09. 湯豆腐(2)
慎ましい音量でしか流れていないはずの有線放送が、いつもよりその存在を強く主張しているように聞こえた。剛三が胸の内で切望していた老店主の戻りは、当分叶うことがないらしい。窓ガラスの向こうに見え隠れする老店主は、通り掛かった同世代らしき買い物客との井戸端会議に夢中だった。
「お父ちゃん、なかなか連絡をくださらないから。壁の補修工事が終わるまでは忙しいかと思って、これまでは控えていたのですが」
無言ながらもどうにか千鶴の向かいへ腰を落ち着けた剛三に、千鶴のほうから口火を切った。
「今日は、律保のことでお願いがあって参りました」
なかなか溶けない砂糖を掻き混ぜ続けていた剛三の手が、その瞬間ぴたりととまった。
「律保に、何かあったのかよ」
娘の名前と「お願い」という言葉を聞いた途端、ざわりと体中が総毛立った。剛三から学費を始めとした律保への支援をごり押しすることは、行方をくらます前までに何度もあった。だが、千鶴が自分を探し出してまで頼みごとをして来ることなど、これまでに一度としてなかったからだ。
千鶴は剛三のそんな不安を読み取ったのだろうか。一瞬驚いた顔を見せたかと思うと、相変わらずの苦笑を浮かべて前置きの言葉をつけ足した。
「悪い知らせでは、ないんです」
そのあとにおいた彼女の一呼吸は、何から話そうかと考えているように感じられた。彼女は瞳を左右に揺らめかせ、少しだけ間を置いた。
「律保が、結婚を考えておりますの。そのことでお父ちゃんにお話したいことや伺いたいことがありまして」
その切り出し文句に、様々な想いがない交ぜで過ぎった。
「結婚……律保が」
「はい。まだ少し迷いがあるようで、お返事はしていないようなのですが」
今でも忘れられない。目を潤ませて叫んだ律保の、決定的な一言。
『お父ちゃんなんか、大ッ嫌い。さっさと離婚して私とお母ちゃんを自由にしてよ』
親の嫌な姿を目の当たりにして、好いた男が現れたものの結婚にまで踏み切れない、といったところだろうか。そんな推測に思い至ると、まだ律保に赦されていないと思い知らされる。親としての不甲斐なさで落ちた肩をごまかすように、胸ポケットへ手が伸びた。
「あいつが、結婚か。二十……いくつになるんだっけか」
「この十二日で二十八になります」
そんな相槌とともに、灰皿が剛三の側へ寄せられる。一の動きを見て十を知る。そんな気働きも相変わらずな千鶴の所作に、剛三の胸がかすかに疼いた。
「律保としては、岩田を名乗っているのでお父ちゃんの許しを得たいようです。ですが、浜崎に対する義理も感じるらしく、お相手の方への返事を曖昧にしております」
耳に心地よいおっとりとした声が、剛三の予期していたこととはまるで違う内容を口にした。視界がゆらりと波打ったのは、燻らせた煙草の煙が目に沁みたせいだ。剛三は自分にそう弁解しながら、首に巻いたタオルで乱暴に顔を拭き取った。
「律保が、そう言ってたのか」
「いいえ。ですが、そういった迷いを感じました。相手の方のお人柄から影響を受けたのか、とても柔らかな気性になりましたよ、律保は」
「そうか……。相手のヤツは、家の事情を知った上で、それでも律保を嫁にくれって言ってるのか」
「はい。早くに親御さんを亡くされたとかで、とてもご苦労された方です。早く自分の家族が欲しいと仰っていました。あの勝気な律保に、弱音や本音を吐き出させてくれる、とてもステキな方なんです」
二人の父親への義理立てで色よい返事ができないでいる律保に、剛三の思うままの一言を自分に託して欲しいと千鶴は言った。
「相手の方とお会いしたこともないのに、お返事に困りますよね」
実は律保にもその相手にも、剛三にこんな話を持ちかけることは内緒にして来たという。浜崎と相談した結果、一番の参考資料になるだろうと提案されたものを持って来た。千鶴はそう言いながら、バッグの中をまさぐった。
「これは律保が書いた、昔の記憶を整理する日記です。記憶が間違っていないかと言って、こうして私によく見せてくれるんです」
そう言った千鶴に差し出されたのは、数冊の大学ノートだった。
「もし律保と会う機会が訪れたとしても、これを見たことは内緒にしてくださいね。私が信用をなくしてしまいますから」
千鶴のそんな言葉をBGMに、『思い出し日記』と書かれたそれをパラパラとめくってみる。ページの左端に『〇〇歳ごろ』と記され、残りの右側の部分には懐かしい出来事が所狭しとぎっしり散りばめられていた。
「えれえ巧い字を書くようになったじゃねえか。漢字だらけで、俺にちゃんと読めるんだかな」
剛三は沈黙の気まずさに耐え兼ねて、そんな卑屈な言葉と苦笑いで妙な静けさをごまかした。
「律保の気持ちの変化を知っていただければ、それで充分です」
そんな穏やかな声を聞きながら読み進める。現場でのボール遊びの思い出や、律保が積み上げたセメント袋の上でふざけて暴れたために、荷が崩れてセメント粉だらけになったこと。そのとき皆で慌てふためいた懐かしい記憶が蘇り、剛三を笑わせた。ほかにも、読めば当時の光景を鮮明に思い出せるエピソードがノートいっぱいに溢れていた。
「……へっ」
思わず笑いが漏れたのは、母娘喧嘩に仲裁を入れたときの記述のせいだ。剛三の記憶には残っていないが、どうやら当時の自分は、ショートパンツを欲しがった律保に加勢をしたらしい。
『男らしさだの女らしさだのの前に、律保らしさってえのを大事にしてやるのが、親ってもんじゃあねえのかよ』
そんなご立派なことをこの自分が吐いたのかと思ったら、勝手に自嘲が漏れていた。
「おかしなお話がございました?」
すっかり浜崎夫人が板についた丁寧な口調で尋ねられ、剛三は笑いでごまかしながら、己の増長ぶりを自分流に語る形で答えた。
「偉そうに、昔の俺がいっぱしの親論を語ってやがる」
「そうでした? どこに書いてありますの?」
そう言って日記を覗き込む千鶴のうなじに、少しの間だけ見惚れた。
「ああ、このときの。私はよく覚えていますよ」
千鶴は懐かしげに目を細めると、当時の話を補足した。
「とても反省させられましたの。このあと律保のクラスメートのお母さんにも相談したら、あなたと同じことを仰られたんです。それであの子のファッションに口うるさいことを言うのはやめよう、と改めましたのよ」
思春期を迎えたころになれば、服装が乱れ始める子も出て来る。それに流される心配をしていたことや、いい意味でそれを裏切ってくれた律保の利発さや自制の強さに救われた、といった当時の思いを千鶴は語った。
「こういう話を、当時からきちんと話し合えればよかったのですね。私たちは、親としては情けないほど未熟でした」
千鶴は力なくそう呟き、剛三の手渡したノートをぱたんと閉じた。その上に両手をついて、額をこすりつけるように頭をぴったりとくっつけた。
「勝手を申しまして、そのために律保とお父ちゃんを傷つけて、本当に、申し訳、ございま、せん、でした」
しまいには途切れがちになって震え出す声に、剛三は目を丸くした。自分が謝ることはあっても、千鶴にこのような恰好で謝罪される理由に思い至らない。
「お、めえ、何……おい、頭を上げろや、みっともねえ」
ほかに客がいるわけでもないのに、慌てふためく自分がいた。
「何度もこの席で、福岡先生にたしなめられました。“剛ちゃんは口が足りないだけだ。家政婦だなんて思ってない”って。でも、あなたからそんな言葉を一度も聞けなくて、信じることが、できませんでした。あなたは、家族という形が欲しいだけで、律保という血を分けた存在が必要なだけで、妻は私でなくとも……そう思ったら……本当に、申し訳、ございません」
堰を切ったように溢れ出す千鶴の言葉を、なぜ十四年前に聞けなかったのか。そんな思いが一瞬剛三の脳裏を過ぎった。だがすぐにその後悔は、別の思いと入れ替わった。あれだけ受け身な気性だった千鶴が、なぜこうして自分の考えを口にし、こんな思い切った行動をするまでに変われたのか。その理由に思い至ったためだ。
剛三は、ほとんど吸わないまま燃え尽きそうになっている煙草を深く吸い込んだ。
「へぇ~……」
燻らせた紫煙とともに、溜息と苦い思い、自分を呪う後悔の戯言も吐き捨てた。
「千鶴よ。おめえさん、強くなったな」
掻きむしりたくなる思いを、煙草と一緒に揉み消した。
「母親としての気負いだけなら、俺が律保の親権を譲らねえっつってた時分のうちに、とっくに頭を下げに来てたはずだろう」
心の中で、白旗を揚げる。かつて自分が「ウダウダと悩んでばかりで優柔不断な、頼りないヤツ」と評した男に対し、素直に自分の負けを認めた。
「今思えば、あのうだつの上がらねえ浜さんが、よくおめえさんに求婚する度胸があったもんだ、っつうことなわけだよな」
若い時分の己の鈍さが呪わしくて、つい鼻で嗤ってしまう。
「浜さんが本来のおめえさんを引き出せたから、ってことだろ? 今のおめえさんは、幸せ、なんだろ?」
唐突な剛三の問いを耳にした千鶴は、驚いて顔を上げた。そんな彼女にタオルを放り投げる。
「俺と暮らしてるころより、ふっくらとしたいい顔してやがる。眉根ンとこの縦皺もきれいに消えた。口数が増えたのも、おめえさんの馴染んだ語り口でしゃべっていいっつう安心感からだろうよ」
千鶴の今を、一つずつ積み上げる。自分が与えられなかったものを。浜崎が施してやれた無形の宝を、剛三の口から彼女に諭す。
「いい年の取り方をしてるじゃねえか。そいつは浜さんがおめえにくれたもんだろうよ。俺がおめえにしてやれなかったことだ」
敗北宣言を千鶴に託す。そうすることで、彼女と彼女の愛する男を罪の意識から解放できれば、と心から願った。
「おめえにそう頭をこすりつけられると、俺もそうしなきゃなんねえってことになる。勘弁してくれ。女に下げる頭はねえ」
いっそ憎まれ忘れられるくらいの暴言を。そう狙って吐き捨てた。投げられたタオルでそっと目頭を拭ってから丁寧にたたむ千鶴へ、剛三は不遜なほどの笑みを投げ掛けた。
「全部、終わったことじゃねえか。俺には俺の、おめえにはおめえの、それぞれに新しい家族がいるだろうがよ。いつまでも昔に拘ってんじゃねえ。せっかく浜さんのくれたシアワセな顔ってえのが台無しになるじゃねえか、バカが」
そして簡単に語って聞かせた。健二という自慢の似非息子のこと。今まで話せなかったのは、健二の存在を理由に、唯一の肉親である律保の親権まで千鶴に奪われたくなかったからだ、という本音も、自分で驚いてしまうほど笑って話すことができた。
「そう、だったんですか」
濡れたまつ毛の少し乾いた千鶴の目が、ようやく柔らかなゆるい弧を描いてくれた。憑き物の落ちたような自然な微笑は、若いころに剛三を翻弄させたものと同じ魅力を放っていた。
「いっときは律保の亭主になりゃあ、晴れて息子呼ばわりできる、なんて夢も見てたけどよ。あいつにもどうやら身を固めたくなるような娘がいるらしくてな。そのうち紹介するとか言われちまった」
そんな話の流れから、その娘について少しだけ千鶴に相談をした。不思議なことに、千鶴に対し、一人の男としてのものよりも、親として同じ立場にある者同士という対等な感覚が生まれていた。
「――ってなわけでよ。未だに正体不明なわけよ。どうにもうさんくさい気分が抜けなくてよ」
「とは思うものの、健二さんが簡単にだまされるほどの世間知らずだとも思っていらっしゃらないのね?」
「まあなあ。二十歳そこそこの若いうちならアレだけどよ。もう今年で二十八にもなるいい大人の男だろ? いろいろ言うのも今の時代じゃ煙たがられるだけっつう気もするしよう」
しかめっ面でそうごちる剛三がよほどおかしいのか、千鶴は先ほどから堪えるような笑いがとまらない。
「おめえさんよ、さっきからなんだよ。そんなに俺の悩みがおかしいか」
「いえ。お父ちゃんも随分と変わられたと思って、つい嬉しくて」
以前なら、悩むなんて言葉を知らない人だったのにと彼女はずけずけと言った。そしてそう言い終えると、またくつくつと噛み殺すように笑った。
「昔でしたら、こんなことを言ったらものすごく怒ってしまったでしょうに」
「俺もちったあマシになった、っつうことか。だとしたら……おめえさんのお陰だ。ありがとうよ」
いつか伝えようと思っていた言葉が、小さくくぐもった形で剛三の口から零れ出た。
「え? 私、ですか?」
初めて千鶴の笑いがとまった。彼女の視線を感じると、自然と顔が下を向き、剛三はらしくもない小さな声でぶつぶつと言葉を繋いだ。
「いなくなったあとで、おめえさんのしてくれた俺の尻拭いってえやつを知った。若えころには、知らないうちに随分と助けられてたってよく解った。充分過ぎるくらいだ。……だから、もう、昔のことは、みんな忘れろ」
――ありがとうよ。
もう一度それを口にする。長年こびりついていたものがころりと剥がれ、まるで漂白された布巾のように真っ白な気持ちで満たされた。
「お、父ちゃん……」
「浜さんに伝えてくれや。若えころみたいに、たまには飲みに付き合え、ってよ」
あのウジウジと考え込みやすい男も、どうせ千鶴と同じようなことを思っているのだろう。伊達に長いこと営業に回っていたわけではない。若いころの記憶が、剛三にそんな確信を抱かせた。
「ありがとう、ございます」
また潤み始めた千鶴の瞳が、感謝の色に染められた。長い長い剛三の恋煩いは、ほんの少しの寂寥と、惚れた女に初めて何かを施せたという満足感を残して幕を閉じた。
律保に対しては、寿ぎの言葉と「浜崎の父親を立てろ。養子縁組をしてから相手の男へ嫁げばいい」という伝言を千鶴に託した。彼女を喫茶店に待たせたまま一度アパートへ戻り、家の権利書を彼女に返した。父親らしいことが何一つできなかったダメ親父からのささやかなご祝儀だと伝えると、千鶴はしばらく考えたあと「伝えます」と言って素直にそれを受け取った。
「またお会いできる日を楽しみにしています。今度は浜崎と一緒に」
憎らしいほどの幸せな微笑を湛え、千鶴はそう言って改札の向こうへ消えていった。
ほどなく携帯電話が剛三の胸元でぶるりと震えた。着信を見ると、福岡の番号が表示されている。剛三はそれを見て、眉間に深い皺を寄せた。
『よう。剛ちゃん、慰めが必要なころ合いじゃないかと思って電話をしてみたよ』
「てめえ。ハメやがったな」
ドスを利かせたつもりが、つい笑い声になってしまう。
『なんだ、つまらない男だな。晴れ晴れしい声なんかしやがって』
珍しく、幼いころの口汚い物言いで福岡がちゃかす。
『せっかく慰め会をと思って、例の鍋屋を押さえていたんだが、必要はなかったかな』
「ばっきゃろう! てめえの奢りで行くに決まってんだろう。てめえが誘ったんだろうがよっ」
剛三は人目もはばからずに怒声を上げた。
「湯豆腐が食いてえな。真っ白な豆腐が美味そうなポン酢色に染まってくトコを見てえ」
『お。剛ちゃんにしては、叙情的だね』
「ジョジョウ? なんだそりゃ」
『気にするな。いいね、湯豆腐。実はもう鍋屋で先に一杯やっていたりする』
「けっ。相変わらず腹の立つ野郎だな。全部お見通しかよ」
剛三は福岡とそんな会話を続けながら、鍋屋に向かって踵を返した。




