06. しゃぶしゃぶ鍋
平成九年二月。年が明けてから今日までの日々は、剛三を精神的に疲れさせた。
「ふぇ~……」
粗方の荷造りが済んだところで、くたびれた溜息をつく。あと数日でこのアパートともおさらばだ。剛三は、そのきっかけとなった昨年の暮れに思いを馳せた。
健二と喧嘩をした師走のあの日、剛三は下請仲間の葦原に苦い顔で説教をされた。
『ちったあ松っちゃんの気持ちも汲んでやれや。あいつだって、そういつまでもガキじゃねえ。だいたいおめえさんは、過保護ってえのが過ぎるんだよ』
ちゃんと事実を打ち明け、一緒に解決方法を考えろと言われた。葦原に改めて「松っちゃんはもう四捨五入で三十の、いい大人なんだぜ」と言われ、その年齢の自分を振り返らされた。自分がその年ごろには身を立てていた。千鶴と祝言を挙げ、仕事は次々と舞い込んでいて――これまでの人生の中で、最も充実している年ごろだった。
面目ない。その想いが剛三の頑なさを和らげた。健二が羽ばたけないのは、自分がいつまでも子供扱いしているせいだと感じられた。
(ガキ扱いっつうより、俺がしがみついてたってえだけのことだな)
翌朝、剛三を迎えに来た健二に、葦原の仲介を挟んだ上で包み隠さず現状を話した。
『親父さん、親父さんが話してくれて、俺、今すごく嬉しいです』
意外にも健二は驚きを見せず、清々しい顔で笑みを浮かべた。
『実は、俺も親父さんに謝らなくちゃいけないことがあったんです』
そんな切り出しで打ち明けられたのは、剛三にとっては朗報以外のなにものでもなかった。
『竹内工務店から……そうか、そうか』
『そういう事情であれば、あちらからの申し出を喜んで受けようと思います。一緒に借金を返していきましょうよ。俺、まだ親父さんに学費を全額返せてないし。そうしましょうよ、親父さん』
その言葉を聞いて、剛三は今にも零れそうになったモノを堪えようと、下唇を思い切り噛んだ。それでも視界が、悔しいほどぼやけていく。剛三は堪りかねて、ぐいと目許を袖口で拭った。
『ゴウよ、松っちゃんもこう言ってるんだしよ。ちったあコイツに花ァ持たせてやれや』
剛三の意地っ張りをよく知る葦原は、そんな言い方で首を縦に振りやすくしてくれた。
前夜に健二へ解雇を言い渡したものの、次の職を見つけるまではキッチリ面倒をみなくてはと思っていた。だがその具体案を見い出せずにいた剛三は、健二と喧嘩をしてからその瞬間までずっと頭を悩ませていたのだ。だが、これで健二を路頭に迷わせる心配が完全に消えた。その安心感が、剛三に「よかった」と「すまねえ」を繰り返させた。
葦原が五百万のうち二百万を貸してくれるという。健二は、なけなしの貯金を貸してくれた。情けないと繰り返し零す剛三に、二人は口を揃えて「自分が今までしてもらって来たことへのお返しだ」と言って笑った。
同じころから関係会社を訪ね回り、廃業の報告とともに「支払いを待って欲しい」と平謝りで頼み込む毎日を送った。世話になっていたリケン設備の社長が、「体で払え」と豪快に笑い、雇用の約束までしてくれた。
「こんなくたびれた親父でしかないってえのに。ありがてえこった。ホントに、ありがてえ」
人の厚意をひしひしと感じるようになってから随分久しい。剛三にそんな気持ちを教えたのは、千鶴が初めてだった。改めて剛三は思う。
(失くす前に気付いときゃよかったなあ)
自分の知らないところで、千鶴がどれだけ自分を支えていたか、ということを。千鶴を失って初めて、彼女が尽くした内助の功を思い知らされた。千鶴こそが、剛三に他者への感謝の表し方を教えてくれた。なのに、彼女自身に「ありがとう」と伝えるどころか、散々口汚く罵ってばかりいた。
(空威張りして千鶴を落ち込ませることで、てめえの底上げしてたんだろうなあ。我ながら、情けねえ)
千鶴の賢さと美貌が、中卒で醜い容姿の剛三にとっての脅威だった。あんなにも惚れた女だったはずなのに、彼女を家に閉じ込めて見下し、哀しげに涙を浮かべる千鶴を見ては安心していた。もっと学歴が高くて稼ぎのいい色男にいつか横取りされてしまうのではないかと、常に不安を抱いていた。いつか自然と和らぐものだと思っていたのに、律保が生まれても、ともに過ごす年月を重ねてみても、いつまでも不安と恐怖が拭えなかった。剛三は若いころを思い返すたびに、千鶴と律保の幸せを強く願う。自分が不幸にしてしまった分、自分のような男とは正反対の人間に囲まれ、常に笑って過ごしていて欲しいと心から思う。
離婚してから十三年、千鶴や律保から行方をくらまして四年。その長い時間の中で、いつも剛三の中で燻っている後悔は、当て付けのように家を出てしまい、千鶴に礼と詫びを言えないままになっていることだった。
引越しを手伝ってくれるという健二に合わせて引越し業者を手配したものの、手持ち無沙汰でつい早めに荷造りをしてしまった。リケン設備への出勤は、年度始めからでいいと言われている。健二は早々に竹内工務店へ履歴書を出し、即採用されたために平日は忙しい。
「忙しいのは、仕事だけじゃなさそうだがよ」
竹内工務店への再就職の打診とともに報告された内容を思い出したら、つい照れ臭さに頭を掻いた。
『それと、ですね。もういっこ、親父さんに報告しておきたいことが』
帰りの道中で健二に報告されたのは、例の娘と交際を始めたという朗報だった。その娘も健二と同じく、四月から設計の別の課へ異動になるらしい。一緒にがんばろう、と言われたそうだ――公私、ともに。
なかなかの才女らしいが、正直、まだ少しだけ心配な点も残っていた。
『親父さんと会って欲しいって言ったんですけどね、断られちゃったんすよ。すみません』
その娘はキャリア志向で、ようやく希望の部署への異動が決まったばかりだという。彼女は健二に、「今は仕事を優先したい」と言ったそうだ。
「最近の女はわかんねえからなあ。松っちゃんが弄ばれてるんじゃなきゃあいいが」
そんな愚痴が思わず漏れる。このごろ独り言が多くなった。十数年前であれば必ず返って来る合いの手が、ここ数週間は妙に恋しく感じられる。
――お父ちゃんたら、またお節介虫がうずうずしてるんですね。
そう言いながら少しだけ眉根を寄せて、ゆるい弧を描く千鶴の目が好きだった。母親にさえ向けられたことのない、甘えを許しているような、ゆるやかな曲線に惚れていた。
「早まっちまったかなあ」
それは、懐かしいあの家の近くに部屋を借りたこと。あって当たり前だと思っていた家族が消えてしまい、初めてそれが当たり前ではなかったと気付かされた。年のせいだろうか。あのころが懐かしくて、せめてかつて暮らしていたあの土地で余生を過ごしたいと強く望んだ。剛三は、「律保へ相続の手続きをするなり、養育費の足しにするなり好きにしろ」と言い捨てて千鶴にくれてやった、一戸建の近所を終の棲家として借りていた。
三月に入って最初の週末。たった一つの大物私財となった軽トラックで転居先へ向かう。引越し社のトラックを先導する形でハンドルを握るのは、健二だ。
「親父さん、ホントにこいつの手続き、ちゃんと済ませておいてくださいね」
健二がそう念を押すのは、これでいったい何度目だろう。軽トラックの名義を健二に変えておけというのだ。最後まで面倒を見る、というのが持論の剛三にとって、それはありがたい申し出ではあったが。
「わあってるよ。けどよ、もう十万キロ走ってるオンボロ軽だぜ? 借金も返さずに車を転がしてるって思われちゃ敵わねえって理屈は解るけどよ。だからって何もおめえがこいつを世話する必要はねえだろ」
そして剛三もまた繰り返す。車輌維持費もバカにならないことや、特に最近仲よくやってるらしい彼女から見たら、軽トラックよりもセダンのほうが具合がいいだろう、といった類の差し出口。
「こいつのお陰で彼女と会えたんですよ。長年俺たちと一緒に働いてくれたんだし、俺自身がこいつを廃車にしたくないんです」
前を見ながらそう返す健二の横顔が、はっとしたように目を見開いた。
「あ、それにね。親父さん、荷物が少な過ぎますよ。布団もずっと替えてないし、買い出しや何やらで当面こいつがないと不便だと思うっす」
取り繕うように言う横顔が、語りながらもこちらを向いた。垂れた目尻がさらに垂れて、困った末の縦皺が健二の眉間に浮かんでいた。
「わあったから、前見ろ、前っ」
「あ、はい」
どうも最近、健二と話していると首筋がかゆくなってしょうがない。剛三は心の中でそうぼやきながら、爪を立てて首の横を掻いた。
目的地が剛三の視界に入って来た。木造二階建、築四十五年の六畳二間。それが剛三の終の棲家となるアパートだ。遠目でもよく分かる壁のひび割れを目にすると、剛三はくたびれたこのアパートと自分がよく似ている、とふと思った。
だがそんな感傷も、アパートが更に近付いたとき、一気に消し飛んでしまった。
「な、んで、だ?」
形ばかりのアコーディオンドアがついたアパートの門前に、一人の熟年男性が立っていた。少し、いや、だいぶ前髪の生え際が上がっているものの、見間違えるわけがない。一時期はあんなにも妬んだ白いシャツ。頭脳明晰な気性を全身から漂わせている独特の雰囲気。昔と変わらない柔らかな眼差しが、銀縁眼鏡の向こうで温和な心持ちを溢れさせていた。
「松、車を停めろ」
口が勝手に動いていた。剛三は逃げるつもりでシートベルトに手を伸ばしたが、震え出した手がなかなかシートベルトを外せない。剛三がもたもたしている間に、軽トラックが男性の前で停車してしまった。
「はい、停めましたよ」
「てめえ」
健二の目を見て、これが彼の企てだとようやく覚った。だが判ったのはそれだけだ。いつの間に、どうやって、健二が突如現れた目の前の男と知り合ったのかがわからない。
「よう、剛ちゃん。やっと掴まえたぞ」
健二がエンジンを切った途端に聞こえた声は、まるでつい昨日も会ったような声音だった。気のゆるんでしまいそうな懐かしい呼び名が、佇んでいた初老の男を剛三の旧友だと確信させた。
「なんでてめえがここにいるんだよ……福ちゃん」
剛三は、らしくもないか細い声で、四年前に自分から一方的に音信を断った福岡の愛称を口にした。
かつては自分が住んでいた地域にも関わらず、剛三は駅前周辺の街並をまったく知らなかった。福岡のほうがこの辺りに詳しく、剛三を商店街の細い路地を入ってすぐにある小さな喫茶店へ案内した。剛三は大通りに立ち並んでいた若者好みな洒落たコーヒーショップが苦手だ。福岡は昔から、こうやって何も言わずとも察してくれる。そのありがたさを当時の自分は解っていなかった。そんな過去の自分に対する口惜しさが、少しずつ剛三のまとった心の鎧を外していった。
「まあ、なんだ。その、いろいろと、なんてえか……悪かった」
両手を膝に置けば、自然と頭が真下に垂れる。触れた手が、膝頭を強く握りしめた。その勢いに耐えかねたのか、古びた椅子がキシ、と小さな悲鳴を上げた。
「なんだ、剛ちゃんらしくもない。殊勝な態度は似合わないぞ」
福岡はそう言って笑ったあと、水を運んで来た老店主にアイスティーを二つオーダーした。一つは彼好みのミルクティーで。もう一つはストレートで、と。
「茶に混ぜもんなんか、っつって喧嘩したのを、まだ覚えてやがるのか」
もう三十年近い昔の話を、つい自分から振ってしまって唇を噛んだ。
「ああ。あのころが、一番お前さんを妬んでいた時期だったからなあ」
「妬む、だと?」
剛三の問いに福岡が答えるよりも早くアイスティーを運ばれ、その間の沈黙が少しだけ剛三の気持ちを落ち着けた。
「俺がまだ貧乏研修医のころだったな」
老店主が立ち去ると、福岡は落としたミルクをストローで掻き混ぜながら、懐かしげな微笑を浮かべて昔を語った。
「当時の恋人に結婚を迫られていた。まだそれは無理だと言って、彼女を泣かせた自分が情けなかったよ。剛ちゃんは同い年なのに、もう身を立てていた。ちづちゃんというかわいい嫁さんももらって、彼女の腹にはりっちゃんがいた。親友だと思いながら――目障りなやつだとも思っていた」
福岡がそんな思いを吐露するころには、まるみを帯びた微笑が自嘲へと変わっていた。
「買いかぶり過ぎだ。俺はそんな大したやつじゃねえし、てめえはてめえ自身をまるで解っちゃいねえ」
「いや、お前さんが僕に劣等感を持っていたのは知っていたよ。今なら解る。あのころの僕をどうにか前へ進ませていたのは、お前さんが僕を認めてくれていたからだ。僕が嫉妬するほど認めているお前さんが、僕を自分以上だと妬むほど認めてくれている。それが当時の僕にとって、唯一の原動力だった」
そんな告白と同時に、剛三へまっすぐな視線が向けられた。剛三は咄嗟にその視線から逃げ、アイスティーを一気にあおってごまかした。
「だからお前さんが突然消えたとき、ひどく動揺したよ。とうとう見限られたのかと思ってね」
そして福岡は、剛三が頭の中でのみ浮かべていた疑問について答えた。
「だが、偶然松枝くんと知り合えたお陰で、そうではないと知ってほっとしたよ」
解っていないのは剛ちゃんのほうだと言って彼は笑った。銀縁眼鏡の向こうに見える穏やかな瞳は、幼いころと少しも変わらない。これからも「福ちゃん」と呼ぶことを許しているかのように見えた。
「まったく、相変わらず不器用なやつだ。五十路を過ぎても、まだそんな青臭い劣等感を持ち続けていたとはな。四年前のあのときも、昔のように率直な形で僕を殴りに来ればよかったのに。そうしたらお互いの誤解もその場で解けて、途切れることなくいい飲み仲間のままでいられただろうに」
福岡はそう言って、半分になったミルクティーをゆっくりとストローで吸い上げた。グラスの氷が心地よい音色で、彼の加勢をするように優しく剛三をとがめた。
「松枝くんがうちのクランケと接触事故を起こしてくれたお陰で、ようやくお前さんの居場所を突き止めることができた。それだけじゃなく、こうしてまた話すこともできた」
健二の乗ったトラックのナンバーが、四年前に見たことのある剛三の軽トラックと同じだったことがきっかけだったと福岡は種明かしをした。世間話のオブラートに包んで健二に日常を尋ねてみれば、素直な彼は福岡に隠すことなく身の上を語ったそうだ。彼の語る“親父さん”の人柄を聞くに従い、それが剛三のことだと福岡に確信させた。
「だから、松枝くんを叱らないでやってくれよ。僕が事情を打ち明けて随分としつこく食い下がったのだから。彼も困った末に転居先を教えてくれたのだろうからね」
相も変わらず先読みしては、やんわりと導く福岡の口調。そんな理想的な人物像なのに、自分などを妬んでいたという。自分が最も妬み、同時に憧れでもあった親友の吐露が混乱を招き、剛三を沈黙させていた。
「ああ。また僕ばかりが喋ってしまったな。剛ちゃん、何やら今は大変らしいじゃないか。僕にできることはないかい?」
若いころの罪滅ぼしをしたい。福岡は剛三の意地を取り払おうと試みる言い方で、剛三の置かれた状況についても知っている、とにおわせた。
「別に、ねえよ。てめえのケツは、てめえで拭く。拭い切れなかった今のてめえが情けねえとは思うが、いずれ松や仕事仲間にも義理を返していくつもりだ」
「そうか。では、ちづちゃんのお節介として、一応預かって来たこれを渡しておこう」
福岡がそう言って取り出したのは、見覚えのある古い黄ばんだ封筒だった。
「千鶴が? ってえか、そいつは」
「そう。お前さん名義の家と土地の権利書だ。ちづちゃんにお前さんの近況を話したら、“お父ちゃんにこれを渡して欲しい”と言って医院を訪ねて来た」
一緒に添えられたのは、真新しい土地と家屋の登記簿の写し。福岡はそれをテーブルに乗せ、ずいと剛三の前に差し出した。
「少しずつりっちゃんに名義変更されているのは、お前さんが認め印を押しているから知っているな。その当時のまま、まだ半分ほどがお前さん名義になっている。りっちゃんが相続放棄をしないことで、あの家を取り上げられることなくお前さんの財産として温存できる。どうにもならないときには、これを持って法務局を訪ね、必要書類をもらって来るといい。りっちゃんが相続放棄の同意をするそうだ。担当にこれを見せれば必要書類をそろえて渡してくれるはずだ」
――ちづちゃんは、剛ちゃんからの連絡を待っているよ。
福岡がそんな気になる言い回しで、千鶴からの伝言を口にした。
「連絡、って……そんなこたあ、あるわけねえ。おめえ、何を企んでやがるんだ」
せわしなく働き始めた心臓が、痛い。それをごまかそうと笑ったつもりが巧く笑えない。空気だけが、間抜けな音を立てて鼻から漏れた。
「何も企んじゃいないさ。ただ、第三者として、お互いがちゃんと顔を見て話し合うべきだと感じているから、ちづちゃんの意向をこうして伝えているだけだ」
千鶴は剛三に罪悪感を抱いているという。福岡へ吐き出した千鶴の思いは、剛三にとって想定外の心情だった。
「なんであいつが、だってよ、俺があいつを散々」
「愛する男を待ち続ける生活ではなく、愛してくれる男とともに過ごす生活を選んだ自分の選択に悔いはない。だが、あまりにも勝手が過ぎた、と言っていたよ」
“愛する”。そのくさい言葉に、剛三の頬が熱く火照った。無意識にグラスへ手が伸びる。
(あ?)
口をつけたときに、ようやく空っぽだったことを思い出した。
福岡はそんな剛三のうろたえる様を見て目を細めた。
「いつか穏やかな気持ちで会える日が来そうであれば、彼女に連絡してやってくれ」
福岡はそう締めくくると、千鶴の携帯電話番号が記された紙を登記簿の上に重ね置いた。懐かしい千鶴直筆の文字を久しぶりに見た。電話番号に添えられたメッセージを見た瞬間、剛三は首に掛けたタオルで乱暴に顔をこすった。
――あの家と律保のことで、お父ちゃんに相談したいことがあります。
浜崎も、お父ちゃんに相談すべきことだと同意してくれています。
勝手を申してばかりの私どもで大変恐縮ですが、どうか連絡をくださいませ。
浜崎豊・千鶴――
まだ、自分を律保の父親だと認めてくれている。一番難しい年ごろの律保を丸投げして逃げた自分に、浜崎までもが譲歩を認めてくれているという。
身に余るほどの二人の厚意が、剛三に顔を拭わせた。
福岡にねだられ、二人で古巣のあった場所を眺めに行く。千鶴や律保と過ごした懐かしい元我が家は、あのころを思い出させる姿かたちのまま、変わらずに存在していた。てっきりあばら家になっているとばかり思っていたその空き家を、福岡と二人、なんとはなしに見上げた。
「剛ちゃん、僕は心の中で、何度もお前さんを裏切った」
そう零した福岡は、続けてぽつりと剛三に訊ねて来た。なぜ千鶴が自分にここまで胸の内を明かしてくれるのか気にはならないのか、と。
「おめえが千鶴に横恋慕してたのは知ってたぜ。亭主の親友面で千鶴にちょっかい出そうとしてたのもな」
「どうしてあのとき、殴らなかったんだい?」
「てめえに自信がなかったからよ。おめえならしょうがねえ、ってどっかで思ってたんじゃねえか? もしあのころ千鶴の気が変わってたら、おめえじゃなく千鶴に手を挙げてたかもしれねえ」
ちっせえ男だった、と過去の自分を鼻で哂う。視界の隅に、あんぐりと口を開けて大きく目を見開いた福岡の間抜け顔が映った。
「ンな顔してんじゃねえよ。結局全部、昔話じゃねえか。何より俺にゃあ、もうおめえを殴る権利がねえ」
その権利があるのは、浜崎豊という千鶴の亭主だけだ。そんな意味合いの返事を彼に吐き捨てると、「そうだな」という小さな答えが返って来た。
「お互いに、若かったな」
「おう、思い出すのがこっ恥ずかしいくらいにな」
やることなすこと、考えること。足掻いたことさえも、遠い過去のこととして、懐かしさを伴う気恥ずかしさで剛三の脳裏を過ぎっていった。気付けば口角がやんわりと上がり、あんなにも意地になって虚勢を張っていた相手に、思ったままを口にしていた。
「すっかりあばら家になっちまってるとばかり思ってたぜ。意外と小綺麗なまんまで、なんてえか……ありがてえ話だな」
子供部屋だった二階を仰ぎながら、剛三が呟いた。
「管理費を払って、手入れをし続けているそうだよ。ただ、壁だけはどうしても触らせたくないんだと。少々残念な状態になっているのが可哀想だがね」
その理由が痛いほど解る。千鶴が今も変わらず、自分を左官職人として一番の腕だと認めている。それを知らされたら、また視界が揺らぎ始めた。
「剛ちゃんも年だなあ。随分と涙もろくなったもんだ」
「うっせえ」
剛三は乱暴にそう吐き捨てると、首に掛けたタオルで顔をごしごしと拭った。
「美味い寄せ鍋の店を知ってるんだ。一杯引っ掛けながら、さっぱりとしたしゃぶしゃぶでもどうだい?」
福岡が悪戯っぽくそう言えば、剛三も負けじと言葉を返す。
「付き合ってやるか。だんまりだらけの生意気な小僧に、ちっと灸を据えてやる意味でもな」
どちらともなく、苦笑を零す。健二には随分と損な役回りをさせていると心の中では詫びるのだが。
「松枝くんは今ごろ、僕らがどうしているか気になって仕方がないだろうね。お前さんのことばかり案じる孝行息子だから」
そんないたわりの言葉を吐くくせに、剛三の肩を抱く。
「おめえも相変わらず底意地の悪い野郎だな」
けっ、と鼻で笑いながら、剛三もまた福岡の向ける歩みに合わせ、アパートとは逆方向の大通りに向かって歩き始めた。