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03. 鍋の具材・その二

 ようやく梅雨が明けた七月も半ばを過ぎたころ。剛三は生あくびを殺しながら、いそいそと機材の片付けをし始めた健二を見て眉をひそめた。

 ここ数週間まともに眠れないほど悩んでいる。不眠の元凶である健二に嫌味ったらしくそう言ったのが、今からほんの数日前だ。健二は剛三の想像以上に嫌味をまともに受け取ってしまい、心配そうな顔で「確認する」と言って剛三のアパートに泊まっていった。

『親父さん、思いっ切りいびき掻いて寝てるじゃないですか。心配して損しましたよ』

 翌朝、健二は笑いながらそう言った。鼻であしらわれて面白くない、という理由から、また説教をかますわけではない。

 剛三は自分にそんな弁解をしながら、今日も判りやすいほど喜々としている健二へ、お馴染みになってしまった忠告を口にした。

「松っちゃんよ、おめえ、その娘にだまされてんじゃねえのか?」

 セメントを練るミキサーのプラグを抜かれてしまっては、こちらも仕事を終了せざるを得ない。ちょうど土間のタイル張りを終えたところだ。玄関のタイル張りは明日に回そうと踏ん切りをつけ、剛三もコテなどの道具を溜め置き水ですすぎながら、健二に説教の続きをした。

「全治三ヶ月っつってもよ。おめえとそう年の変わらない娘だろ? その若さなら、ひと月も経ちゃあ、てめえで移動くらいできるわぁな。遠慮ってもんを知らねえとは思わねえか? こちとら仕事を早めに切り上げて、毎日毎日こっちのガソリン代使ってお迎えに上がってるんだぞ。しかも毎晩飯食って、どうせ松っちゃんのことだ、女に財布なんざ開かせてねえだろう。いいカモにされてんじゃねえのか?」

 剛三にとって健二は、自分の許へ「雇ってくれ」と訪ねて来て以来、十年も一緒に過ごして来た“息子”に近い存在だ。いくら相手が健二の車に驚いたせいでケガをしたとは言っても、こちらが加害者というわけではない。その娘に対する健二の入れ込みようが昔の自分と似過ぎているので、親気分でいる剛三としては行く末が心配で堪らない。どうにも自分の身に起きた悪い結末と重ねて見てしまう自分がいた。我ながら余計な節介だと思うのに、つい口が出てしまうのだ。そしてやはり今日も、そんな剛三は健二からいつもどおりの反論を受けた。

「だから、そんな人じゃあないですってば。逆にこっちが彼女をカモにしてるんじゃないかと誤解されそうで、ついあれこれと個人的な話をしているうちに、飯の時間になっちゃうだけです」

「誤解って、竹内工務店に勤めてる娘っこだから、っつう話のことか?」

「ええ。実際に彼女の職場の人に顔を覚えてもらい始めて、あちらの積算課の人とは名刺交換ができましたし。営業の伝手にされてるんじゃないか、なんて勘ぐられたら涙目モンだなあ、って思うんですけど。まさか彼女に訊くわけにもいかないし」

 ゴン、という鈍い音が会話を寸断させた。健二が荷台へミキサーを積み込んでいたのだが、らしくもない荒っぽい動作で載せ上げたために、どうやら手を滑らせたらしい。

「コラ、てめえ、大事に扱えや。壊れちまうだろうがよ」

「あ、すみません。つい」

 本当に申し訳なさそうな顔をして頭を掻く姿を見たら、怒る気がすっかり萎えてしまった。

(ったくよう……)

 気もそぞろになっている状態が続いてから、どれくらい経ったのかも忘れてしまった。最初こそ、健二にも春が来たかと一緒に喜んでいたものだが。

「おめえ、いっぺんその娘を俺ンとこへ連れて来いや。何も紹介しろたあ言わねえよ。家の近所で飯を食う、とかだな」

 どうもうさんくさい娘で気になってしょうがない。そんなお節介な似非親心が、剛三にそう言わせた。だが、

「勘弁してくださいよ。親父さん、偶然の振りして割り込んで来るつもりでしょう。根掘り葉掘り訊く気満々って顔してるっすよ、今、すっごく」

 と、健二にあっさり企みを見抜かれてしまった。剛三の「ぐぅ」と小さく息を呑む音が、やたら大きく響き渡った。

「それこそ、俺が彼女に怒られますよ。ついこの間も、年下のくせに上目線の物言いが生意気、って言われたばかりなんですから」

 いつの間にか健二は機材を積み終え、剛三の隣に腰を落として残りの道具を水で流し始めた。

「なんだ、その上目線っつうのはよ」

 タオルで手を拭き、そのままコテを乾拭きしながら問い掛ける。

「彼女のほうから、謝って来たんです」


 ――あなたを利用しようとしてました。ごめんなさい。


「ほれ、やっぱそうじゃねえか」

 さび止め剤を塗る剛三の手が、腹立たしそうに荒っぽくコテの表面を行き来した。

「違いますって。彼女の上司で女性蔑視的な物言いをする人がいるらしいんです。彼女は俺を通じてもっと待遇のいい会社を紹介してもらえたら、と考えていたらしいんですけどね。でも、それを俺にバラしちゃったら意味がないでしょう? 少しでもその上司の物言いを聞き流せる考え方を提案してみたら、生意気、って苦笑いされちゃいました」

 本質の彼女は、すごく、不器用なくらい、いい人なんです。言い含めるように言葉を区切り、はにかんで呟く健二の横顔を見たら。そして紡がれた声音を耳にしたら。

(聞いてるこっちが恥ずかしいわ。ガキが)

 妙に顔が火照り、やたら背中がむずがゆくなった。剛三は、どうして健二と気が合うのかが、いまさらながら少しだけ解った。こんな頑固親父の下で働いているのがもったいないほど、誰に対しても寛大な男だからだ。

「不器用なほどいい人、か。おめえが今言ったそいつとおんなじようなことを、別れた女房が俺に対して言いやがったらしいんだよな」

 その昔、施主の無茶な設計変更希望を受け容れた元請のせいで、工事全体の段取りが狂ったことがある。こちらの施工と造園施工の日程がかち合ってしまい、喧嘩になった。まだ娘の律保(りほ)が小学生になったかならないか、という遠い昔の話だ。「二度とお前のところは使わない」と言い放った元請の現場所長の許へ、当時女房だった千鶴が、剛三には内緒で手土産を持って訪ねたらしい。千鶴は剛三に代わって土下座をし、次の仕事を回して欲しいと懇願したそうだ。剛三は当時の現場所長から、飲みに誘われたときにそれを初めて打ち明けられた。

『あの人は、ひどく不器用なんです。お施主(せしゅ)さんが監督さんに無茶な注文をしたせいだと解ってはいるんです。ただ、雇っている職人たちの手前、彼らの憤りを肩代わりして所長さんに甘えさせていただくことしかできなかっただけなんです』

 それから数日後、個人としてその所長に酒の席へ呼ばれ、本音をぶつけ合って話をした。そんなことから食いつなぐことができた時代だった。不器用でも、誠実であれば情に生かしてもらえる時代だった。

「だがな、今は違う。情にほだされる人間ってのを見分けられる種類の人間は、とことんまで利用するんだぜ? その娘っこがおめえの人柄を見抜いてひと芝居打ってる、ってなことがないたぁ言い切れねえわな。おめえは俺が見込んだヤツだ。女なんかで身を滅ぼすんじゃねえぞ」

 剛三はそう締めくくると、大きく息を吐き出した。健二の呆けた顔を横目で一瞥し、洗った道具をケースに収めて軽トラックの荷台に詰め込んだ。

「まったく、親父さん、勘ぐり過ぎだし、誤解もしてますって。俺はね、ただ単純に、自分でなんとかしようと親御さんへ連絡もせずにがんばってる彼女の役に立ちたいってだけです」

 荷台にほろを掛けながら、面映そうな笑みを浮かべて健二が言った。剛三は反対側で受け取ったほろの端を荷台のフックへ引っ掛けながら、そんな健二をまばゆい思いでしげしげと見つめた。

 健二には大学を卒業したこの春から、営業と現場を半々でさせている。三ヶ月ほど経つのに、肉体労働の半減を微塵も感じさせない筋肉は、同性から見ても頼もしさを感じさせる形を保ったままだ。物腰の柔らかい口調や目尻の下がった優しげな風貌は、一見頼りなさそうに見えるのだが、その奥に宿る意思の強さは、昔の自分を思い起こさせる。こうと決めたことには妥協せず、まっすぐ剛三を見据え、持論を返して来るのが常だ。健二には内緒にしているが、剛三の左官店は経営が傾き掛けている。自営のこんな小さな左官店と共倒れしても仕方がない、と割り切るにはもったいない器の男だと常々思っていた。健二に余計な心配をさせず、巧くここから巣立たせてやる方法ばかりを考えているが、なかなかいい案が思いつけないでいた。

「充分、頭に花が咲いてんじゃねえか。いっそ嫁さんにでもして、竹内工務店に潜りこんじまえ」

 半分本気で半分冗談の提案を舌にのせてからかってみた。

「よっ、嫁……っ、な、何言ってるんすかっ。そういう付き合いじゃありませんよっ」

 面白いほど健二の浅黒い肌が、みるみる日焼けとは違う色合いの赤を帯びていった。

 健二はムキになると、思春期のころと同じような幼さが顔を覗かせる。一人前の男と認める一方で、どこか手放すのが寂しいと感じているのだろうか。剛三は自分でそんな疑問を感じながらも、健二のうろたえる顔が見たくなって、さらにからかう言葉を投げた。

「ほう、そうかい。じゃあそういうことにしておいてやってもいいがな」 

「なんですか、その含みのあるモノの言い方。だいたい親父さんこそ、俺がいなかったら寂しくて死んじまうくせに」

 嫌なほうへ話題の矛先を変えられた。そういう切り返しが健二の成長を感じさせる。剛三はからかうのも潮時とばかりに、憎まれ口で健二の逆襲から逃げた。

「分かりやすいんだ、てめえはよ。そんでもって肝心なところが、これっぽっちも分かってねえ。こちとら野郎にひっつかれてても気色わりいだけだ。とっとと親離れしやがれ、健坊が」

「あっ、その呼び方やめろって言ったのにっ」

「飯くらいてめえでどうにかできるっつってるのに、押し掛けて来るガキはどこのどいつだ。健坊」

「ウソばっかり。すぐコンビニで酒とつまみ買って、それで済ませちゃうじゃないっすか」

「てめえは俺の女房か」

「似非息子、ですよ」

「……」

 息子。剛三が昔から強く望んでいたもの。律保がかわいくなかったわけではないが、息子と一緒に仕事をするのが夢だった。千鶴と別れてからすっかり諦めていた夢を、思い掛けない形で健二が叶えてくれたとも言える。にこりと笑って照れもなく、こちらを柔らかく言い負かす健二は、剛三にとって身に余るほど出来のいい“似非息子”だった。一方的な解釈だと思っていたのに、突然こうして健二の心情を明かされると、どう反応していいのか解らなくて絶句した。

「あれ? 反撃して来ないんっすか?」

「……てめえにゃあ、口だけは敵わねえよ」

「えへへ、勝った」

 そうこう話しながら片付けているうちに、健二の待ち遠しい時間がやって来た。

「うわ、もう四時半回った。親父さん、早くお施主さんのところへ挨拶に行って来てくださいよ。俺、エンジン掛けて待っておきます」

 その間に健二は車の中で着替える、というわけだ。

「へえへえ。まったくよう、どっちが親方で手番なんだか分かりゃしねえ」

 いいからさっさと、と急かす健二に背中を向けて手を振った。

「完全に、色ボケてやがるな」

 剛三は健二の視界から完全に見えなくなる位置まで離れると、ぼそりと独りごちた。

 これまで仕事一筋で来た健二がようやく得た色恋とやらを、できれば諸手を挙げて寿いでやりたかったが。

「名前も聞かせねえって、どんだけうさんくせえ小娘だよ」

 剛三は不安を吐き出すように、大きな溜息をついて肩を落とした。




 健二にアパートの前まで送ってもらい、まずは熱めのシャワーを軽く浴びて汗や汚れを落とした。外に置いた洗濯機へ作業服を放り込み、洗剤と漂白剤を適当にぶち込んで洗濯機を回す。風呂上りの汗がひいたところで、自分では似合っていないとしか思えないソフトシャツを羽織った。

(松っちゃんが父の日っつってくれたんだ。もったいねえ)

 そう思って着慣れない襟付きのシャツというものを身につけ出してから、六年が経つ。結局それは剛三にとって、お気に入りの逸品になった。それに合わせたジーンズに着替え、身支度を整えた。健二の推測どおり、コンビニへ行くためだ。

「自業自得だ。俺は誰も恨んじゃいねえ」

 剛三は財布と一緒に、そんな言葉をジーンズのポケットへねじこんだ。


 千鶴から突然離婚を切り出されたのは、今から十二年前。まだバブルが弾ける前で、働いた分だけ稼ぎになる時期だった。そのころはまだ土壁の木造家屋を建てる施主も多く、必死に営業を掛けなくても剛三の腕前を聞いて依頼の電話が舞い込んで来る楽な時代だった。

 千鶴や律保に不自由のない暮らしをさせたい一心で、昼夜を問わずに働いた。安かろう悪かろうな仕事なら、誰にだってできる。自分が安く早く良質の仕事を、という持論のもと、雇った職人を厳しく育て、また深夜までの仕事にも随分付き合わせた。一つの現場に一区切りがつくたび、彼らを酷使した分、ねぎらいの意味をこめて自宅で食を振る舞った。飲み交わし、無礼講の場を提供し、日ごろのうっぷんを全部聞いてやった。殴り合いもかなりしたが、翌朝には二日酔いの顔をした職人たちが、それでもみんなそろって吹っ切れた顔つきで出勤して来た。明るく清々しい、やる気に満ちた若い連中を見ると、剛三はいつも殴られ損ではない、と心から思えていた。

“昭和”。

 あのころは、すべてに満ち足りていた。当時は本気でそう思っていた。家族、金、仕事、人情。すべてが剛三の手に入った宝だと思い込んでいた。

『私は家政婦ではありません。離婚してください』

 サラリーマン家庭で育った千鶴に、職人の女房は水の合わない世界だったらしい。夫婦水入らずの時間などろくに取れないまま律保を授かり、それからは余計にそんな時間が取れなくなった。気付けば一番大事にしていたはずの家族から孤立していた。あんなにも苦労して手に入れた千鶴を、古巣の職場で同僚だった男に掻っ攫われていた。もちろんそれは、男女の仲になっていたというのではなく、ここにあったはずの心が向こうへいってしまったという意味だ。


 商店街へ向かって住宅街の細い道をサンダル履きでぼつぼつと歩く内に、周辺に賑わいを感じさせる喧騒や明るさが増して来た。

 剛三は、買い物に出るのが本当は嫌いだ。特に夜だと、この賑わいが余計に自分を孤独にさせる。

 家路を急ぐスーツ姿を見ては、その向こうにいる家族を連想してしまう。身を寄せて楽しげに語りながら歩く恋仲の若人を見ると、若いころを思い出してしまう。塾へ向かう子供を見ると、律保が思い出されて目が潤んでしまう。

「へぇ~……」

 剛三は気の抜けた溜息のようなものをついて、軽く左右に頭を振った。仕事上がりの疲れた身体に、コンビニまでの距離は遠かった。

 やっと目指したコンビニにつき、自動扉に出迎えられる。

「いらっしゃいませ」

 自動扉と同じくらい無機質な形ばかりの声が、剛三を無愛想に迎え入れた。それを無視して、まずは雑誌コーナーへ足を向ける。目当ての本は漫画雑誌でもビニ本でもなく、求人情報誌だ。技術職や技能労務職を扱う雑誌をくまなく見る。

(あるわけ、ねえか)

 今年で五十八歳になる剛三に適した求人は、今週もやはりなかった。自分用に斜め読みした雑誌を早々に棚へ戻し、一般職の雑誌を読み漁った。それは自分のためではなく、健二が再就職できそうかどうかを確認するために目を通していた。

(早く踏ん切りつけねえとな。けど、松っちゃんを手離したあと、俺はどうする?)

 こちらが廃業してからでは、きっと健二のことだ、変な義理立てを考えて「また一緒に暮らそう」なんてバカを言いかねない。なさぬ仲にも関わらず、健二はこちらが実の息子とうっかり勘違いしそうなほど、剛三を気に留めてくれる。それだけで充分ありがたいと思っている剛三としては、健二に自分自身を中心に生きてもらうことが最優先だった。

(俺をどうにかしてから、っつうのが無理だとすりゃあ、やっぱり今のうちに追い出さなきゃなんねえなあ……どうすっかな)

 そして思考は振り出しに戻る。いつもこんな堂々巡りを雑誌コーナーで繰り返す。

 賑やかな声と店員の「いらっしゃいませ」という自動再生が、剛三の溜息を掻き消した。雑誌を戻しながら視線をそちらへ投げれば、女子中学生らしき少女が二人、大きな声で雑談をしながら菓子コーナーの列へと入っていった。

「えー、あんたの親父、サイテー。間違えるとか、うそくせぇし」

 そんな汚い言葉で毒を吐く一人は、まだ幼い面差しを残しているのに、珍妙な化粧を施している。二人はそろいのスカートを履いているが、幾重もの皺を寄せただらしのない靴下の履き方が、まともな制服姿に見せない。

「でしょー? テメエは別の歯磨き粉をママに買ってもらってんだから、ソッチ使えっつうの」

 もう一人の少女は、剛三から見たら不良少女としか思えないほど明るい茶髪に色を染めていた。

「キメェ。唾液がついてるとか思ったら、もうあたしその歯磨き粉を捨てる以外に思いつかないし!」

 いつの時代も父親が思春期の娘から見て敵である、と認識する一方で、同じ年ごろだったときの律保が、どれだけ孝行娘だったかも再認識させられる。その二人の会話を聞けば聞くほど、彼女たちの対極にあった中学時代の律保を思い出させられた。

「でしょー? 私もさ、ムカついてしょうがないから、親父にガン飛ばしたままゴミ箱にソレ叩きつけたんだ。そしたら、家のクソ親父、“そんなバイキンを見るような目で見るな”とか、涙目になってんの」

「マジ泣き? ちょ、何それ笑えるし」

 嫌でも聞こえる下品な笑い。剛三はそれらを耳にしながら、酒コーナーへ向かう道すがら、女子中学生たちの顔を見た。律保とはまるで違ういでたちなのに、彼女たちの瞳の色が、同じ年ごろの律保が宿したそれと重なった。

 父親を、嘲る目。家族だなんて認めないと強く主張する憎悪の目。それが剛三に、嫌でも古い記憶を思い出させた。


 ――お父ちゃんなんか、大ッ嫌い。さっさと離婚して私とお母ちゃんを自由にしてよ。


 離婚の同意を拒み続けていた剛三にサインを決断させたのは、律保の発したその言葉だった。律保はそのとき、同時に言った。養われていると、なんでもいいなりにならなくてはならないのか、と。自分たちは奴隷や家政婦ではない、と。仕事ばかりで、そんなに仕事が大事なら、仕事と結婚してればいい――と。言われて初めて気が付いた。金さえ出してやれば、それで父親の仕事がまっとうできていると勘違いしていた自分に。

 戦争で親を亡くして、物心付いたときには親戚をたらい回しにされていた。子供への愛情の示し方など、まるで解らなかった。似た境遇の健二と出会ってからは、そんな自分の生い立ちなどは、家族と巧くやれなかったことの言い訳にもならないと思い知らされた。

「どうしろってんだよ、ちきしょうめ」

 カップ酒をカゴへ放りながら、誰にともなく文句を零す。隣の扉の前でジュースを選んでいた若い男が、怪訝な顔でこちらを窺った。

「あ? あんちゃん、なんか用か?」

「……いえ」

 彼は逃げるように剛三の前から姿を消した。冷蔵ケースのガラスに映る自分の顔にふと気付く。すっかり白髪のほうが多くなった刈り込み頭。苦労が滲み出る顔の皺は、数え始めたら落ち込みそうなほどだ。眉間の縦皺が先ほどの男を怯えさせたのか。目尻の上がった細い目は、若いころならよくチンピラと間違われて執拗に絡まれたこともあったが、今では老いでたるんだ皮膚が目尻を少しだけ垂れさせている。

「へぇ~……」

 剛三は、カップ酒をもう三本、いつもより余分にカゴへ入れた。


 結局カップ酒一升分すべてを空っぽにした。つまみのさきいかだけが、わずかばかりの幸せを与えてくれた。合わせて買ったおでんの大根は、あまり美味いものではなかった。ゆで卵は煮詰まり過ぎて、黄身が硬くなっていてまずかった。

「な~つかしいなぁ~」

 仰向けに寝そべって、思い出に浸る。千鶴の鍋料理は、ことのほか美味かった。イチオシはやっぱり、彼女の実家が毎年送ってくれたイノシシの肉で作るぼたん鍋だ。次に美味かったのが、おでんだった。ちょうどそのころ覚えた“鍋奉行”という言い回しを使ってみたくて、「おい、箸を寄越せ。鍋奉行は俺だ。俺が仕切る」と彼女の器に装ってやったことがある。

『お父ちゃん……ありがとう』

 たかが器に食い物を装ってやっただけなのに、千鶴は今にも泣きそうな顔をして笑った。それに釣られたのか、赤ん坊だった律保まで声を上げて笑った。自分が家族を笑わせてやれた。そう思うと胸がツキンと痛くなった。甘ったるくてくすぐったい、なんとも言えない痛みだった。

 それから剛三は冬が待ち遠しくなった。鍋料理ばかりを千鶴によく作らせた。千鶴の笑顔が見たくて。律保の笑い声が聞きたくて。離婚を境に、冬が苦痛になった。自分でこしらえ、独りで食う鍋料理ほど、つまらないものはないと痛感させられた。

「夏におでんなんか、暑ぃんだよ」

 自分で買ったくせに、言いがかりに近い文句が零れ出る。

「ち……っくしょうめ……」

 独りの夜は、嫌いだった。昔を恋しがって後悔ばかりが浮かんでは消える。情けない自分を突きつけられると、酒に逃げるよりほかになかった。

 支えになる家族がいない。先行きの不安定さに立ち向かえない老いが、更に不安を煽って悪循環を繰り返す。健二に迷惑を掛けたくないのに、存在自体がすでに重荷と化している。生きながらえた先に何があるというのか。具材のしれない鍋を闇の中でつついて口にするような、ある種の恐怖や不安を覚えるようになった。年を重ねるにつれ、そして景気が悪くなるに従い、それらが剛三の中で大きく膨れ上がっていた。

 “不甲斐なく惨めで孤独な、初老のやもめ”。

 剛三は、そんな自分が社会のクズだとしか思えなかった。

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