうね。言われてみれば」

「でしょ。従兄弟たちが、やっぱり淳也くんみたいな感じでしたよ」

 なんでも自分で抱え込んでは落ち込む律保の中に、剛三との血の絆を垣間見た。

「思春期、かあ。そうなのかしらね、やっぱり」

 彼女が少しだけ目を細めて、縋るように見つめ返す。健二は疑い深い彼女に、

「そうですよ。今の子は特に早熟だし」

 とダメ押しのようにエピソードを語り聞かせた。

「俺もね、これでも高坊のころは、親父さんと殴り合いの喧嘩をしたことがたくさんあるんですよ」

「え、うそっ。健ちゃんが? あのお父ちゃんを相手に? 信じられない」

 律保の魚をつつく手がとまり、大きく見開いた目が健二を見つめ返した。

「本当ですよ。今思うと、伯父のところで暮らしていたころは、言いたいことを言い合って喧嘩をしている従兄弟たちが羨ましかったんだろうなあ。きつく叱る親が、俺にはいない。言いたいことを言える気心の知れた身内や友達もいない。それが当たり前だと思っていたくせに、どうにも居心地が悪くてしょうがなかった。親父さんには、本当に頭が上がらないです」

 血の絆を軽んじるわけではないが、それがすべてでもない。それは浜崎と律保の関係にも言えることだ。遠回しに律保へ伝えたその言葉の意味を、彼女はどう受けとめたのだろうか。

「……そうね。居心地の悪さってのは、解る気がするわ」

 律保はそれだけ言うと、すっかりフレーク状になってしまった鮭を箸で寄せ集めて頬張った。




 二人は約束の時間ぴったりに浜崎家を訪れた。健二はインターホン越しで二、三の言葉を交わす律保の後ろから、細い目をさらに細めてまばゆげに浜崎家を見上げた。

 剛三とは正反対の好みを思わせるモダンな家屋は、外観からでも吹き抜け構造だと一目で判る。小洒落たステンドグラスの飾り窓が強い陽射しを受けてまたたいた。この家の建設当時にはきっと珍しかったであろう、ソーラーパネルに、反射光がキラリと走って健二を威嚇した。

「健ちゃん、ロックが開いたわ」

 律保の声に、セキュリティの解除された音が重なった。

「お先にどうぞ」

 律保がそう言って門扉を開け、健二に通る道を譲って中へと促した。玄関までの距離は、二十歩前後ほど。だが、その導線をかたどる洋風の踏み石が台形にカットされて直線で敷き詰められている。そのデザインは、来訪者の目に敷地の広さを感じさせた。洋風仕立ての庭は、草丈の伸び切っている雑草がほとんど見当たらなかった。家を大切にしている家主の人となりを、ほんの数歩入っただけでも覗い知ることができた。

 玄関の前に来ると、ケヤキとオリーブが来訪者を包むように出迎える。夏には目に涼を与えてくれる樹形のケヤキ、冬には寒々とした中での来訪に心の暖を施すオリーブ。それは、浜崎による設計らしい。浜崎家の庭は、造り手としての健二の心に感嘆の溜息を漏らさせた。

「こんにちは、お父さん、お母さん。お邪魔します」

 玄関の扉を開けると同時に、律保が中に向かって挨拶をした。それが健二の耳には、ひどく他人行儀に聞こえた。

「いらっしゃい、二人とも」

「おかえり、律保。呼び立ててすまなかったね、松枝君」

 そんな声と律保の視線に促され、健二は玄関のたたきへ一歩を踏み入れた。

「初めまして。松枝健二と申します」

 そう自己紹介して深く頭を下げた途端、一気に緊張が走った。自分の予想以上に声が上ずり、土産に持って来た菓子折りを差し出す両手がいきなり震え出した。肩書きを告げることなく、自分の名だけを口にする。その行為が初めて健二に、“律保の親と対面する”事実を強く意識させた。

「まあ、こちらがお呼び立てしたのに。却ってお気遣いさせてしまって」

 律保とはまったく印象の違う、おっとりとした穏やかな声が頭上から降った。

「そう固くならず。ほら、頭を上げて。玄関先でいつまでもなんだから。さあ、二人とも上がりなさい」

 浜崎はまるで娘の友達を出迎えるような気楽さで健二と律保を促した。


 客間に通された健二は、浜崎と向き合う恰好で茶の用意をしている女性陣を待つことになった。

「律保がケガをしたときには、随分お世話になったそうで」

 浜崎はそう切り出すと、ばつの悪そうな苦笑を浮かべて、白髪混じりの頭を掻いた。忘れ掛けていた“賠償”という懸念が再燃し、健二の心臓が一気に跳ねた。

「実はつい最近、家内を通じて知ったばかりで。こんな遅まきの礼になってしまい、本当に申し訳ない」

 浜崎は、その言葉さえ「言い訳がましい」と自分で自分を叱っていた。そんな低姿勢を貫く彼の額には、優しげな横皺が数本宿っている。寂しげに微笑むまなじりには、小鳥の足跡を思わせる小皺が浮いていた。それらから彼の人柄を垣間見たら、息苦しいほどに上がった心拍数が次第に本来の落ち着きを取り戻していった。

「とんでもないです。自分が彼女を驚かせてしまったせいでケガをさせてしまったようなもので」

「怪我の功名、とでも言うのかね。君と親しくさせてもらってから、律保が随分と私に対して打ち解けてくれるようになったのだよ」

 浜崎は、一度きちんとまみえて礼を伝えたかった、と面映そうに言った。今日の赴きはそれを受け取るためだったのだろうか。だが浜崎夫妻の立ち居振る舞いなどからは、そういった意味合いで人を呼びつけるような高慢な人柄ではなさそうにも感じられた。

「ご両親を幼少のころに亡くされて、相当なご苦労されたとか。それにも関わらず、まっすぐに生きている人だと伺っています。あとで家内と苦笑いをしましたよ。まさかあの律保からのろけを聞かされるとは思わなかったのでね」

「え」

 その瞬間、言葉を失った。途端に頬が熱くなる。実家とは疎遠にしているという律保の言葉を信じ切っていた健二は、律保が養父である浜崎にまで自分のことをそのように話しているとは思ってもみなかったのだ。ただ一つ、そう覚られる可能性があるとすれば、自分の中に燻る疚しさや後ろめたさが、年の功に見抜かれた場合のみ、と思っていた。

「君が好青年でよかった。これでも一応、父親のつもりではいるのでね」

 浜崎はそれだけ言うと、見ている健二の胸まで痛くなるような寂しげな微笑を再び浮かべた。口許だけがゆるやかな弧を描く、しかし眉間にひっそりと浮かぶ縦皺。諦めと自罰の混じるその苦笑に、どんな意味がこめられているのかなんとなく察せられた。

「律保さんは、浜崎さんのことを話すとき、当たり前のようにお父さんと呼んでいます。家族の話として普通に話題にのぼります。自分は肉親がいないので、時々羨ましく思うくらいです」

 健二がありったけの笑みを湛えて本当のことを伝えると、浜崎は「そうですか」とだけ呟き、遠い目をして微笑んだ。

「二人とも、お待たせでした」

 開け放たれた客間の入口からそんな声が聞こえると同時に、律保と母親が入って来た。母親が「お持たせですけど」と軽い詫びを入れながら、応接テーブルに柏餅と冷えたグリーンティーを“二つ”置いた。

「それじゃあ、お父さんと私は書斎へ行くわね」

(え?)

 健二が驚いて律保を見上げると、彼女は母親がトレイで運んで来たものと同じものを手にしたまま、母親に視線を返していた。

「お母さん、話が終わったら内線をお願いね」

 律保の流した視線の先へ健二も目を向けると、儚げな微笑が健二の視線を迎えた。

「お呼び立てしたのは、私なんです。律保ったら相変わらず要点しかお話していなかったようですね」

 彼女は浜崎の前にも関わらず、

「岩田剛三の前妻で、浜崎千鶴と申します」

 という言い方で自己紹介をした。

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