04. 鍋の具材・その三
暦だけが秋を告げる残暑の厳しい九月になっても、健二は夕方以降の時間を律保のために費やしていた。その日も竹内工務店の駐車場に車を停め、いつもどおりの時刻に正面玄関から入る。その右手奥にあるカフェラウンジで、仕事の退けた律保が見えるのを待った。
「お、松枝くん。この間は助かったよ」
健二にそう声を掛けて来たのは、竹内工務店の購買部に所属している係長だ。
「仕事が早いと妻が大喜びでね。お陰で私の面目がどうにか保てたよ。ありがとうさん」
係長が弾んだ声でそう言い、プライベートの顔を覗かせた。
係長の自宅は新興住宅地の一角にある。十日ほど前に、「庭の散水設備が壊れたのに、なかなか業者が修理に来てくれない」という愚痴話の流れから、健二が補修を申し出た。新興住宅地は短期間で一斉に住宅を建築するためか、設備の老朽化が同時多発することもごく稀にある。配管工事の知識もある健二は、仕事に繋がればと思って先週末に無償で修理した。
「いえ、とんでもない。その後もちゃんと作動しているようでよかったです」
健二は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
「お役に立てることがありましたら、いつでもまたご連絡ください」
そう言った健二の肩に、ポンと軽く手が乗せられる。そして重みはすぐに解かれた。健二が顔を上げたときには、別のほうへと向かって遠のいた係長の背中しか見えなかった。
(ま、全部が全部、仕事に繋がるとは限らないんだし)
自分にそう言い聞かせて再び席に着く。絶妙なタイミングでアイスコーヒーが運ばれて来た。
ブラックで飲むにも関わらず、健二はなんとなくストローに手を伸ばした。それを無造作にグラスへ突っ込み、やたら鈍い音を立てて氷を掻き混ぜた。
「今日で最後、か」
全治三ヶ月と診断されていた律保の骨折。結局彼女は福岡の予測どおり、無理を押して出勤している間、健常時と同じように動き回っていた。そのせいで腫れや痛みを再発させては気休め程度の養生を繰り返し、周囲が呆れるほど完治を遅らせていた。それをラッキーだと思った自分に嫌気がさし、自己嫌悪で眠れない日もあった。ギプスからサポーターになったのがひと月前。二週間前の診察で、福岡が「恐らく次の診察が最後になるだろう」と言っていた。
「こんなはずじゃあなかったんだけどな」
こんなはず、とは、自分の、心。それは健二にとって予定外のことだった。律保にこだわった理由は、始めのうちこそ剛三にあった。
事故を起こしたあの日、律保は食い入るようにトラックの荷台を見つめていた。また、健二が名刺を手渡しても名乗らなかった。最初こそ、できるだけ関わりたくないからだろうと思ったが、看護師の呼んだ“イワタリホ”という名前、カルテに記されていた“岩田律保”という字面が、ある可能性を浮かばせた。律保は「珍しい読み方ですね」とかまを掛けた健二に対し、言い訳のように
『普通はリツホって読んでしまいますよね。いつもこれで始めは苦労するんです』
と卑屈な苦笑いを浮かべていた。
そして何よりも健二に確信を抱かせたのは、
『実はね、苗字で呼ばれるほうが、名前を間違えられるよりももっと嫌いなの』
と言ったときに見せた複雑な表情と、苦労する名前を誇示してまで苗字で呼ばれることを拒む理由。
『前の父と母の離婚条件が、私の親権を前の父に譲ることだったらしくって。前の父はワンマンで我の強い人だったから、気の弱い母は養育費を出してもらう気兼ねもあって、その条件を呑んでしまったらしいのね。私だけが岩田を名乗っているから、居心地が悪いの。それで家を出て独り暮らしをしてるんです』
剛三から語られる“娘”の話と、かなりの割合で一致していた。それらが律保の父親の正体を告げていた。
律保が会って間もない健二にそこまで込み入った話を聞かせたのは、律保の素性を探るつもりで自分が先に身の上話をしたからかもしれない。彼女の素性を探ることの成功までは、想定の範囲内だった。
律保が時折語る身の上話。現在の話だけでなく、遠い過去の話。母親が再婚した経緯や、養父への遠慮や心の距離。母親の再婚後まもなくできた弟の存在などから、自分が邪魔に思えてしまい、早く独立したくて家を出たことなどを聞いた。いつの間にか健二の中で、律保に対する想いが別のものへと変わっていた。
健二はいつも歯痒く思っていた。律保は剛三の人柄を明らかに誤解している。そのまま離れて暮らしているのは、どちらにとっても不幸でしかない。その状態は、家族のいない健二から見れば、そこにある幸せを自ら放棄しているとしか思えなかった。
その誤解を解いて、父と娘が本来あるべき姿に戻れたら、と心から願った。息子のように慈しみ育ててくれた剛三への、ささやかな恩返しになればいい、と。
実の両親が存在している律保を羨んだ。その一方で、本来律保が受けるべき愛情を自分が奪っていた、という罪悪感も抱いていた。すれ違っているこの父娘への心ばかりの償いになればと思い、いつか折を見て
「親父さんというのは、あなたのお父さんなんですよ」
と打ち明けるつもりでいた。そんな形で再会の場を設け、父娘間に横たわるわだかまりを消す手伝いができたら。ただそう思っていただけのはずだったのに――。
「俺、ちっとも巧くできてない」
グラスの氷がそれを責めるように、耳障りな音を立ててガランと溶け落ちた。
剛三やその仲間である年長者からの定評もあり、交渉ごとなどの段取りにはそこそこの自信を持っていた。そんな健二の口をつぐませたもの。
飯と一緒にアルコールを嗜むと、酔いに任せて弱音を零す律保の呟き。倒れそうなほど華奢な心を必死で立て直そうと踏ん張る、弱くて強気な切れ長の瞳。迎えに行って目が合うたびに浮かべる、満面の笑み。
二ヶ月ほど前の誕生日には、「いつもご馳走してもらってばかりだから、ささやかなお礼を兼ねて」と言って、防水タイプの腕時計を贈ってくれた。形に残る物を贈られたことが、その場限りの交流ではないと伝えてくれたように思え、腕時計そのもの以上に律保から贈られた気持ちで舞い上がった。
『差し迫った現場だと、雨でも作業をしてるんでしょう? 仕事中に時間が分からないのは、困ることもあるんじゃないかしら、と思って』
律保はそのあと、慌てて「迎えの時間に遅刻されたら困るし」と言い繕った。真っ赤に頬を染めた彼女を見て、初めて自分がどういう思いで彼女を見ているのかを自覚した。
このまま“親切な遭遇者”だけで終わってしまうことを恐れていた。自分に課した役目を果たせないまま今日というを迎えてしまった。
自分のエゴと使命との間で葛藤している健二の頭上から、不意に聞き慣れた声が降って来た。
「松枝くん、お待たせ。福岡先生には少し遅れると連絡したの。ちょっと時間をもらってもいい?」
いつもの挨拶に、そんな一言が加わった。その違和感が、抱えていた頭を大袈裟なほど勢いよく上げさせた。
「どうしたの? ひょっとして体調が悪い? 無理して迎えに来てくれたの?」
律保が心配そうな声でそう言ったのは、健二がコーヒーを一口も飲まずに頭を抱えていたからだろう。だが健二は頭を上げた瞬間、律保の心配を打ち消す言葉さえ見つけられないほど余裕をなくしてしまった。彼女の隣には、初めて見る男性が薄ら笑いを浮かべて健二を見下ろしていた。
「あ、いえ、ちょっと考えごとを。あの、そちらさまは?」
健二はそう尋ねながら即座に席を立った。律保の隣に佇むホワイトカラーの男性の胸元で、竹内工務店の社員であることを示すネームプレートが光ったからだ。
「あ。こちら、設計部の安田課長補佐。松枝くんと話がしたいそうなの。少しいいかしら」
こういったことは、これまでもしばしばあった。だが今回は、明らかに律保の態度が違う。パーソナルエリアの広い律保が、安田と至近距離でも表情が強張っていない。それどころか、彼の腕を取って紹介するほど親密そうだった。
一つの可能性が脳裏をかすめていった。だが健二は敢えてそれを無視した。
「はい、大丈夫です。初めまして。岩田左官店の松枝と申します」
手早く名刺を取り出し、紹介された安田に両手で恭しく差し出した。下げた頭を少しだけ浮かせ、ちらりと彼を盗み見た。洒落っ気のある少し長めの明るい茶髪。一目で優秀だと判る利発そうな面差しを、銀縁眼鏡がより賢い人物像に見せている。余裕の笑みを湛える一重の瞳は、設計という緻密な仕事をそつなくこなす自信に溢れていた。
「ご丁寧に、どうも。設計部建築三課の安田です」
そう自己紹介しながら差し出された名刺を取る彼の指先は、とても綺麗でしなやかだ。健二とは正反対の、華奢な律保の指を傷つけそうもない整った手指。安田は、健二にはない、そして健二の理想としていた姿を嫌というほど見せつけた。
「と、名刺交換はしたものの、実は松枝くんに興味があるのは、一個人として、なんだよね」
安田は気さくな物言いで“松枝くん”と健二を呼んだ。まるで自分の優位を誇示するかのように聞こえた。彼の態度は、つい先ほど健二の脳裏に過ぎった可能性を確信させるのに充分な判断材料となった。
「律保から聞いたんだけど」
律保。ほかの社員もいる中で、堂々とファーストネームを呼ぶ間柄の男。やはり、そういうことだ。健二は受け取った名刺を手前に引き戻し、席に座ることなく頭を上げた。
「このたびは律保さんにケガを負わせてしまい、大変申し訳ございませんでした。お詫びとご挨拶が遅れてしまってすみません。律保さんからは、安田さんのことをお伺いしておりませんでしたので」
謝罪のつもりが、どうしても皮肉になってしまう。こういう方面でのアドリブなど、経験がないから巧くできない。
「独り暮らしとお伺いしていたので、ついでしゃばったことをしてしまいました。ご不快にさせてしまい、申し訳ありませんでした。今日は福岡先生もお待ちでしょうから、後日アポイントのお電話を差し上げた上で、改めて安田さんへのお詫びに伺わせていただきます」
「え?」
驚いた表情で自分を見つめる律保に苦笑を投げ掛ける。
「それならそうと、最初から言ってくれればよかったのに。却っていろいろと、すみませんでした」
燻る使命感をねじ伏せ、無理やり笑みをかたどる。暴れる激情をかなぐり捨てて、奥歯をくっと噛みしめた。
「あとは安田さんにお任せします。どうぞお大事に」
健二はそれだけ言うと、テーブルの上に置かれた伝票を乱暴に掴んだ。くるりと踵を返し、手にしたままの名刺を財布へ入れるよりも先に、取り出した千円札を伝票と一緒にレジへ叩きつけた。お釣と叫ぶ店員の声を聞き流し、階段で地下駐車場まで駆け下りた。
乱暴に軽トラックの扉を開き、運転席へ座るなり、思い切り扉をバタンと閉める。健二が苛立ったまま軽トラックのエンジンを掛けると、セルモーターがひどく苦しげな悲鳴を上げた。
「くそっ」
残暑のこもらせる車内の熱気が、必要以上に苛々させているだけだ。健二は自分にそう言い聞かせ、一度大きく深呼吸をした。それからもう一度キーを回すと、やっとエンジンが掛かってくれた。
「ふう……」
すぐに車を出すだけの気力がなかった。健二はとりあえず車内の熱気を逃がそうと思い、手動の窓を気だるげに開けた。
安田の肩書きに嫉妬した。ホワイトカラーという立場にも、身につけたものの高価さにも。今までそんな劣等感を抱いたことなどなかったのに、初めて自分が惨めだと感じた。
剛三の跡を継ぐと決めたのは、自分だ。それを悔やんでなどいない。サラリーマンでは休みの自由が利かない。もし剛三に万が一のことがあった場合、身動きが取れない勤め人という立場を選んだ自分を責めるに違いないと考え抜いた上での選択だった。そのこと自体に後悔はないが。
どんなに大工の親方から面白い施工や建物の工夫や古人の知恵を聞いても、それを活かす機会がない。どれだけ造園職人の話から緑化の重要性を痛感しても、設計してみたところでそれを実際に造ることができない。
(うちは、左官屋でしかないからな)
一から自分の思い描いた物を形にすることができない職場。ささやかな楽しみは、個人のお客さんへ、あれこれ提案して喜ばれること。何もないところから一つの作品を作り上げるといった類の仕事は、今後も実現不可能だろうと思う。
それでも、ほんの半年ほど前までは納得していた。設計の夢と剛三を天秤に掛けたとき、秤は迷うことなく剛三を載せた側がかくんと落ちていた。なのに今は――。
「律保さんの隣に立っててキマる人だったな。あの人」
女性らしさを過剰にアピールしない、律保のシックなオフホワイトのスーツ姿に、安田の涼しげなサマースーツ姿は様になっていた。お似合いの二人だと思ってしまった。くたびれたカジュアルシャツにジーンズ姿の自分とは雲泥の差だ。きっと彼とのディナーなら、健二と行くような大衆食堂や鍋料理店やラーメン屋などとは違う会話が交わされるのだろう。美しい夜景の見える展望レストランやジャズの流れるお洒落なバー、そんな中で気の利いた会話を楽しみながら食う飯のほうがよほど美味かったに違いない。
「はは……」
自分の道化っぷりに、哂えた。同時に健二の頬を伝ったみっともないものが、見える世界をぐにゃりとゆがめた。
「ねえ、“あの人”って、僕?」
「うぉ!?」
突然右から湧いた声に、健二は思わず奇声を上げた。助手席へ避難するように身を寄せて窓の外を見れば、そこには安田が立っていた。彼は皮肉な笑みを浮かべたまま、健二の目をまっすぐ射抜いた。
「や、安田、さん」
「あー、その顔、やっぱり誤解してた。ほら、これを見なさい」
そう言って左手をひらひらさせる。安田は健二に口を挟ませない勢いで、自己紹介の補足を並べ立てた。
「律保は僕のワイフの親友なわけ。ついでに僕にとっては大学時代の後輩でもある。ワイフが“やっと律保が男に目覚めた”なんてはしゃいでいるから、どんな男なんだろうって、興味半分でツラを拝みに来たんだけど。君が盛大な勘違いしたまま本題も聞かずに帰っちゃうから、このクソ暑いのにここまで追い掛ける破目になったじゃあないか」
一方的にまくし立てられた健二は、安田に返す言葉を失った。頭の中に、ぐるぐる回る。
(ワイフ? 律保さんの、親友のダンナさん? っていうか、今、安田さん、なんて言った?)
――律保が男に目覚めたなんてはしゃいでいるから、どんな男なんだろう。
「……うそだ」
相手がゼネコンクラスの上客だということさえ忘れていた。健二は素の口調で、その三文字を呟いた。
「うそなんかついたって、僕になんのメリットもないじゃないか。まあ、今日は律保も君もそれどころじゃないから、もう半分の本題については、後日また改めて時間の取れる日を教えてくださいな」
安田が相変わらず人を見下す笑みを湛えてそう締めくくった。まっすぐ射抜かれたままの視線から、思わず顔を背けてしまう。健二が逸らした視線の先には、バックミラーが映すゆでだこのようになった自分の赤ら顔があった。
「う、ぉ」
そんな頓狂な呻きを聞いて、ついに安田が噴き出した。
「や、真面目な人でよかったよ。君も律保の生い立ちを知っているんだろう? ヘタなヤツだったら今のうちに追い払っておこうかと思ったけれど、どうやらその心配はなさそうだ」
律保は君の隠し事に気付いているよ、と優しい声で教えられた。打ち明けられないほど健二に怯えられているのだろうかと、とても気に病んでいる、ということも。
「あの子も君に負けず劣らずのぶきっちょさんだからね。かなり鈍感だから、言葉を選ばないと伝わらないよ。炎天下の正面玄関に捨てて来たから、干物になる前に拾ってやってよ」
安田は自分の言いたいことだけ言い終えると、健二の返事も聞かずに窓枠から手を離して立ち去った。
律保とどんな態度で顔を合わせたらいいのか解らない。もたもたと徐行していた軽トラックは、健二の心の準備が整わないまま、とうとう正面玄関の見えるところまで辿り着いてしまった。オフホワイトのおぼろげな人影が、次第に顔まではっきりと見えて来る。
(うわ、明らかに怒ってる)
律保はものすごいしかめっ面で、松葉杖を振り上げて“とまれ”の合図を送っていた。
健二は彼女の前で軽トラックを停めて運転席から降りると、急いで助手席側へ回った。
「いい」
介助の手を伸ばしただけで、速攻拒否の言葉を放たれた。律保は形ばかりになった松葉杖をシートへ放ると、車の手すりを支えに自力で助手席へ身を持ち上げた。健二はそれを見届けると、おずおずと運転席へ戻った。
「あ。福岡先生? 私、律保です。ごめんなさい。予約を明日に変更できますか」
(え?)
健二になんの言葉もないまま電話を掛けてそう告げている律保の横顔へ、まともに視線を送ってしまった。診察終了時間までまだ数時間もあるのに、律保が何を考えているのか解らない。そんな健二の混乱をよそに、律保はすました横顔を見せたまま、淡々と翌日に診察時間を切り替えていた。
「あの」
「私、怒ってるんだから。訊きたいことが山ほどあるの。お説教したいことだって、たくさんあるんだから」
だから、病院ではなくアパートに向かえという。いろんな意味で、健二の心臓が跳ね上がった。
律保をアパートまで送ることはあっても、部屋に通されるのは初めてだ。緊張する健二の内心をよそに、律保はさばさばとした口調でダイニングの椅子へ座るよう健二を促した。
「え、足。本当に大丈夫、なんですか?」
健二がついそう口にしたのは、彼女がサポーターを外して、バッグと一緒に隣の部屋へ放り込んでしまったためだ。
「平気よ。ここ半月ほど家ではこうしていたもの。つけっぱなしだと、暑くてしょうがないわ」
律保は健二に背中を向けたまま素気なくそう言った。
「それより」
と呟く律保の声が、襖を閉める音とコラボレートする。健二はキッときつい視線で睨まれた途端、思わず背筋をまっすぐに正した。
「はいっ」
「人の話も聞かないで、どうして突然帰っちゃったの? せっかくのチャンスだったのに」
「チャンス?」
「そうよ」
思わせぶりな律保の言葉に小首を傾げると、彼女は視線を合わせないまま、健二の前に麦茶を置いた。
「この間松枝くんに相談して作った、社内コンペの企画書。あれを見た安田が、私独りで考えたとは思えないって。松枝くんに相談したことを話したら、一度会わせろって言うから紹介したのに」
律保はそう語りながら、健二の向かい側の席に腰掛けた。
「日ごろから“部下に育ちそうな金の卵がいない”ってぼやいていたから、彼はきっと松枝くんをヘッドハントするつもりなのよ」
なのに、と言って、また睨まれた。
「私を安田に任せるってどういうこと? 不快だとかお詫びだとか、意味分からないし。その上、なによ、あれ、どういう意味? “それならそうと最初から言ってくれれば”って。“いろいろ”の内訳を具体的に言いなさいよ。安田にはニヤニヤ笑われるし、“呼んで来るから、松枝くんが来たら轢かれておけ”とかわけわかんないこと言い捨てていくし、挙句の果てには正面玄関に置き去りにされちゃうし! ちゃんと解るように説明してよっ」
ガン、とテーブルが鈍い悲鳴を上げた。律保の手にしたグラスから、数滴の麦茶が零れ落ちる。そこから恐る恐る律保の瞳に視線を合わせた健二は、絶句した。
(……なんで、泣いてるんだ?)
健二のそんな疑問が聞こえたかのように、彼女が呟いた。
「私、そんなに、怖い? 本当に、ケガを君のせいにするつもりなんかじゃなかったのよ? 食事に誘ってくれたのも、少しでも慰謝料の額を下げさせようとして私の機嫌を取っていただけ? あとになっていろいろ請求されると思ったの? ……君の恩人が、私の大嫌いな父だから、父を困らせるために、私が君に何かすると、思ったの……?」
多分この麦茶に、アルコールは入っていないと思う。だが目の前で瞳を潤ませている律保の、感情をほとばしらせた絞り出す声は、酔ったときに見せる素の彼女にしか見えなかった。
「……怖いのは、律保さんじゃなくて」
健二の渇いた喉から、かすれた声が漏れた。
「隠していたつもりもなくて」
少しでも早く、本当の剛三を律保に知ってもらって、律保自身が剛三と会いたい気持ちになれるよう、日ごろの剛三を伝え続けて来た。どこかで判っていた。もう彼女が気付いているということを。
「親父さんと律保さんが和解して」
グラスを握る手が小さく震える。
「そしたら俺は、どうなるんだろう、って」
かすれ声が次第に聞き取りにくい小声になる。
「親父さんは、本当に、律保さんが大事で、かわいくて。一人娘で、宝物で」
娘が生まれたという施主夫妻に新生児を抱かせてもらった剛三の零した言葉を、そのまま律保に伝えた。
――こいつぁ、ご主人、気の毒なこったな。こんだけかわいいってえのに、すぐどっかの馬の骨に掻っ攫われて嫁に行っちまうんですぜ。
「俺、慌ててお施主さんにフォローを入れたんだけど、そんな必要がなかったっていうくらい、奥さんも苦笑してくれていて。そのくらい、そのときに親父さんの見せた顔が……」
小さな小さな赤ん坊を愛しげに見下ろしていた。そのときの剛三の顔が忘れられない。あんな強面のくせに、今にも消えてしまいそうなほどの寂しげな微笑。その赤ん坊の中に、律保を見い出しているとしか思えなかった。
「親父さんは、恩人を通り越して、俺にとって第二の親父そのものです。あんな顔させたくなくて……でも」
こんなはずじゃあ、なかった。今までずっと、天秤はいつでも剛三への恩返しに重きを置いて傾いてくれた。
「あなたにちゃんと打ち明けなくちゃいけないと思ってたのに、話せなくなって」
話さなければ、父と娘は哀しいすれ違いを続けたままになってしまう。それは健二の本意ではなかった。だが話したら、似非息子は本当の娘に親父を返さなくてはならない。それだけではなく。
「きっと俺、親父さんに勘当されます。きっと俺、親父さんには、隠せない……」
自分の内心を知られたら、剛三の信頼を失うことになる。二人の前から消えなくてはならないことになる。
「だって、どっちかしか採れないんだとしたら、俺は、欲張りだから選べない。……だから、俺が消えるしか、ない、って……」
「……どうして、父と私が和解すると、君が私や父の前から消えなくてはならないことになるの?」
穏やかな声が、促すように健二の背中をそっと押した。
「親父さんに、あんな顔させちまうような、自分になっちまった、から」
視界の片隅に、大きく目を見開いていく律保の姿を捉えた。耳たぶまで一気にかぁっと熱くなる。健二は俯いたまま固く目を閉じ、最後の勇気を振り絞った。
「あなたを……好きになってしまいました。それは、二人とも失くしちまうってことで……そう思ったら……怖くなって、言い出せなくなってしまいました。……すみません、でした」
健二の中で長いことつかえていたものが、ころりと律保の部屋に零れ落ちた。