05. すき焼き鍋(3)
安田が店を立ち去ってほどなく、律保と健二も店を出た。すっかり食欲が失せてしまい、気まずい沈黙に耐え切れなくなったせいだ。健二も恐らく同じ心境だったのだろう。律保が促した「私たちもそろそろ出ましょうか」という言葉を聞くと、小さく頷きながらすぐにブルゾンへ手を伸ばした。
二人とも黙ったまま、疲れた足取りで家路を辿る。
「それじゃ、おやすみなさい」
健二と出逢うきっかけとなった三叉路で、彼が力なく笑って別れの挨拶を告げた。T字路をまっすぐ歩いて数分ほどで、律保の住むアパートへ辿り着く。角を曲がって一分も歩けば、健二の暮らすアパートだ。律保は、自分の返す挨拶も聞かないまま家路に向かう健二の後ろ姿を見送りながら、どちらの道を選ぶか迷っていた。T字路に立ち尽くす律保の右足のつま先は、自分のアパートを指し示している。
「……健ちゃん」
次の瞬間、律保の右足が、左足の向けた道と同じほうに向けて思い切り路面を蹴った。
「健ちゃんっ。待って」
深夜の住宅街に、ヒールの靴音が響く。カツカツと響く音が、あっという間に駆け足になっていった。
「どうか、しましたか?」
健二が追いついた律保を振り返った。泣いているように見えた背中は、気のせいだったのだろうか。律保を見下ろす健二の目に、涙は浮かんでいなかった。
「あ……えっと」
見下ろして来た彼の醒めた目を見て、律保は言葉を失った。そんな眼差しを向けられたのは初めてだ。心臓がどくんと大きく脈打ったかと思うと、真冬なのに嫌な汗が背筋を伝った。
「せっかく久しぶりに顔を合わせたのに、健ちゃんってば、ほとんど安田と話してて、その、だから」
彼の細い目が更に細まり、目尻がもっと下がった。
「寄っていきますか? お茶くらいしか出せませんけど」
いつもの柔らかな口調を聞いて、律保はそっと心の中で胸を撫で下ろした。
(気のせい、だったのかな)
律保は首を縦に振って健二の隣を歩きながら、一瞬感じた冷ややかな視線を無理やり心の中から追いやった。
六畳一間とキッチンだけしかない、慎ましやかで小さな健二の住まい。彼がたった一つしかないその部屋に、たたみテーブルを出した。その間にお茶を用意しようと、律保は彼に声を掛けた。
「健ちゃん、お茶ってどこにあったっけ」
「あ。ええと、ペットボトルの麦茶なら、冷蔵庫にあります」
「いただくわね」
律保は彼の返事を待つこともなく、二人分の麦茶をグラスに注いで用意した。
「お茶くらいしか出せないけど、なんて言っておいて、律保さんに出させてますね、俺」
すみません、と頭を下げる健二に、いつものお説教を並べ立てた。
「だから。どうしてそうやってすぐに謝るの? 私には気を遣わなくていいって言ったでしょう?」
グラスを健二の前に置き、グラスから健二のほうへ視線を上げる。
(え……?)
気のせいだと言い聞かせた冷ややかな視線が律保を固まらせた。皮肉な彼の微笑が律保の唇を凍らせた。
「律保さんが気を遣わなさ過ぎるんです。三好さんに泣かれちゃいますよ」
三好。律保より二年後輩の新人社員だ。安田が人間的にほとほと手を焼いている、自分から仕事に取り組むことのできない受け身なスタンスを貫く子だ。ただし、業務に関してのみ。遊びに関しては貪欲なほど率先したがる、律保から見ると苦手なタイプの男性社員だった。
「今ここでどうして三好の名前が出て来るのか、まったく全然解らないんだけど」
律保の反論が尖った声で狭い六畳間の畳を這った。苛立ちがふつふつと沸いて来る。さっきまでの、壊れてしまいそうな健二がどこにもいない。律保と健二の間に、小さな簡易テーブル以外の何かが立ちはだかり、大きな溝が横たわっている錯覚に陥った。
「先週、竹内工務店に行ったんですよ。安田さんに呼ばれて一緒に昼飯を食ったんです。律保さん、三好さんとのおしゃべりに夢中だったから、俺らがパーテーション越しで隣のテーブルにいたのに気付いていなかったでしょう」
「え……」
先週の記憶を必死で辿る。確か三好が大学時代の仲間内と合コンをするので、人数合わせのために律保にも来て欲しい、といったような頼みごとをされていた。「参加費はない」とか、「三十オーバーお断りだから律保さんならまだギリギリOK」だとか、「律保さんにとってもチャンスでしょ。これで人事部長に行かず後家なんて言われなくて済むんだから」とか、かなり失礼なことも言われた気がする。
「なんか、すっごい腹の立つことまで思い出したんだけど。どうして声を掛けてくれなかったのよ」
律保は吐き出すようにそう言って、苛立ちごと麦茶を流し込んだ。
「彼は律保さんの気性をよく解っていますよ。ムキになればなるほど、余裕を見せて引き受ける。困っている人を放っておけないってことも。受付の後輩さんと交代で、律保さんが先に席を離れたでしょう。あのあと、その後輩さんが三好さんにお説教をしていました。“はっきり言わないと岩田先輩は鈍感だから伝わらないよ”って。……あなた、無防備と無自覚が過ぎるんです。男の目に自分がどう映っているのか、っていうことに」
健二が一気に吐き出し、苦笑を浮かべる。あまりにも哀しげなゆるい弧を描く瞳に、律保は息を呑んだ。嫌な予感が警鐘を鳴らす。グラスを握った手が、そこから離せなくなるほど固まっていた。
「だから、健ちゃんが、何を言いたいのか、分からないん、だけど」
確かに、その頼みごとは結局引き受けてしまった。だが合コン会場で三好から「年齢のさばを三つほど読んで自己紹介をして」と言われた段階で帰って来た。翌日三好には、今後一切そういう相談をして来るなとも命令した。それ以来、三好とは仕事以外で一切の口を利いていない。
「そこまで健ちゃんに説明しなくちゃいけない、ってこと?」
そんなことが言いたいのではない。そう思うのに、かわいげのない言葉ばかりが律保の口を突いて出る。
――大切になさい。失ってからでは遅いのよ。
千鶴の言葉が、なぜか今思い出されて、背筋にぞくりと寒気が走った。
「そうだったんですか。……いえ、でもそうじゃなくて」
健二の首が、だらりとうな垂れた。ひどく疲れ切ったように背中を丸める。
「つくづく、自分が器の小さな人間だと思い知りました。性格の悪い、嫌なヤツだなあ、と。似非弟が聞いて呆れますよね。親父さんの夢を叶えることもできない。親父さんの力になることもできない。親父さんに殴られる覚悟も持てない。あなたが幸せならそれでいい、と割り切る勇気もない。……往生際の悪い、自分が、います」
彼の口からくすりと小さな自嘲の声が漏れた。
「また俺の早とちりか、って、今すごく情けない気分です。これからあと何回、こうやって律保さんを怒らせてしまうんでしょうね。そんなの、律保さんも勘弁して欲しいですよね。だから」
――もう俺と関わろうとしないでください。俺ももう二度と声を掛けませんから。
最後の一言が楔となって、律保の心臓を貫いた。
「……むかつく」
長い沈黙のあと、律保の低い声が部屋の中に響いた。
「律保、さん?」
いぶかる視線をぶつけて来る健二の目を睨み返した。
「むかつく、って、言ったの」
二人を隔てる簡易テーブルを、邪魔とばかりに脇へずらす。
「勝手にお父ちゃんの人生を背負い込んで、それを拒まれたからって自暴自棄になって」
じりじりと膝をにじらせて、健二との距離を詰めた。律保は、たじろいて後ろへ身をずらし掛けた健二の襟首を両手で掴んだ。
「り」
「綺麗事を言って人畜無害な顔を見せてばっかで、今になって鈍感な私のせい、ですって? ほんと、君ってむかつくわっ」
ぐいと掴んだ彼の襟を引き寄せる。至近距離になった彼の目を見据え、衝動のままに吐き出した。
「恋愛なんて、女を男にとって都合のいい存在に成り下がらせる負の感情でしかない。それが私の持論で貫き続けて来たことだったのよ。男なんて、女を家政婦や自分の欲求をホイホイ満たしてくれる母親代わりにしか思っていない生き物だと思って来たのよ。女でも男でもない、“私”という自分でありたかったのに。お父ちゃんなんてどうでもいいと思う自分のままでよかったのに。独りでも生きていけると信じていたかったのにっ。ほんと、君には腹が立って仕方がないわ。一から十まで、私の、貫いて、来た、モノ、を……っ」
心臓が、悲鳴を上げる。一つの自覚が律保の心拍数を、あり得ないほどまで上げていく。潤ませながら大きく見開かれていく健二の瞳に、律保はあえなく吸い込まれていった。
「君の、せいなん、だから……」
「律保、さん……」
「どうして、そんな簡単に……私のことまで、諦めちゃうのよ……」
「だって、俺は。……安田さんみたいに優秀でもないし、三好さんみたいに洒落たことも言えないし、それに」
「そういう君が……好きなのに」
腹が立つほど、君が好き。顔を見ては言えなくて、がくりと大きくうな垂れた。口にした途端、手から力が抜けていく。剛三の一大事に、何をばかなことを口走っているのだろう。きっと健二もそう思って呆れたに違いない。自分勝手でわがままな、本当の自分を晒してしまった。そう思うと顔を上げることができず、俯いたまま動けなくなっていた。
「律保さん、ごめんなさい」
予想もしていなかった穏やかな声が降り、優しく律保を包んだ。無骨で大きな手が長い髪を掻き分け、律保の濡れた左頬に温かな感触が宿った。
「何度も、言ったじゃない。君は独りじゃないよ、って」
ぬくもりが、律保を甘やかす。甘やかされるままに本音を紡ぐ。
「はい。ごめんなさい」
大きくて広い彼の左手も、律保の右の頬を撫でるように包んだ。
「私、少しずつだけど、健ちゃんみたいに、自分の昔を辿りながら、お父ちゃんとのこと、ちゃんと大人の目で見直そうって、がんばっているのよ?」
「はい」
太くてがっしりとした両の親指が、律保の目許から涙をくいと拭った。
「まだ、健ちゃんの望みどおりにお父ちゃんを受けとめ切れてはいないけど、だけど私、自分の記憶が曖昧だってことに気が付いたの。健ちゃんと一緒になら、ちゃんと思い出せるんじゃないか、って。いつか心が、お父ちゃんを受け容れられるんじゃないか、って。なのに」
「ごめんなさい。またネガティブになってました」
ゆるりと顔を上げさせる力が、健二の両手に宿る。促されるまま上を向くに従い、羞恥が律保の瞼を固く閉じさせた。
「待っていないで、自分からガツガツ、でしたっけ」
健二は律保が語ったすき焼きの心得を口にし、照れ臭そうに小さく笑った。その声が律保の鼓膜と、耳を覆った髪を優しく揺らす。
「でも、イヤだったら本気で逃げてくださいね」
その吐息が律保の唇をかすかにくすぐり、色気の“い”の字もない言葉は、律保をこそばゆい思いで悶えさせた。
「……ん……っ!?」
思わず大きく両目を見開いた。彼の閉じた瞼を飾るまつ毛が、こんなにも長いと初めて知った。唇に施されたそれは、恋愛映画さえ敬遠して来た無知な律保に、口は開くものだと甘く教えた。
「ん……ふ……」
全身が強張っていく。自然と彼の背に両の腕が絡みつき、シャツを強く握りしめる。いつ呼吸をすればいいのか分からなくて、息苦しさで更に強くしがみついてしまう。まるで、もっと深くとねだるような自分の仕草に、頬がかっと熱く火照った。
「……っはぁ! はぁ、はぁ……」
「律保さん、鼻で息しないと、死んじゃいますよ」
解放された途端、健二がそう言って苦笑した。返す言葉もない、というよりも、上がる息で声の一つも出せなかった。
初めてのキスは、麦茶の香りが仄かに漂う、甘くて渋くて、だけど少しだけすき焼きの味もした。