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09. 湯豆腐(1)

 健二と律保(りほ)がそんな語らいをしているころ、剛三は自分のアパートで感慨深げに通帳を眺めていた。

「終わった……な」

 へぇ、という深い溜息が、独りぼっちの安アパートに吸い込まれていった。

 これでまた一つ、人生の張りが消えてしまった。負の財産などないほうがよいに決まっているので未練はないが、生きる理由が一つ消えたのは認めざるを得ない。

 律保に譲った家の補修工事も、休みの合間を縫ってのんびりと進めていたが、先月末にはとうとう内壁の塗装も終わってしまった。それもまた剛三にとって、一つの生きる理由だった。これが消えてしまったのはとてつもない喪失感で、剛三を予想外に落ち込ませた。

「毎月、十六万。いくら竹内工務店に転職したっつっても、これじゃあキツかっただろうに、健坊のヤツ」

 健二から送金されて来た額は、合算で二百四十万を越えていた。剛三の給料の全額に相当するその振込額は、葦原に諭されるまで剛三と健二の喧嘩の原因にもなっていた。

『見栄張って恰好つけてる余裕があんのか、てめえはよう』

 葦原の言った台詞は、剛三の胸に突き刺さった。より遠い関係への義理を優先するのが筋だろう、とも言われた。健二には、借金を立て替えたのではなく、自分の学費をこういう形で返しているんだ、と泣きながら怒鳴られた。葦原の痛烈な言葉と健二の泣き顔に、負けた。理屈では納得して健二の厚意を受け容れたが、気持ちがどうにもついていかなかった。

「そういや、そろそろあの事故娘ンとこの借金問題も解決しそうだっつってたな」

 まだ名前すら明かさない謎の娘に想いを馳せる。その存在を知った当初よりは、剛三の中でその娘に対する悪い印象は薄れていた。

 将来を決めた健二には、きっと支援して欲しかっただろうと思う。だがその娘は、健二にそんなことを一言も言わず、自分は自分で父親の借金を返し続けているらしい。健二の性格から考えると、きっと彼女の助けになりたかったはずだ。

「居酒屋をもうちっと続けて、あいつの結婚祝いをフンパツしなきゃな」

 剛三は自分の肝に銘じるとばかりに、這うような低い声で新たな“生きる理由”を口にした。


 健二の伴侶になりそうな娘の話を聞いた流れで、剛三の腹が煮えくり返る事実を同時に知らされた。

『親父さん。心配してくれてるのに、彼女をきちんと紹介できなくて、すんません。身内にさえ見限られてる俺なのに……』

 久しぶりに少年時代を思わせる健二の苦しげな表情と濁された語尾から、健二に何かよくないことがあったと剛三は胸騒ぎを覚えて問い質した。

『おめえ、なんかマズいことでもあったのかよ。その事故娘の関係か?』

 そう問えば、健二は首を横に振った。

『違うんです。実は』

 健二が言いにくそうにそう切り出して報告して来たのは、彼が中学時代まで世話になっていた伯母夫妻のことだった。

 健二の伯母夫妻は、彼の両親が遺した財産を勝手に流用した挙句、彼に絶縁宣言を叩きつけたらしい。健二が両親の遺産に思い至ったきっかけは、剛三が岩田家の権利書を健二に片付けさせたことにあった。自分の面倒くさがりな性分を、このときほど悔やんだことはなかった。

『俺、親の遺産を返せなんて、一言も言ってないんですよ。ただ、知らないうちにそういうことで世話を掛けたんじゃないか、って……詫びとお礼を伝えに、言った、だけ……だったん、です……けど……』

 健二にそんな嗚咽を漏らさせたもの。それは、血の繋がった親族だからと信じ、心を寄せて来た伯母夫妻の裏切りだ。

『松……』

 返す言葉が、しばらく見つからなかった。健二から見た伯母夫妻が、金づるとして中学卒業直後の剛三を丁稚に放り込んで金を巻き上げ続けた自分の身内と重なった。誰も信じられなかったあのころ、剛三を支えていたのは、福岡だ。

“剛ちゃんは、少なくとも僕より先に一人前になったんだ。胸を張って自分の稼ぎを自分のものにすればいいさ。それは不義理なんかじゃない。ずっと剛ちゃんを見て来た僕が言うんだから、信じろ”

 福岡はそう言って自分の両親に、剛三が家から独立する資金を貸しつけてくれるよう交渉した。福岡の両親は、まだ駆け出しの左官見習いに過ぎない剛三を信じて無期限で金を貸しつけてくれた。

 剛三の中に、一つの言葉が脳裏をかすめていった。


 ――恩送り。


 剛三は、福岡の両親から受けた恩義を結局返せなかった。医者の不養生というのだろうか。福岡の父親が心筋梗塞で急逝してしまったせいだ。自営の左官店が安定したとき、福岡の母親に利子をつけて返した。だが剛三への支援金を稼いだのは、福岡の父親だ。恩義を返せたとは思えなかった。

(縁だぁな、つくづく。返すんじゃなく、次へ送れってこったろうよ)

 福岡やその父親の人となりに思いを馳せると、ようやく剛三に健二へ伝えたい言葉が浮かんだ。

『松よ。おめえにはよ、もう一人親がいるじゃねえか。まさか忘れちゃあいねえよな?』

 偉そうに語る自分の声が、剛三の苦笑を誘った。土下座に近い恰好でうずくまって震えていた健二の肩が、剛三の声でぴたりととまった。肩に掛けていたタオルをぽいとその頭に投げてやる。健二の手がゆっくりと頭に伸びて、恐る恐るタオルを握った。

『お、やじさん……親父さん……ッ』

 健二と出会ってから十二年の中で、彼の号泣を初めて見た。健二のそんな素直さが、剛三の孤独を癒してくれた。

『えへへ……すんません。彼女にこんな情けないトコ、見られたくなくって。親父さんに甘えました』

 激情を涙で全部押し流し終えた健二は、ばつの悪そうな顔を上げて無理やり笑った。

『バカだな、俺。俺には親父さんがいるんだから、落ち込むことなんかない、ですよね?』

 すっかり大人になったのに、あどけない少年の顔が剛三の瞳をまっすぐ覗き込んだ。必死の思いをあからさまにして岩田左官店の門戸を叩き、雇ってくれと訴えた少年の瞳を思い出す。そのときと同じ瞳で口にしたのだ。

『あったりめえだ。俺を無視してんじゃねえよ』

 精一杯の憎まれ口を返すと、やっと健二がいつもの自然な笑顔に戻ってくれた。

『きっと親父さんと引き合わせますから、彼女を信じてやってくださいね』

「俺みてえに失敗しなきゃいいけどな」

 結婚に。呟いた自分の言葉に、自分自身で強く否定する。剛三は頭を強く横に振り、自分に向かって大声を出した。

「でえじょうぶだ。あいつは俺と違って、イノシシな性格じゃねえ」

 それに先週の中ごろ、健二が勤め先の設備屋へ訪ねて来たときに「そう遠くないうちに彼女を紹介できると思う」とも言っていた。

「でえじょうぶだ。同じ苦労を知ってるヤツに、悪いこたあできねえよ」

 剛三は半ば無理やりそう言い聞かせ、まだいくぶんか燻っている健二の相手に対する不信感を心の奥底へ押し込んだ。




 その週の日曜、昼下がり。福岡から携帯電話に連絡が入った。

『よう、剛ちゃん。例の喫茶店で待っているから、飯でも食いに行かないか』

 昨年に和解を得て以来、こんな風によく呼び出される。失って来た数年間を取り戻すかのように、剛三も即答で色よい言葉を反射的に返すのが常だった。

「てめえ、人の借金が終わるのを見越して奢らせる気だな。食えねえって言いたくなるほど食わしてやらあ」

『それは楽しみだな。腹を空かして来た甲斐があった』

 すでにこちらへ向かっていると言う。福岡に「半時間ほどで行く」と告げてから、一旦通話を終わらせた。


 商店街の大通りから一本外れた細い路地の一角で営まれている、小さな看板を掲げた喫茶店。一年前に福岡と再会を果たしたときに初めて足を踏み入れた店だ。今では剛三もすっかり常連客の認定をもらい、オーダーをしなくても夏にはアイスコーヒー、冬にはアメリカンを出してもらえるほどになっていた。

 今日も相変わらず暇な商売をしているようで、店主が店先の植え込みに水遣りをしていた。

「おう、お母ちゃん。連れがここで待ってるって言ってたんだが、まだ来てねえかい?」

 老店主はチビた丸眼鏡をずり上げ、遠目をするような目つきで剛三を凝視した。

「おうおう、白黒コンビの、黒さんのほうかい。白いお客はもう先に入ってるよ。黒さんと同じもんでいいっていうから、コーヒーもついでにもう出てるわい」

「何ィ、それじゃあ冷めちまってるじゃねえか」

 ふぇふぇふぇと笑う老店主に呆れた苦笑を残し、剛三は先に店の扉をくぐった。


 紅茶党の福岡がコーヒーなんて珍しいこともあったものだ、などと考えながら、剛三はさほど広くもない店内をぐるりと見渡した。少し薄暗い店内に、昔懐かしい裸電球の色を思わせるオレンジの照明が焦げ茶の床やテーブルを照らす。その一つに腰を下ろす、ひときわ白の目立つ先客がいた。

「……っ」

 ジャンバーを脱ぎ掛けていた剛三の手が一瞬にしてとまった。凛と背筋を伸ばし、窓に傾けた顔ははっきりとは見えない。だが、懐かしいほどの柔らかな栗色の髪を結い上げたときの、うなじの白さを見間違えるはずがない。

 一歩遅れてドアベルがちりんと鳴った。その音に促されたように、その人物が扉のほうへと顔を動かした。少し頬がふっくらとして、そして優しげな横皺が増えた。いつからか当たり前に存在するようになってしまった眉間の皺が消えている。よく見れば、あんなにも愛でた栗色の髪にも、白いものがいく筋も混じっていた。しかし昔と変わらない、白のよく似合うたおやかな印象はそのままだった。

「大変、ご無沙汰しております」

 彼女は剛三にそう語り掛けながら立ち上がり、恭しく頭を下げた。再び上がった面には、もう二度と見ることは叶わないと思っていた微笑が浮かんでいた。少し面映そうに笑む表情も、若いころと変わらない。いつもどこか困った子供を見つめるような、あたたかで心地よい感覚を剛三に味わわせてくれる、優しく包むような淡い微笑。

 返す言葉を失ったままの剛三に、彼女が先駆けて断りの弁をつけ加えた。

「福岡先生にご無理申しました。こうでもしないと、お父ちゃんに逃げられてしまうのではないかと思って」

 待ち人として待っていたのは旧友ではなく、かつて離婚を迫られた挙句、自分が捨てられる前に切り捨てた元女房、今では浜崎の妻となっている千鶴だった。

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