05. すき焼き鍋(2)
律保が予約した店は、健二と律保が住む町の駅前にある。律保が予約を入れている間に、安田が駅前広場で待ち合わせようと健二に連絡を入れたらしい。
彼と会うのはひと月ぶりだ。そう思うと律保の口角が自然と上向いていった。
待ち合わせた駅前広場のシンボルオブジェに目をやったが、まだ待ち人らしき人影が見当たらない。
「珍しい。健ちゃんが遅刻なんて」
そう呟く律保の声が、心なしか低くなった。
「なんか出先だったみたいだし。仕事の付き合いじゃないんだから、数分の遅刻くらい大目に見てやりなよ」
安田がそう返しながら、突然律保の顔を覗き込んだ。
「な、なによ」
「ひと月ぶりなのにー、健ちゃんってば私よりほかの何かのほうが大事なのー、ってか?」
「!」
銀縁眼鏡の向こうで、意味ありげに笑う瞳。そこに映った自分の表情を見た瞬間、咄嗟に安田の頬を叩いていた。
「いてっ。おまえね」
「安田がヘンなこと言うからでしょっ」
走ってもいないのに、いきなり心拍数が倍加する。
「まったく。健ちゃんも、こんなかわいげのない女のどこがいいんだかなあ」
と零して頬をさすっている安田の脇に、今度は肘鉄を食らわせてやった。
「すみませんっ、お待たせしちゃって」
そんな声で我に返り、安田とそろって声のほうへ視線をやる。
「健ちゃん」
「走って来たのか?」
律保と安田は、同時に呆れ返った顔で声の主を迎えてしまった。駅前広場に現れた健二は、ダウンジャケットを着ているにも関わらず、少しだけやせたように見える。この寒空の下だというのに、髪は濡れそぼっていた。彼の口から上がる浅い息が、暗い夜の中で真っ白に映えた。
「安田さんから、電話もらったとき、ちょっと、走り回ってたんで、汗、で、風呂、はぁ、ちょ、すみま」
「息吸え、息ッ」
「慌てなくてもよかったのに」
二人が口々にそう言うと、健二は膝に手を当てて屈めていた背筋をゆっくりと伸ばした。大きく深呼吸を繰り返す彼を見て、律保は苦笑を、安田は溜息を漏らした。
「健ちゃん、髪がびしょびしょ。風邪引くわよ」
律保はそんな小言と一緒にハンカチを取り出した。雫のしたたる健二の前髪をそっと包む。その程度で足りるはずがないのは充分に解っていた。だが、伸びた前髪の向こうで今にも泣きそうになっている彼の瞳がそうさせた。
(どうしたの?)
前髪をハンカチできゅっと握って絞りながら、安田には聞こえない小声で問い掛ける。健二は律保の問いには答えず、首を小さく左右に振るだけだった。
何はさておきと、三人で店に向かった。独りでは鍋料理を食べる気にならないと言っていた健二に味わってもらおうと思い、すき焼き鍋を頼んでおいた。
「へえ。すき焼きっていうのに、焼かないんですね」
アルコールと安田の飛ばす寒い親父トークの連発で、少し表情のほぐれた健二が感心した様子でそう言った。
「東日本では割下って言って、先に砂糖や醤油で作っただし汁に肉や野菜を入れて煮込むのよ」
律保がすき焼き鍋の中で煮立ち始めた野菜を器に盛りながら説明すると、安田が
「あれ? 松枝くんって地元じゃないのか?」
と健二に問い掛けた。安田の前に器を置く律保の傍らで、健二が彼に答えを返す。
「あ、いや、地元です。けど、言われてみれば、そうか。子供のころ世話になってた親戚が関西出身です。焼肉に直接調味料を入れるあれを“すき焼き”って呼んでました」
「すき焼きは、食べたことがあるのね」
律保がそんな合いの手を入れながら、健二の前に次の器をことりと置いた。
「野菜だけなら」
そう言って苦笑する、その意味を律保だけが知っていた。
「鍋と言えばお肉の争奪戦がセオリーでしょう。遠慮なんかしていたら、バカを見るのは自分よ」
冗談のオブラートで包み、彼の苦い過去を別の新しい思い出に差し替えようと試みる。
「そうそう。ぼさっとしてたら、横取りしちゃうよ、僕。ここの肉は特に美味いんだ」
何も知らない安田が、いい表現で合いの手を入れる。律保は膝立ちで身を乗り出して、鍋に肉を落としながらさりげなく顔を隠した。堪え切れない唇が、髪の内側でそっとゆるい下弦を描いていた。
「横取り、ですか」
「そうよ。健ちゃんも私に取ってもらうのを待っていないで、自分からガツガツ取りなさいよ」
「そうそう。肉は煮込み過ぎるとゴムになるからね。食いどきに食うのが、一番。ほい、いただきっ」
「あ、え、うそ。もう上げちゃっていいんですか」
「ひどい、安田。今入れたばっかりなのに」
二人で文句を言い終えるや否や、示し合わせたかのように三人同時に噴き出した。
「もう、白菜で境界線を作ってやる」
律保はそう言っている間にも、本当に野菜ですき焼き鍋を半分に区切ってやった。
「待てこら、律保。そっちのほうが広いじゃないか」
「私がお肉を入れている間に、どうせ安田が私の分まで食べちゃうんでしょう? それを見越した占有面積よ」
「占有面積とか、仕事かよ」
「あ、じゃあ俺が律保さんの分も確保しときますよ」
「さすが健ちゃん、安田とは違う」
「って、どうよ、健ちゃん、律保のこの言い草。上司を上司と思ってないよね」
そんな下らない会話の中、ちらりと隣を見下ろしてみれば。
「上司が部下の肉まで横取りするからですよ。安田さん、面白過ぎです」
健二がいつものように笑っている。律保はやっと心からの笑みを浮かべることができた。
安田は律保の予想どおり、今回も健二に竹内工務店への入社を促す演説を垂れた。その上今回は、設計部長に根回しまで済んでいるという。
「できるだけ早く、さっき渡した個人邸のプランと履歴書を持って来てよ。そのほうが君にとっても都合がいいはずだよ」
「ちょっと安田」
あまりにも強引な安田の誘いに、律保は堪りかねて口を開いた。だが安田は片手を上げて、律保の横槍を無言で制した。いつもならばそれに構わずまくし立てるところだが、彼の真剣な表情が律保を黙らせた。
「君は、君らのランクの業者間で“岩田左官店がヤバい”って噂されているのを知らないようだね」
「え……どういう、こと?」
律保の小さな問い掛けに、蒼ざめた顔の健二も、そんな彼をじっと見据える安田も、すぐには答えてくれなかった。うどんの煮え立つ鍋が、代わりとばかりにくつくつ言った。
「どうして、安田さんはご存知なんですか」
健二のものとは思えない低い声が、逆に安田へ問い掛けた。
「うん。普通だったら、君らのランクの業者と僕らのランクの業者間で、そこまでの詳細情報が交わされることってないよね」
聞きようによっては、竹内工務店の企業規模を誇示するような物言いだ。健二よりも律保のほうが、眉間に不快の皺を刻んだ。
「安田」
「律保は黙ってて」
安田の声が、いつもと違う。そして健二もまた、律保に対して無言で介入を拒んでいる。ただならない雰囲気に、律保は下唇を噛んで黙り込んだ。
「僕の設計に関するこだわりはね、施工可能かということだけでなく、完工後の管理も考えた上で設計すべきだ、っていうものなんだ。上の連中は、そこまで考えていたら何も作れないと哂うけれど、実績としてその持論が顧客からの高評価に繋がっていると自負してる。では、実質の部分を誰から学ぶのか、っていうと」
安田は手にしていた箸で、健二を指した。
「……現場で直接施工する業者から、ですか」
「正解。僕らみたいな机上でモノを作るだけの人間にはない、“経験”から得た知恵、というものを、君ら現場の人間はたくさん持っている。僕はこれまでずっと、職人さんたちと飲み話をしがてら、現実的な施工やメンテについてアドバイスをもらって来た。そんな話だけで終わらないのが飲み会の場所だろう? つい先日、岩田左官店が不渡手形を握らされたって話を耳にして、君がどこまで知っているのかと気になってね。今日の本題は、それだ」
律保は置き去りにされている鍋のうどんを同類と感じながら、そんな話を黙って聞いていた。
「だから、だったのか」
そう言ってようやく顔を上げた健二の前に、律保は煮詰まったうどんの入った器をそっと置いた。
「やっぱり親方さんやその仲間内からは、何も聞かされていなかったみたいだね。“だから”って?」
「今日、突然“次の仕事を探せ”って……クビにされたんです」
律保は二人の会話を聞きながら、安田と自分にもうどんを盛りつけ、それから鍋の火を消した。とてもではないが、うどんの替え玉を頼む雰囲気ではなさそうだ。
「俺、いったい何をやらかしたんだろう、って。親父さんを怒らせた理由がわかんなくて」
問い詰めても剛三は、「てめえは土蔵のなまこ壁も満足に仕上げられねえじゃねえか、使えねえ」の一点張りだったらしい。
「確かにそうだけど、そんな理由だけでクビにする親父さんじゃないんです。今までいた職人さんたちにだって、“全員の給料を下げちまうのは申し訳ないが、一緒にがんばってくれねえか”って。そういう人、なんです。結局家族を養っていけないからって、向こうから辞表を出して来ちゃったくらいで。親父さん、言うだけ言ったら飛び出して行っちまって。それでずっと捜し回ってて。葦原の大工さんから預かってるって連絡を受けて、ちょっとほっとしたところで安田さんが電話をくれたんです」
「そうだったのか。で、親方さんは?」
「電話にも出ないし、葦原の大工さんもなんにも教えてくれなくて。“今夜は預かるから、親父さんが落ち着くまで少し待て”って。明日迎えに来いって言われました」
「そっか。まずいときに誘っちゃったね」
「いえ、全然、その逆で。独りでいるのはちょっと、とか思っていたから……あの、声を掛けてくれて、ありがとうございました」
「松枝くんさ、確か今年から営業を任されたって言っていたよね?」
「はい」
「その前までは?」
「親父さんから言われたところだけ……主に、個人とか、竹内工務店さんほどのでかい会社じゃない工務店とか」
「そのほとんどが、親方さんと仲良くしてるところだったんじゃないか?」
「……そう言われてみれば……そうかも、しれません」
「君さあ、ゼネコンクラスがブローカーを端折って君らクラスの業者に直接発注なんかしない、っていう暗黙のルールを親方さんから教わってないでしょう」
「そう、なんですか」
「そうだよ。つまり、君が竹内工務店に名刺を配ってても無意味だった、ということ」
安田は、健二の名刺を受け取った人たちは、竹内工務店の看板を外し個人として発注したい物件があるか、積算物価に掲載されたアベレージではなく実質原価を調査するなど、岩田左官店への発注とはまるで別の思惑から関わりを保とうとしていたのだろう、という私見を容赦なく述べた。
「親方さんが君の無駄足をとめなかったのは、君の関心を自分ちの経営に向けさせないため、といったところかな。お仲間さんもそれに便乗していたところを見ると、君に余計な心配を掛けたくなかったんだろうね」
安田が忌々しげに眼鏡をずり上げ、律保に鋭い視線を投げて来た。
「律保。お前から聞いていた話と随分違う親父さんだな。岩田の親方さんという人は」
律保の伝えた剛三しか知らなかった安田が、初めて律保に異論と糾弾の目を向けた。
二人の声と表情が、どちらも剛三の心配をしている。律保にはそれが解せなかった。
「仕事と心中だとしても、それがお父ちゃんの本望でしょう」
律保は負けじと安田に反論を返した。先の千鶴との会話で揺らいだ剛三のイメージが律保を気弱にさせる。だが、家庭をほったらかして仕事に明け暮れていた事実は確かだ。
「健ちゃんは人がいいから、なんでもいいほうへ受け取ってしまうのよ。私には、しくじった後始末を自分で拭えないから健ちゃんを見捨てただけにしか聞こえないわ」
疎外感が、勝手に律保の口を動かした。健二は俯いたまま、何も言わない。安田が呆れたように深い溜息をつくと、やり場のない憤りが律保の口にうどんを運ばせた。煮詰まって伸び切ったうどんは、これまで味わったことがないほどまずかった。
「ま、そっちの事情は僕が口を挟むことじゃないから」
安田は見切りをつけたようにそう吐き捨てると、健二のほうへ視線を移した。
「松枝くん。そういうことならさっきの話、余計に前向きな検討をしてくれないかな。岩田左官店ともよく仕事をしているリケン設備さんを知っているだろう。そこの社長が言っていたけど、何か仕事を回してくれって親方さんが言っていたそうだ。配管工事の手伝いでもなんでも構わない、って。秋口の話だ。元々経営が苦しかったんだと思う。親方さんの肩の荷を降ろしてやる、という意味でも、本気で考えてみて欲しい。親方さんは、本気で君を使えない人間だと切り捨てたわけではないと思うよ」
安田はそう締めくくると、ちらりと柱時計に目を遣った。
「さて、タイムアップだ。終電に乗り遅れないうちに、僕は失礼するよ。君たちはごゆっくり」
安田は結局うどんに手をつけることなく、コートを手にして立ち上がった。