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05. すき焼き鍋(1)

 律保(りほ)が慌しくしている間に、いつの間にか鍋の温かさが恋しい季節になっていた。

 健二とは、この一ヶ月まともに会っていない。電話で話をしたり、商店街で買い物をしているところを偶然会って話したり、という程度のことはあったが、秋口まで過ごしていたときのような濃い時間の共有はなくなっていた。


『あなたを、好きになってしまいました』

 健二からそう告げられたのは、二ヶ月と少し前。

『ありがとう。でも、私は恋愛に興味がないの』

 それが、健二の告白への精一杯の返事だった。

『私は母を見て育っているから。男の人に頼らないと生きていけない、なんて受け身な自分でいたくないの』

 男探しに来ているような女子社員に辟易としている。出世しそうな独身男性社員を、ハイエナのように虎視眈々と狙う同性を見て、同じ女であることに恥を覚える。そんな類の話をした。

『松枝くんといる時間は、好きよ。一番気楽だし、素の自分でいられるから。でも私は、ああいう女性たちと同じ穴のむじなには、なりたくないの。だから』

 君の気持ちには、応えられない。そう告げた瞬間、鼻の奥がツンと痛んだ。終止符を打つ鐘の音が律保の耳だけをつんざいた。

『わかりました』

 予想以上に滑舌のよい声が、とどめのように律保の鼓膜を揺さぶった。視界の片隅で、健二の大きな手がグラスに伸びていく。麦茶を一気に飲み干す音が、立ち去る合図としてダイニングに響いた。

『じゃ、似非弟、ということで』

『え?』

 決別宣言、という予想に反したその言葉が、律保の顔を上げさせた。その勢いの余り、律保の目尻から溜まっていたものがついと零れ落ちた。それがこめかみを伝い、律保の耳を湿らせた。

『安田さんに冷やかされて、ちょっと舞い上がってたかもしれません。もしかしたら、なんてね』

 見上げた先にあったのは、健二の吹っ切れたような笑顔だった。

『よかった。親父さんを裏切らなくて済みました。あの人、本当に娘バカなんですよ。俺、殴られるのはイヤだし。だけど頭で考えてどうにかできるものでもないし、どうしよう、って。律保さんのお陰でどちらも失わずに済みました。ありがとうございます』

 健二は自分の言いたいことだけ言うと、律保に背中を向けて出て行った。律保はそれを追うどころか、椅子から立ち上がることもできなかった。ただ呆然と見送った。

 その夜は、目が腫れるほど泣いた。なぜ泣けてしまうのか、自分でもまったく判らなかった。何か大きな穴がぽっかりと開いたような物寂しさと言えばいいのだろうか。そこに冷たい風が吹き抜けては、体温を奪っていく。律保はそんな寒さに襲われたまま、眠れない一夜を過ごした。


 自分で自分のことが解らない毎日に根を上げ、律保はその週末に浜崎の実家へ帰った。千鶴しか相談できる相手がいなかったからだ。

『――なんてね、私らしくないでしょう。だから霧香にも相談できなくて』

 と、剛三の所在報告も兼ねて、しどろもどろと思いつくままに健二のことを掻い摘んで話した。もちろん、骨折や事故のことは伏せたままだ。

 千鶴はこれといった助言をするでもなく、ただいくつか律保に質問をした。

『律保はお父ちゃんの居場所が判ったことよりも、健二さんを傷つけてしまったことにショックを受けているの?』

『う……ん。だって、お父ちゃんと関係のある人だろうな、というのは会って間もないうちになんとなく解っていたから』

『ねえ、律保。松枝さんは“ありがとう”と言ったのでしょう? どうして傷つけたと感じたのかしら?』

『……え?』

 そう問われたとき、律保は初めて顔を真正面に上げた。気恥ずかしくてまともに見ることのできなかった母の目と合った瞬間、なぜかどきりとした。

『傷ついたのは、松枝さんではなくて、あなた自身ではないの?』

 そう尋ねる千鶴の、そんな微笑を初めて見た。気弱な女性としてではなく、淳也を産んでから日ごとに増していった“頼れる母”としての顔でもなく。そこにいたのは、浜崎千鶴、という一人の女性。そんなフレーズがふと浮かんだ。

『私の初恋の人はね、お父ちゃんだったのよ』

 千鶴のそんな唐突な告白を聞いて、律保はどうリアクションしていいのか戸惑った。結果的に千鶴の顔をしげしげと眺めたまま、押し黙ってしまった。千鶴はそれを続きの催促と解釈したのか、遠い昔話を懐かしげに語り聞かせてくれた。

『なんでも自分で考えて決めて、そして実行してしまう人。引っ張ってくれる人だったの。そんな人に求婚されて、私はすごく舞い上がってしまったのよ』

 追い掛けられて、追いつかれて、そして手を取り引き上げてくれた剛三は、千鶴にとってとても素敵な恋人だった。

『でもね、結婚と恋愛は別なのかしら、と思ったのは、家庭という日常の中では私が追い掛ける一方になった、という現実に気付いてしまってからなの』

 勝手ね、と千鶴は端正な顔をゆがめて笑った。

『お父ちゃんに依存し過ぎて、勝手に苦しくなっていたのだと思うわ。私は、肩を並べて一緒に歩いていける人と生涯をともにしたいと思っていたみたい』

 千鶴は少しだけためらいを見せ、それでもぽつりと本音を漏らした。

『お父さんといると、私がしっかりしなくっちゃ、って。お父さんは私に不甲斐ない姿を見せたくない、ってがんばってくれるようにもなって。お父ちゃんには申し訳ないけれど、私は今の自分の選択に後悔はしていないのよ』

 ただ一つだけ悔やまれるのは、自分のエゴで剛三を苦しめたことだと呟いた。

『お母さん、どうしたの? だって、あんなに家政婦扱いされて、暴力だって振るわれたじゃないの』

 大嫌いな人の話を我慢して聞いていたのは、てっきり千鶴が自分の恋愛話を例えに、律保がどうすべきかを諭してくれるためだとばかり思ったのに。そんな裏切られ感に満ちた想いが、律保に口を挟ませた。

『暴力? そんなこと、一度もなかったわよ』

 千鶴は大きく目を見開いて、本気で驚いたと言わんばかりの声を上げた。

『え、だって……。私、嫌というほど覚えてるわ。何度も腕を振り上げて』

『ええ、そうして必死で自分の激情を抑えようときつく唇を噛む人だった』

 そう言われてふと思い出す。律保の中にいる剛三は、いつも拳を振り上げていた。だが千鶴が殴られている光景を一度も思い出したことがない。

 ――少しでも早く、本当の親父さんを律保さんに知って欲しかったんです。

 健二の言葉が甦る。遠い昔の記憶が律保の中で曖昧になっている。その事実に気付いた途端に湧いた混乱と動揺が、再び律保を黙らせた。

『……律保』

 諭すような呼び掛けとともに、温かな手が律保の頬に触れた。反射的に俯いていた顔が千鶴のほうへ上げられる。

『出逢いは、大切になさい。どんな形であれ、あなたにとって松枝さんが大切な人だったからこそ、泣けてしまったのでしょう?』

 私のように、失ってからでは遅いのよ。そうしめくくった千鶴は、今にも泣きそうな顔で微笑んでいた。


 消すに消せなかった健二の携帯電話の番号。それが律保の携帯電話に着信表示されたのは、その翌週末の午後だった。

『今日は俺も休みなんです。律保さんも足が治ったことだし、病院と飯屋以外の場所へ、一緒に出掛けてみませんか』

 そのあとに続いた「お姉さん」という言葉が、律保に条件反射のイエスを紡がせた。


 カラオケ、ゲームセンター、テーマパークや、映画。真面目一本やりで過ごして来た律保にとって、それらは新鮮で刺激的な楽しさを味わわせてくれた。何よりも嬉しく思ったのは、自分だけの楽しいひとときではなかった、ということだ。

 健二が律保に別の素顔を見せたのは、ビンゴゲームに興じながら思いつくままに話していたときだった。

『えへへ。ガキみたいって笑われそうですけど、実はゲーセンも、行きたいとは思ってたのに行けないでいたトコの一つ、なんですよね』

 なさぬ仲の剛三に食わせてもらっている。遊びたい盛りの学生時代だというのに、そんな遠慮や後ろめたさが、健二の好奇心を抑えつけていたらしい。学校から帰ればすぐに現場へ赴き、剛三の仕事を手伝う日々。早めに帰宅して買い物を済ませ、二人分の食事を作っていたそうだ。

 彼は「そんな自分のことを、親父さんはよく叱ってくれた」と、落ちるナンバーボールを眺めながら懐かしげに語った。

『育ち盛りが飯をおかわりしないなんて、俺にガキの一人も育てられんって恥を掻かす気か! なんてね。ホント、口が悪いんだから』

 律保の脳裏に彼らのやり取りが鮮明に浮かんだ。確かに剛三なら言いかねない。ご飯粒を撒き散らしながら、箸を振りかざして怒鳴りつける。律保にも経験のあることだった。だが、律保と健二の大きな違いは、それをとても嬉しそうに語るところだった。

『松枝くん、腹が立たないの? こっちはいろいろ考えてのことなのに、そんな言い方ってないじゃない』

 彼は中央で回転する巨大カプセルから律保に視線を移した。

『叱ってくれる人がある日突然消えちゃったときの気持ち、律保さんには理解できないでしょう』

 そう言って微笑む健二の瞳に、ゲームセンター内を照らす色とりどりのライトが反射した。七色の光が彼の頬に一筋の道をうっすらと作った。

『両親を亡くして、初めて知ったんです。うるさいとか、怒ってばかりで嫌だな、とか思ってたあれは全部、俺が一人前の大人になるために、必死で教えてくれていたことなんだ、って』

 そういう人を失って、親戚の伯父や伯母が一生懸命従兄弟と同じように接する努力をしてくれたけれど、それでもどうしても遠慮が出てしまう。自分だけがゆるい叱られ方で、それが小学生だった健二を孤独にさせていた。

『もう誰も俺に“健ちゃん、いい加減にしなさい”って言ってくれないんだ、って、思い知らされました。誰も“健二、ここへ正座しろ”って、悪さをしたことに説教なんかしてくれやしないんだ、って、不安にもなりました』

 そして健二は律保から視線を不意に外し、耳にタコができるほど聞いている言葉を口にした。

『だけど、親父さんは、違った。本当の息子みたいに殴り合いの喧嘩をしたり、一緒にいろんなことを喜んでくれたり。世間ってもんを教えてくれたり。親父さんが、十六歳からあとの俺を育てて、一人前にしてくれたんです』

 そう言って袖で涙を拭う健二が、小さな子供のように見えた。律保はツキリとした痛みを感じながら、そんな健二を見守った。背中を丸めて小さく縮こまった彼を、どうしたらいつもの笑みに戻せるのかと焦る思いで考えを巡らせた。

『……健ちゃん』

 呟くように、紡いだ呼び名。彼が懐かしむその呼び方。律保の右手が勝手に健二の頭を自分のほうへ抱き寄せていた。

『律保さ』

『バカね。人に気を遣ってばっかりで。友達や、伯父さんや叔母さんや、お父ちゃんにさえ、そういうことを今まで言えなかったんでしょう』

 それはまるで、浜崎の養父に対する律保の態度そのものだった。

『私も、そうだった。お母さんは浜崎の姓なのに、私だけ、岩田なの。弟が物心ついたときには、残酷なくらいはっきりと私に訊いて来たわ。答えられなかった。誰かに泣いて文句を言いたかった。けど、誰にも言えやしなかったわ。だって、誰にも本当の気持ちなんて、解ってもらえやしないと思ったもの』

 大きなビンゴテーブルのどこかで、ジャラジャラとメダルの流れ落ちる音がする。それが律保の上ずる声を少しだけ上手にごまかしてくれた。

『私が健ちゃんの前では素でいられる理由が解った気がする。健ちゃんも、そうしてよ。私にまで気を遣わないで』

 そのときだけは、周囲からの好奇の視線がまったく気にならなかった。壊れてしまいそうな健二の心がつぶれてしまわないよう、彼を世界中から守りたい一心だった。


 そんな出来事があってから、少しだけ健二の雰囲気が変わった。心の余裕が感じられるのは、彼の面から作り笑いが消えたからかもしれない。少なくても律保はそう思っている。

 二人が住むアパートの最寄駅付近にあるスタンドコーヒーショップで待ち合わせるのが日課になった。どちらかの家で一緒に夕食を作ることも、新たな日課に加わった。それは色めいた雰囲気ではなく、姉と弟のような感覚で。

『えー。俺、ネギ嫌いです。炒飯にネギなんて、普通は入れませんよ』

『んもう、ワガママ。刻んであげるからちゃんと食べなさい』

『ちぇ。わかりましたー』

『ちぇ、だけ余計っ』

『はいっ』

 そんな他愛のない言葉を交わしては、笑って穏やかな時間を過ごしていた。


 それが日常となってからほどなく今の多忙期がやって来た。社内コンペで優秀賞を取った律保に、設計部長から直に異動の打診を受けたのだ。律保はもちろん快諾した。数人の候補者を部長会議で審議に掛けると聞き、律保の気持ちが仕事のほうへ傾いた。

(内示は、二月。男なんかに負けたくないわ)

 ようやく巡って来たチャンスを逃がしたくなくて、退勤カードをチェックしたあとに、安田の協力を仰いだ。少しでも実務を把握し、即戦力になりたかった。

 健二には一番にそれを報告した。当分帰る時間が遅くなるということも。

『がんばってくださいね。夕飯を食いっぱぐれたときには連絡をください。簡単なものを作って、律保さんが帰るころには食えるようにしておきますよ』

 そんな返事が留守録メッセージに届いていたものの、結局今日まで一度も彼の世話になる機会は訪れなかった。


 律保がふとそんなことに思いを廻らせたのは、安田の一言があったためだ。

「律保、松枝くんも呼んでさ、久しぶりに飯食いに行こうよ、飯」

 それが律保の眉間に不快げな皺を刻ませた。

(またいつもの勧誘ね)

 安田は律保を介して健二と親しくなって以来、何かと彼を呼び出しているらしい。自社へのハンティングをまだ諦めていない、とは、買い物中に偶然会った健二から聞いていた。

「安田、しつこ過ぎる。あと三ヶ月の辛抱でしょう? 部長が私の異動を議案に出すって言ってくれたじゃない」

 律保は設計室の片付けをしながら、そう言って口を尖らせた。

「そりゃまあ、今のやる気ゼロなひよっ子よりは、律保のほうが頼りになるけどね。でも、この間優秀賞を取った社内コンペの作品、元ネタは松枝くんだろう? 即戦力も欲しいんだ。何より、異動人数が一人なんて少な過ぎる。ほら、今日だってもうこんな時間だし」

 そう言って安田の指差す時計を見れば、もう九時を回っていた。

「こんな時間に呼び出すのもどうかと思うわよ」

「だーいじょぶ。“健ちゃん”は律保のためなら二十四時間、三百六十五日、無問題。喜んで出て来るはずだから」

「その言い方、気持ち悪いからやめてくれないかしら」

 そう言いながらも、ひいきの店に三名の予約を入れている自分がいた。

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