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14. 締めうどん

 柔らかな春の陽射しの中、健二は律保(りほ)と縁側に腰掛け、ブランコで遊ぶ娘親子を愛でていた。

「まさか、四十代で“おばあちゃん”になるとは思わなかったわ」

 律保も健二と同じように過去へ想いを馳せていたのか、くすりと小さく笑いつつも溜息混じりでそう言った。

「溜息をつくと幸せが逃げてしまう、と言いますよ。そんなにショックですか。チカに“ばぁば”って呼ばれたこと」

 今日、孫のチカが訪れたとき、初めて律保をそう呼んだのだ。

「だって。私まだ五十二よ? 健ちゃんだって“じぃじ”って呼ばれたとき、“じぃじかぁ”って、しみじみと言ってたじゃない」

 その瞬間はチカの目覚しい成長に喜んだ二人だが、どうやら律保は呼ばれた内容を振り返って落ち込んでいたらしい。

「それは感動したからですよ。俺は一度も誰かをそう呼べたことがなかったから」

 特にこれといって考えもせずにそう答えたが、不意に律保の表情が沈んだものに変わったかと思うと俯いてしまった。

(またネガティブなことを考えてるんだな。まったく)

 松枝の事情を思い出して、自分の言葉を失言と解釈したのだろう。彼女の自己嫌悪が顔に出ているので解りやすい。そこで健二は少しだけ話題を逸らした。

「チカはまだ二歳だから、今はそれで精一杯、というところなんですよ、きっと。これからもっと難しい音も出せるようになれば、“ばぁば”以外の呼び方を覚えることだってできます。確かに、律保さんにその呼び名はあまり似合いませんしね」

 それは慰めではなく、心から思う正直な感想だった。まだ四十代前半でも通用しそうな、白髪の一つも混じらない髪。昔から朋と一緒に服を選ぶのが好きだからか、今でも若々しいファッションを好む。それがまったく浮いてないので、家族で出掛けたときなどは年の離れた姉妹と間違われることさえある。目尻の小皺が少し増えたものの、それはよく笑うからこそできる“幸せの象徴”だと健二は解釈している。彼女の若さと美しさ、幸せな笑みが絶えないのを見るたびに、数少ない健二の誇りを再確認させてもらっていた。

 ――自分が、幸せと感じられる環境を提供する一助となれている。

 誰にもそんな胸のうちを明かしたことはないが。

「健ちゃんだって、“じぃじ”って感じじゃないわよ。私、ついていくのに大変なんだから」

 律保がそう言って茶をすすった。俯きがちなのではっきりとは解らないが、垂れた髪の隙間から覗く頬がほんのりと赤い。

 照れている。そう思うと、妙なむずがゆさが健二の意地悪心に火をつけた。

「俺が年下だからですか。いつも若さを保とうとがんばっているの」

「ち、ちがっ……と、朋が“おばあちゃんみたいなお母さん”って言われたら可哀想だと思って来たから」

 むきになってまともに健二へ顔を向けた律保を見た途端、若いころと変わらない衝動が湧く。飽きることを感じさせない律保の魅力は、今日も健二を翻弄する。

「ということにしておきますね」

 真っ赤になってまくし立てる彼女の言葉を遮り、とどめのように確信の笑みを零してみせる。律保の本心など、どう取り繕おうとお見通しだと言わんばかりの微笑で彼女を黙らせた。

「もう」

 律保はそれだけを口にすると、ぷいとまた縁側へ視線を戻し、そしてまた湯呑みに口をつけた。

 しばらく沈黙が続いた。決して間の空いたことに違和感を覚えない、心地よささえ感じる無言のひととき。チカの高らかな笑い声、朋がブランコを漕いでやる姿、それらが律保と幼いころの朋を見た映像と重なって見える。

「ねえ、健ちゃん」

 律保が娘親子を見つめたまま、そっと健二の名を呼んだ。

「はい」

「お父ちゃんも縁側で、いつもこうして私たちを眺めていたわよね」

「ええ」

「こんな気持ちで見てくれていたのかしら」

「こんな気持ちって?」

 そう問いながら律保へ視線を移せば、彼女もまた健二へ視線を向けていた。

「心から笑って過ごせているのなら、それで充分、親孝行、って」

 そう告げた律保の眉間に、うっすらと数本の縦皺が寄った。唇は笑みをかたどるのにそうなるのは、律保が涙を堪えているときの、彼女に自覚のない癖の一つだ。

「ああ、やっぱりおんなじことを考えていたんですね」

 健二はそう答え、釣られたように苦笑した。

「朋が一回り以上も年上の孝敏くんと結婚する、なんていきなり連れて来たときには大喧嘩をしたけれど」

「そうですね。まさか十代のうちにお嫁に行ってしまうとも思いませんでしたし」

「朋の妊娠が判ったときは、淫行罪で孝敏くんを訴えてやる、って本気で思ったわ」

「あのときは大変でした。朋の二次被害を考えてないんですもの、律保さんてば」

 当時を思い出して苦笑いを零す。朋の夫、孝敏に掴み掛かって殴り飛ばしたのは、健二ではなく律保だったのだ。そしてそんな律保を平手打ちで応酬したのは、ほかならない朋だった。

「まさかね」

「朋のほうから“既成事実を作って親を黙らせる”って迫ったとはねえ……」

 あの気性の激しさは一体誰に似たんだか、と零したら、律保にこめかみを小突かれた。

「私ね、そのあとの孝敏くんが私たちに取った行動を見て、健ちゃんと重なったの」

 そして自分と剛三の姿が被った、と、自分たちが剛三へ結婚の意思を告げに赴いた当時のことを振り返った。

「親になってみて初めてわかることって、いっぱいあるのね」

「そうですね。……ねえ、律保さん」

 自分が言ってよいものかどうかを考えたものの、結局は律保へ伝えることにした。

「俺、このごろやっと、親父さんがこのブランコをとても大切にしていた理由が解った気がするんですよ」

 健二はそう切り出し、興味深げな視線を寄越す律保へまっすぐに視線を向けて言葉を繋いだ。

「時を隔てても変わらないものがある、っていうことを、このブランコから感じていたのかな、なんて」

 順繰り。時が流れても、時代が変わっても、変わらないでよいものが、変わらないものとしてここにある。そんな意味合いのことを、健二はとつとつと語った。

「親父さんも、朋を見てよく言っていましたよ。“律保のちっせえときを思い出す”って。すごく懐かしそうに、笑ってました。いつも、ここで。庭を見ながら」

 遠い昔に想いを馳せる。健二たち夫婦が思っていた以上に深くて温かな剛三の愛情が、じんわりと健二に一つの結論を導き出させてから数日が過ぎていた。

「律保さん。もう自分を責めるのは、お互いにやめましょう」

 健二の発したその言葉に、律保が大きく目を見開いた。

 剛三が再発作で亡くなったとき、二人は家を留守にしていた。剛三の最期を看取れなかった自分たちを、何ヶ月も、何年も、誰になんと慰められようと責め続けていた。

「なんのために一緒に暮らしてたんだ、って。悔やんでも悔やみ切れませんでしたよね」

 健二に元気よく手を振る初孫に手を振り返しながら、同じ思いでいた律保へ聞かせるために、わざと言葉に置き換えた。

「最期まで親不孝な娘のままだった、って」

 苦い思い出を語る律保の声が震え出した。

「健ちゃんにも、すごくつらく当たったわよね」

「映画に行こうなんて言ったせいだ、ってね」

「私も喜んで出掛けたくせに、ね」

 そう言ってくすりと笑うくせに、手にした湯飲み茶碗にしずくが一つ。健二はそんな律保に気付かない振りをして言葉を繋いだ。

「でも、朋を見ていて思うんです」

 ――どれだけ何をしても、きっと親孝行ができた、なんて満足は得られない。

 健二は続く言葉を考えあぐね、間を持たせるように茶をすすった。

「朋が孝敏くんを伴ってここへ来ないのは、親への最初で最後の不義理が原因なんじゃないか、と思うんです。罪悪感というか……そういうものなんじゃないかな、と」

 若さゆえの青さが燻り続け、娘夫婦はいつまでも過去の確執に囚われている。彼らに上っ面の和解と誤解されているのではないか、と健二は語った。

「健剛が二十歳になったでしょう」

 律保はその話題を避けたかったのか、朋ではなく長男の健剛に話題を移してしまった。話の持っていき方をしくじったかな、と心の中で悔やみながら、健二は黙って律保の話に耳を傾けた。

「孝敏くんが、飲みに誘って来るようになったんですって」

「え。ゼミの飲み会じゃなかったんですか、あれ」

 意外な内訳話を聞いて、つい口を挟んでしまった。頷いた律保が語ったのは、健剛を介して知らされた孝敏と朋の涙ぐましいほどの気遣いと思いだった。

「私たちの誕生日や、父の日や母の日、季節の挨拶とかもね、その都度、今私たちの欲しがりそうなものを健剛に聞いてくれてたみたいなの。朋に聞いておくよう頼んだところで、私たちのことだから“気持ちだけでいい”って断るのが目に見えていたんでしょう、きっと。チカのお宮参りや初誕生のことも、あちらの御実家は全部金一封にしてくださったでしょ? 朋が好きなものを選んで買えるように、なんて仰っていたけれど、本当はそうじゃなくて」

「律保さんや俺たちが初孫にしてあげたいことができるように、って?」

「そう、みたい」

 ――結婚の意思は覆せません。だからお義父さんとお義母さんへ不義理を犯したことは、一生二人で償い続けます。

 揉めた当時に告げられた孝敏の言葉が鮮やかに蘇る。

「今日ね、健剛に、私から直接孝敏くんを呼んでやれば、って言われたの」

 今夜は健剛も下宿先から戻って来て、久々の一家団らんにする予定だった。

「さっき健ちゃんが言っていた、“自分を責めるのはやめにしないか”って言葉ね。……嬉しい。背中を押された気がする」

 律保は掌で目頭をそっと拭うと、少し無理を利かせた笑みをかたどった。

「後悔はやっぱり残るけれど、それをいつまでも引きずって暗い顔をしていても、お父ちゃんは喜ばないわね、きっと。健ちゃんもそう思ったんでしょう? 朋や孝敏くんの気持ちを知ったとき、私もそう思ってしまったのだけど……健ちゃんは、孝敏くんを赦せている?」

 そう問われる中、健二は考えていた。親から子へ、子から孫へ、そうやって脈々と受け継がれていく。まるであのブランコのように。健二はそんな想いを巡らせながら、朋とチカの興じているピンクのブランコをまばゆげに目を細めて見た。

「もちろんですよ。朋がああして笑って過ごせているなら、それでいい」

 そう言って律保へ視線を移すと、彼女が驚いたように目を見開いた。その弾みでまなじりから透き通った雫が零れ落ちた。

「え。どうして律保さんが泣くんですか。俺、なんかヘンなこと言いましたか」

「ううん……ねえ、健ちゃん」

 うろたえた健二に答えもせず、律保は笑いながら目尻を拭う。相変わらず気持ちがころころとすぐに変わる、忙しい人だ。そんな感想を抱きながら、彼女に話の続きを促した。

「なんですか?」

 彼女はしばらく言葉を探すように押し黙っていたが、やがて意を決したような面持ちで、健二を見つめ返した。

「お父ちゃんが私にくれたものを、私たちはちゃんと朋や健剛に繋げていけてるんじゃないかな、ってようやく思えるようになったの」

 律保がそう言って、遠い昔、健二が零した懺悔の言葉を繰り返した。

「家族旅行もできなかったとか、朋の花嫁姿どころか小学校の入学姿も見せることができなかったとか、健剛の記憶にお父ちゃんを残してやれなかったとか、もっと早く私のことをお父ちゃんに打ち明けておけばよかったとかね、言っていたけれど」

 ――健ちゃんがいてくれたお陰で、お父ちゃんは幸せの中、笑って逝けたのだと思うの。

「だから、出逢ってくれて、ありがとう。健ちゃんは充分過ぎるくらい、私たち親子に寄り添って来てくれたわ。きっとお父ちゃんもそう思っていたはずよ。だから、私もおんなじ言葉を健ちゃんに返すわ。もう、悔やんだりなんかしないで。これからも一緒に笑って暮らしましょうね」

 独りぼっちじゃないから、とはにかんで笑う。子供たちが巣立ってしまっても、自分はいつも一緒にいるから。またほんのりと頬を薄紅色に染め、俯きながらそう零す声は、とても小さかった。ともに重ねる歳月が経つに連れて増していくものが、健二の鼻をツンとさせた。

「律保さん」

 いつまで経っても変わらない互いの呼び名が、若いころと少しも変わらないどころか、増していく想いを表していた。

 ただ心から笑っていてくれるだけで、自分まで幸せになれる。時代も世代も風潮も超えて、変わらないものが、本当はある。

 自分が幸せだと感じていることが、そのまま親の幸せでもあるのだと。

「なあに?」

 そう問うくせに、ちゃんと瞼を閉じてくれる。健二はそんな律保に、そっと顔を近付けた。

「好きで」

「ちょっと、縁側のそこーッ! いい年こいて、子供の前でイチャコラしないっ!」

 朋のけたたましい怒鳴り声で、健二と律保ははっと我に返った。久しぶりの至近距離が、少し年老いた心臓を酷使させる。咄嗟に律保と距離を置くと、まったく同じ分だけ律保まで距離をとった。

「……怒られちゃった」

 律保が俯いてそう零せば、

「怒られちゃいましたね」

 と健二まで頭を掻いて俯いてしまう。

「ええと、あ、そろそろ健剛も着くころね。お鍋に火を入れましょうか」

 律保がわざとらしいくらい大きな声で、朋にアピールするかのように立ち上がった。

「そうですね。俺、何か手伝いますよ。今日はなんの鍋ですか」

 健二もさりげなく立ち上がり、そそくさと台所へ向かう。

「もちろん、ぼたん鍋よ」

 あ、そうだ、と思いついたように、律保が庭を振り返った。

「朋ー、いつもの鍋屋さんへ行って、ぼたんをいただいて来てちょうだい」

「えー。今から? 先に言っておいてくれれば、来るときにもらって来れたのに」

「うっかりしてたのよ。いいから散歩がてらに、ほら」

「んもう、面倒くさいわね。チカ、おいで。ついでに駄菓子屋さんにも行こうね」

「あいっ」

 そんな声を聞きながら、健二は律保に少し遅れて縁側へ戻った。

「ばぁばっ、じぃじっ、いっ、ま!」

 不幸を一つも知らない満面の笑みが、元気よく手を振って健二と律保を振り返る。

「はい、行ってらっしゃい。チカちゃん、おつかいをお願いね」

 律保がそう答えるころには、すでにチカが背を向けて駆け出していた。

「気をつけて行っておいで。チカ、ママの手を離しちゃダメだよ」

 健二の声は、はたしてチカに届いていたのだろうか。そう思わせるほど勢いよく、二人は競争をするように門の向こうへ消えていった。

 小さな点になった二人を見つめながら、健二は思う。

(ちょっと面倒くさくてうっとうしくて、だけど結局、温かい。そんなやり取りが、結局みんな好きなんだ)

 健二の面に微笑が浮かんだ。ふと隣を見下ろせば、同じように笑みを浮かべる律保が、健二を仰ぎ見た。

「今のうちに、孝敏くんに電話をするわね。朋とチカを驚かせてやりましょ」

 晴れ晴れとした彼女の微笑が、健二に勢いよく首を縦に振らせた。


 律保と一緒に鍋の準備をする。この家を巣立った子たちが訪れるたびに鍋料理を振舞うのが、岩田家の常だ。

 取り箸なんて要らない。気兼ねなく皆で鍋をつつく。喧嘩をしながら、取り合いながら、だけど笑って舌鼓を打つ。

 ぼたんの味と、“ちょっと不便で窮屈で、なのにやっぱり温かな何か”に、身体と心を満たしてもらう。今回、そこにまた一人、新たな面子が加わってくれる。そう思うと健二は、年甲斐もなく浮かれていた。

「律保さん」

 ちょっと不便で窮屈な、家族以外でも常に誰かしらが訪ねて来るこの家での貴重な“二人きりの時間”を存分に味わいたい、という矛盾した欲が湧いて来る。

「俺、ネギは嫌いですってば」

 子供や孫の前では決して言えない台詞を吐いて、律保に甘えた声を出してみると。

「わがままは許しません」

 今日も律保は、笑ってそんな健二をやりこめた。

「えー、じゃあせめて刻んでくださいよ」

「刻んだらすくえないでしょう」

 律保の手にした包丁が、少しだけ怖い気もしたけれど。健二は文句を言いながら顔を上げてこちらを向いた律保の不意を突いてやった。

「隙あり」

 と呟くとともに、不意打ちで彼女の右手を封じ込む。

「んん!?」

 カタンとまな板の上に包丁の放り出された音がキッチンに響く。彼女の右手を解放し、代わりに彼女をきつく抱きしめて柔らかな感触を味わうに従い、健二の我欲を煽る細い腕が首に絡みつく。応えるようにしがみつく彼女をより抱きしめれば、鍋が湯の沸騰を知らせるまでその感触におぼれていた。

 吹いた鍋に叱られ、渋々と身を剥がす。途端、ぼたんよりも真っ赤に頬を染めた律保が、取り繕うように怒鳴り散らした。

「もももももうッ、何よいきなりっ。朋たちが帰って来たらどうするのよっ」

「朋のことだから負けん気を出して、今夜は二階も賑やかになるとか? うわ、健剛が可哀想ですね、それ」

 健二がそう言っておどけてみれば、律保の首筋までが赤くなる。

「健ちゃんのえっち!」

「あは、律保さんって、いくつになってもかわいいですね。まだそういう話で照れちゃうんだ」

 健二の高らかな笑い声が、庭先まで響き渡った。

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