02. 鍋の具材・その一
律保の二十六歳初日は、これまで迎えた誕生日の中で、だんとつの厄日となった。律保がそう振り返ったのは、家を出てから十数分後。それまでは、朝一番に見舞われた大きなアクシデントのことで頭の中がいっぱいになっていた。
律保の住むアパートから、ほんの数分まっすぐに歩いた場所。角の民家が植木を伸ばし放題にしているせいで、ドライバーにとって見通しが悪いと近所で噂の“事故多発の要注意三叉路”。アクシデントはそこで起きた。
いつもの律保なら、そこで一旦立ち止まり、車の有無を確認してから進むのが常だった。
(やばい、あと三分で電車が来ちゃう)
律保はその日に限って、腕時計の時刻に気を取られてしまった。ほどなく聞こえたクラクションの音。その音に驚いた律保は、ようやくその段階で時計から目を離した。
(あっ)
声にすらならないうちに、律保の思考がホワイトアウトした。バレッタで留めていた栗色の髪が、まだ少しだけ肌寒い三月の空に舞い踊る。その隙間から切り取られた映像が、律保の細く吊り上がった目を大きく見開かせた。
軽トラックのハンドルを握る若い運転手が、血の気の引いた顔で驚きの表情を浮かべていた。耳障りなブレーキ音が、あり得ないほどの大きさになって律保の鼓膜をつんざいた。次の瞬間、乱れ舞った髪が目と耳を塞いですべてを律保から取り除いた。直前に見えた景色は、一瞬にして縦と横を入れ替えられていた。
(倒れるッ!)
崩れ落ちた直後、左足のすねとくるぶしに激痛が走った。律保は咄嗟に右肩に掛けたバッグで頭部を守っていた。
(痛……ッ、もう、サイアクの誕生日)
咄嗟に湧いた愚痴が声になるよりも早く、大きな声が律保の意識をそちらへ向かわせた。
「大丈夫ですかっ」
そう尋ねて来たのは、男性の声だった。乱暴に閉められたドアの音が、その声にかぶさって路上に響いた。相手が男だと思うと、意固地な自分が顔を覗かせる。律保は全身に走る痛みを顔に出すまいと、ついひそめたくなる眉間に力を込めた。
「すみません」
気丈な声でそう言いながら、ゆっくりと上半身をアスファルトから起こした。乱れた髪を掻き上げながら、余裕の笑みさえ浮かべてみせる。
女だからと見くびられたくない。弱いなどと、勝手に位置付けられたくなんかない。律保はその負けん気だけを支えに、見知らぬ運転手に言葉を繋いだ。
「急いでいたので、つい飛び出し」
「こちらこそ本当に申し訳ありません。どこか打っていませんか。痛むところは?」
律保の口にし掛けた言葉が、運転手の謝罪と重なった。律保の意地が砕けそうなほどの、うろたえた青年の表情にどきりとした。彼は何よりも先に、律保の身体を案じてそう尋ねて来た。そこに保身や嘘はまるで感じない。本気の謝罪を伝える声や口調が、律保の声音を少しだけ柔らかくした。
「いえ、本当に」
そう言い掛けた言葉が、途中で止まってしまった。律保は視界の片隅に入った軽トラックに気付いた瞬間、目の前の存在を忘れてその荷台に釘付けになった。
「岩田、左官店」
荷台には、剛三が乗っていたトラックと同じ字体と表記がペイントされていた。
「あ、あのっ。すぐ警察に電話をするので」
ひどく怯えた声が真正面から聞こえて我に返る。律保はその段になって、ようやく青年に関心を寄せた。
ラフなカジュアルシャツにジーンズという服装は、どう見ても出勤途中とは思えない。だが、まだ三月の半ばで肌寒いときさえあるこの季節なのに、こんがりと焼けている肌の色。シャツの上からでも判る上腕二頭筋の発達具合。今は接触事故というトラブルで少々精悍さが削がれているが、本来の彼の面差しは、仕事に誠実な好青年と思われる。細い奥二重の瞼に包まれた瞳はとても綺麗だった。少しだけ下がったまなじりは、人柄の温かさを感じさせた。
「事故の件は、自分の職場へ連絡をしないでいただけませんか」
彼はそう言うとともに、律保へ名刺を差し出して来た。
「自分、松枝健二っていいます。携帯電話は自分個人の番号です。必ず電話に出ますから」
健二の言い分をBGMに見せられた名刺には“岩田左官店・営業担当・松枝健二”という名前が記されていた。その下に、左官店の住所と電話番号、そして松枝健二個人の携帯電話の番号も手書きで添えられていた。
「このトラックは貸してもらっていただけで、出勤途中じゃあないんです。自分のことでこれ以上、親父さんに心配を掛けたくないんです。勝手言ってすみませんが、その、精一杯のことをさせてもらいますから。逃げたりとかもしませんから。あの、どうかその、親父さんには内緒に……お願いしますッ」
土下座までされてしまった。両手で名刺を丁寧に掲げ、献上するとばかりの低い腰で。そこまでされてしまうと、何か深い関係や理由を勘ぐってしまう。律保は一瞬混乱した。
(心配? お父ちゃんは、そんな人じゃなかったわ。じゃあ同姓の別人であって、お父ちゃんではない、ということ?)
(でも、親父さんという人に知られてしまうことへの怯え方が、尋常じゃないって気もする。もしお父ちゃんが雇っている人だとしたら……暴力を振るわれている、かも?)
松枝健二自身にも興味の湧いた律保は、とにかく彼を落ち着かせるのが先決だと判断した。
「あの、松枝さん。私が飛び出したのだから、そんなにビクビクしないでください。トラックには当たっていませんよ。お願いですから、頭を上げていただけませんか。でないと、こんなところではお話もうかがえないでしょう?」
健二と話がしたかった。それと、痛みの増していく左足をどうにかしたい。それに、会社に欠勤の連絡もしなくては。この時間では、もう確実に間に合わない。
「そ、そうですよね。すみません。えっと、とにかくまずは警察に電話を」
それには律保のほうがうろたえた。
「あ、いえあの、だからちょっと待って」
「え?」
「私にも事情があって、警察への連絡はご遠慮いただきたいんです。あなたを信用しますから、とにかく病院まで連れて行っていただけますか」
「……え?」
健二は、困惑というよりも、警戒の色を浮かべた。彼の右眉尻が、ひくりと一度だけ動く。当然と言えば当然だ。警察の介入を拒むなど、普通ならあり得ない。当たり屋と勘違いでもされただろうか。それとも金目当てで示談を先延ばしにされると不安に陥れてしまったのだろうか。ぐるぐると廻る憶測を払い除け、律保はとにかく人目に触れない今のうちにこの場から離れることを提案した。
「信用しますから、あなたも私を信用してください。ホームドクターのところで受診したいんです。そこなら事情を説明したら、すぐに診てもらえますから。松枝さんもそのほうがいいでしょう? だから、人が家から出て来る前に」
律保は一気にまくしたて、健二の腕にそっと触れた。
「すみません、手を貸してください。本当は左足が痛くって」
つるりと甘えの言葉が漏れる。大丈夫だと言ったそばから何を言っているのだと、律保は自分自身に呆れ返った。
「ああ、やっぱり。すいません、本当にすみません。では、失礼します」
肩を借りるという意味だった律保の意図が、どうやら健二には伝わらなかったらしい。
「え……きゃっ」
いきなり横抱きに軽々と抱え上げられた。
「あっ、ご、ごめんなさい。痛かったですか」
と覗き込まれた瞳を見た瞬間、一気に湧いた嫌悪や恐怖が跡形もなく消えてしまった。代わりに心臓が悲鳴を上げた。強張った体が、抵抗を試みようとした両手が、いきなり抗うことを放棄した。
「……いえ、大丈夫」
痛くなかったことはないが、それ以上に、驚いた。
(まさか、この年になってからお姫さま抱っこを経験するとは思わなかったわ)
妙に頬が火照って仕方がない。その数秒間だけは、律保の中から異性に対する敵意が消えていた。
律保が生まれたときから世話になっている福岡医院へ運んでもらった。ここの福岡院長は、剛三や浜崎よりも通算の付き合いが長いせいだろうか、律保にとって最も父親に近しい立ち位置の存在だ。剛三とは小学時代からの幼馴染らしいが、彼は剛三の加勢をして頭ごなしに律保を諭すようなことをしない。ただ黙って律保の話を聞いてくれる理解者だった。今の律保にとっては、数少ない頼れる存在とも言えた。
「あらら、やっぱりヒビが入ってますねえ」
レントゲン写真を見た福岡は、初老の門をくぐろうとしている割には若く軽い口調で、律保の隣に腰掛ける健二にとっては非常に残念で憂鬱な診断結果を口にした。
「そんなあ。でも通院で済むんでしょう?」
状態を知っておきたいので一緒に話を聞かせて欲しいと申し出た健二の前では、できるだけ彼の負担にならない話し方で説明をして欲しかった。そんな思惑をこめて、律保はもう一度福岡に聞き返した。
「普通はね。でも、りっちゃんの場合は話が別。君はすぐに無茶をするから。大人しく三ヶ月ほど、家で寝泊りしときなさい」
「えー」
あくまでも、軽く。内心で沸々と煮えるはらわたを堪えてぼやいてみる。視界の隅で蒼ざめる健二が気の毒過ぎた。接触そのものが負傷原因であれば、角度的に左すねやくるぶしの骨折はあり得ない。つまり、律保は健二の運転していた車に驚き、自分から転んでしまったのだ。自分の重みで骨にひびが入ったという恥ずかしい事実を、ようやく福岡が説明してくれた。
「松枝さん、ご心配には及びませんよ。接触の衝撃で骨折したのであれば、ひび程度では済みませんからね。転んだ拍子に自重が全部左足へ集中してしまったんでしょう。松枝さんに過失はありませんから、そんな顔をしないでください」
福岡は、目を細めてそう言うと、身体も健二のほうへ向け直した。
「私はこの子が生まれたときからホームドクターとして診て来てましてね。性格も、ようく解っています。病室のベッドに括り付けておくくらいしないと、いつまで経っても完治しない子なんですよ」
福岡はそう言って、心底おかしそうに「ふはは」と笑った。さすがにそれは、ひどいと思った。それではまるで、自分が自己管理もできない幼稚な子供だと初見の健二に恥を晒しているようなものではないか。
「先生ったら。余計なお喋りしないでください」
冗談めかして苦笑を浮かべ、それでも本気で言い返す。
「おや、違うのかね?」
「もう、先生は個人経営だからそう言うけれど、勤め人が長期間休むのって、すごく気が引けるものなのよ」
「じゃ、入院決定だな。診断書を出されれば、会社だって休ませないわけにはいかないだろう?」
「だ、か、らっ。無理っ」
そんなやり取りを見た健二が、戸惑いの表情を浮かべて福岡と律保の顔を見比べた。思い出した、彼もまた出掛ける用事があったからこそ自分と出くわしたのだということを。
「そういうわけで、松枝さん。本当にこちらこそ、お引き止めした上に甘えさせていただいちゃって申し訳ありませんでした。お出掛けの予定だったんですよね?」
結果として、警察に通報して恥を掻かずに済んだ。両親に余計な心配――というよりも、詮索をされずに済みそうだ。ただ一つだけ心残りはあるものの、まあ仕方がないと割り切り、律保は健二にそう言って話に一区切りをつけた。だが律保の口調に、どこか名残惜しげな思いが乗ってしまったような気がした。
「はあ……いえ、その、なんというか」
健二はそう口ごもり、しばらくの間、言葉を選ぶように瞳だけを四方へ動かした。
「あの、差し出がましいご提案かもしれませんが」
どこか弱腰だった彼の口調が、強くはっきりとした固い意思を感じさせるものに変わった。
「ケガが治るまで、自分に送り迎えをさせていただけませんでしょうか」
勤務先への送り迎えと、週に一度の通院日に、あの軽トラックに乗ることが苦痛でないなら、せめてそれくらいはさせて欲しい、という。
「そもそも自分がスピードを落とし切れていなかったせいで、こんなことになってしまったのだから」
いかがでしょうと、まっすぐな瞳が食い入るように律保の目を覗き込んだ。清々しいほどの爽快な笑みに少し不似合いな、切実さを彼から感じる、というのは、気のせいだろうか。
「……お言葉に、甘えさせていただきます」
するりと零れ出た答えに、大きく瞳を見開いた福岡以上に律保自身が驚いた。
時刻は昼をとうに過ぎていた。
「律保さん、とにかく飯でも食いませんか」
いきなりファーストネームで呼ばれてどきりとした。思わず「律保さん?」とおうむ返しをしてしまう。
「あ。えっと、厚かましかった、ですかね、すみません。親父さんと同じ苗字なんで、どうも苗字では呼びにくくて」
そう言い繕って頭を掻く健二の耳たぶまでが赤く染まった。
(世間慣れしていそうなのに、女性の扱いには慣れていないのかしら。かわいいっていうか……初々しい感じの人ね)
苦笑とともに、なぜかすんなりと「律保のままでいいですよ」と答えていた。
律保は健二の提案に二つ返事で乗った。このまま彼とまた見知らぬ者同士になることが、何よりの心残りだったせいだ。それは健二自身への関心というよりも、彼の雇用主に対するもののほうが大きい。
岩田という彼の雇用主は、四年前に行方知れずになった剛三なのだろうか。それとも偶然の一致に過ぎない別人なのか。
とにかく鉢合わせをしないために、剛三の居所を把握しておきたい。でも、自分の所在は伏せておきたい。少しでも出くわす可能性があるとすれば、先手を打って避けるに限ると考えている。健二の雇用主が父なのかそうではないのかを確かめることは必須だった。
「松枝さん、お勧めのお店があるの。来月から春メニューになってしまうから、鍋料理の食べ納め、なんてどうですか?」
剛三と言えば、鍋料理を思い出す。彼の反応で推し測ろうと、そんな提案をした。
メニューまでは把握していなかった。ただ、鍋がランチメニューと知っていただけで。
目の前でくつくつと煮えるぼたん鍋を、律保は複雑な心境で見つめながら器を手に取った。
「ひょっとして自分、無理やり律保さんをお誘いしてしまいましたか?」
真正面からのそんな声に、はっと我に返って視線を上げた。鍋から立ち上る湯気の向こうから不安げに見つめる健二と、まともに視線が合ってしまった。
「そんなっ、そんなことないですよ。ちょっと昔を思い出して」
律保はそう言って、ぼたん鍋の思い出を少しだけ語った。
「母の実家が信州で、私が小さいころは、実家から送られて来たイノシシの肉でぼたん鍋を作ってくれたんですよ。前の父が大好きだったから。母の作るぼたん鍋が、それはもうすごく美味しくて」
「前の?」
健二から問い返されて初めて、自分の迂闊さに気付いた。
「私の母は再婚で、私は母の連れ子なんです。ごめんなさい、余計なことを言っちゃった」
自分の失言を嗤う苦笑が、結果的に「そんなことは気にしていない」と伝える芝居めいたものになった。
「あ、いえ。俺のほうこそ、余計な突っ込みを……ええと、昔を思い出して、ってことは、今はお母さん、ぼたん鍋を作れないんですか?」
そう返す言葉以上の思いが、彼の言の葉いっぱいに乗せられているのが感じられた。
(優しい人、なのね、この人は)
敢えて砕けた口調に切り替える、さりげない配慮。過剰にプライベートの核心に土足で上がりこんで来ることもなく、かと言って、こちらの失言を無視するわけでもない。健二が心の痛みを知っている人だと、好感を抱いた。それが律保に明るい微笑をかたどらせた。律保は彼の好意に甘え、話題を鍋に戻した。
「ええ。いつの間にか母の実家からぼたんが送られなくなって。今日ここに来れてよかったわ」
律保の言葉で、健二がほっとしたような笑みを零して同意した。
「俺も、いいお店を紹介してもらえて嬉しいです。実は鍋料理ってめったに食ったことがないんですよ」
「冬でも食べないの?」
「家族の団らん、っていうのを知らないんですよ、俺。独りじゃ鍋なんてする気にならないし」
健二はぽつりとそう漏らすと、視線を落として苦笑を浮かべた。彼にとても似合わない寂しげな微笑が、律保の胸をツキリと痛ませた。
「なんか私、また余計なことを言っちゃったみたい。ごめんなさい」
ばつの悪さで居心地が悪くなり、律保は沈黙をごまかそうと器の汁をすすった。
「ああ、いやもう、全然。今は親父さんがいるから、独りぼっちっていう感覚は忘れましたよ」
健二は取り繕うように、身の上話を饒舌に語った。小学生のとき、家族旅行の旅先で交通事故に遭って両親を亡くしたという。親戚をたらい回しにされ、最後に預けられた先で大事に育ててもらっていたものの、進学費用について伯父と伯母が喧嘩しているのを偶然見てしまったそうだ。気兼ねした健二は中学卒業を控えた冬、求人の貼り紙を頼りに“親父さん”を訪ね、縋る思いで雇ってくれと懇願した。
「そしたら親父さんのやつ、名前に違わずっていうのかな。あ、親父さんの名前って岡にリットウのツヨシって字に数字の三で“剛三”って言うんですけどね。名前負けしないくらいの強面のくせに、泣きやがったんですよ。泣きながら、えらい説教をかましてくれまして」
――今どき高校も出てねえんじゃあ、どんだけ素質があってもバカにされるだろうが。てめえはバイトでしか使ってやらねえ。
健二が言うところの“親父さん”は、宣言どおりバイトとして健二を雇ったそうだ。その傍らで「バイト代から天引き」と称して、翌年には健二を高校へ進学させたらしい。
「家の親父さん、ぶきっちょな人で、だけどすごい人情派な人でしてね。典型的な戦時中に生まれた世代、って感じの人です」
「戦時中に生まれた世代?」
「ええ。昭和十三年生まれって言ってました。三男だから“剛三”だなんてやすい名前を付けやがって、なんて言ってました。親父さんも親なしっ子だったらしくて」
昭和の人。そんなフレーズが、再び実父を連想させた。そして何よりも驚いたのは、名前の一致。偶然が過ぎると思ったが、健二の言う“親父さん”と律保の父親の人格が、同じ“剛三”なのに、あまりにも違う。
「そんな親戚の家じゃあ居心地が悪いだろう、って、大学を卒業するまでおんなじ屋根の下に置いてくれたんです。俺の親父代わりになってくれた、一等大切な恩人です」
という話を聞いていると、同じ昭和をイメージさせる人物像でありながら、大きなずれを感じてしまう。
「だから今度の事故も、知ればきっとものすごい心配をさせちまうと思って、つい焦ってしまって。律保さんには、いろいろと失礼なことを言ったんじゃないかって気がします。すみません」
照れ臭そうにそう語る健二が嘘をついているようには見えなかった。だが、律保はどうしても腑に落ちない。もし彼の言う“親父さん”が律保の父親だとしたら、そんな人情話はあり得ない。剛三は「仕事の鬼」と職人仲間からも言われるほどの、仕事以外にまるで興味のない人間だったはずだから。
(同姓同名の、別人? かなり稀だと思うけど、可能性はゼロじゃない……かも)
律保の中で、一つの懸念が薄れていった。やんわりと浮かんでいく微笑が自然なものへと変わっていった。
「ステキな親方さんですね。家の上司に見習って欲しいくらい」
おかわりを健二の器に装って差し出しながら、心から思った言葉をそこへ添えた。
「ありがとうございます」
健二は律保の手から器を受け取りながら、心から嬉しそうな笑みを浮かべた。
半分の失意と、半分の期待。剛三の所在を掴み損ねたことは残念だったが、この青年は、律保と同じ業界で営業を担っている人物だ。個人経営の業界ランクなので、現在ほどの高給は望めないだろう。だが、そのランクであれば受付のみなどという物足りない職種ではなく、技術職として雇ってくれる会社を知っているのではないかと思われた。職場の待遇に不満を覚えていた律保は、同じ建設業界の中で、もっと女性社員を男性社員と同様に扱ってくれる職場を探していた。この不況下で手段を選ぶ余裕などない。二十六歳という年齢の面から見ても、ゆっくり仕事を探す時間の猶予など残されてはなかった。
『受付の椅子がそろそろ生温かくて気持ち悪いんじゃないのかい?』
人事部長が口走ったセクハラ紛いの言葉が、また脳裏を過ぎった。律保はそれを砕く勢いで、煮詰まって固くなってしまった肉を食いちぎった。