08. ハリハリ鍋(2)
浜崎のいる自宅では話しづらいから、と言って、千鶴とは駅前で待ち合わせた。案内された喫茶店は、純和風住宅を思わせる座敷付の店だった。
「お父さんと結婚してから、一度来てみたいと思っていたお店なの」
引越し当初から気になっていたらしい。しかしすぐに淳也を宿し、コーヒーを飲めなくなった。その上、その後の子育てや律保の進路に意識が向いていたりなどで行く機会を逃したまま、気付けば何年も立ち寄れずにいたそうだ。
「それにね、このお店の中を見てみたいと思ったのは、お父ちゃんの影響かもしれない、と思ったから。なんとなくお父さんに悪い気もして」
夏仕様の掘りごたつの下で、そう言った千鶴の足が少しだけ動く。はにかむ母を見て、少しだけ呆れた。相変わらず何歳になっても頼りない少女のような人だ、と律保は思った。
「お父ちゃんのことで訊きたいことがある、と言っていたわね。また何か思い出したことがあったの?」
千鶴はそう言ってさりげなく律保を本題へと導いた。健二と交際を始めてから、律保が始めた『思い出し日記』を時折千鶴に見せている。自分の記憶と実際の出来事のズレが意外と多かった。日記を二人で読み返しながら千鶴の話を聞くことで、そんな自分に気がついた。千鶴の促しは、そういったことの一つと予測しての言葉だと思われた。
「ううん。健ちゃんから聞いていると思うのだけれど、今日からあの家の塗装工事が始まってるの。ちょっと、覗いて来たの。まだお父ちゃんと話す気にはなれなかったけど、ちょっとだけ」
律保はそう説明をしてから葦原や剛三が言っていたことを語った。
「お母さんは、お父ちゃんが私を殴ったことなんてない、と言ったわよね。でもやっぱり、私の記憶に間違いはなかったみたいなの。でもね、葦原のおじさんは、それは私がお母さんを悪く言ったからだ、と言っていたの。私の中では、まっとうだけれどお父ちゃんの機嫌を損ねるような何かを言って、それでお父ちゃんが“親の気も知らないで”って言って殴ったんだと思っていたの」
律保はそこまで一気に告げると、千鶴の言葉をしばらく待った。とても長い時間に感じたその間、無意識に畳のいぐさを指先で弾いて不安を紛らせていた。
「……もしかしたら」
冷たい緑茶をすすっていた千鶴が、不意に茶碗から口を離してそう呟いた。
「律保、あなたが小学校の高学年から中学へ上がるまでの一時期、いじめに遭っていたことを覚えているかしら」
「え、あ、うん。名前のことで、いじめ、というか、からかわれてクラスの男子と喧嘩をして、お母さんが校長室に呼び出されたことは、覚えてるわ」
答える声が、少しだけくぐもる。嫌なことを思い出してしまった。
千鶴はとても言いづらそうに、それでも結局言葉を慎重に選びながら、当時の心境を語ってくれた。
「あのころ、私はもうお父ちゃんと溝ができていて、ちゃんとあなたやお父ちゃんの気持ちを見ていなかったんだと、今ごろ気がついたわ」
思い出した、と彼女は言った。千鶴が離婚を決意したのは、その晩、剛三が律保を殴ったからだ。
「リツホと名前をからかわれて、学級委員に立候補させられたり、面倒な係を押しつけられたり、まともに名前を呼んでくれるお友達がいなくて、あなたはとても傷ついていたわね。その気持ちをお父ちゃんはまるで解っていなくて、私はそのとき、もうこの人とはやっていけない、と思ったのだけれど」
千鶴は最後の一口を飲み干すと、氷桶につけられている急須に手を伸ばしてお替わりを注いだ。
「お父ちゃんも、律保と同じくらいそのことで傷ついていたのかもしれないわ。それに屈して“こんな名前なんか嫌だ”と言ったあなたにまで拒まれたと思ったのかもしれない」
細いグリーンの糸が、ゆっくりと千鶴の茶碗を満たしていく。じわりじわりと当時のことが、律保の中に蘇って来た。
『真理子ちゃんや京子ちゃんみたいに素直に読める名前だったら、こんな思いをしなくて済んだのに。お母ちゃんのせいなんだから。なんでこんな変な名前つけたのよ』
律保は小学生の段階で、すでに剛三が家庭を顧みない仕事人間だと認識していた。家の中の何もかもを千鶴が一手にこなしていることも知っていた。だから、自分の名前を考えたのも、千鶴だと信じて疑わなかった。
「自分のような感情に任せて突っ走ってしまうのではなく」
千鶴の告げる言葉が、過去の剛三の声と重なった。
「自分を律することのできる」
『お母ちゃんみたいな賢い人間になれ』
「それを保ち続ける」
『お母ちゃんみたいな、立派で賢い、いい女に育て』
「そんな願いをこめて、お父ちゃんが辞書や姓名診断の本まで買って、何ヶ月も掛けて考えた名前、だったのよ。律保の名前は」
『なのに、親の気も知らねえガキが、いっぱしの口を利きやがって』
「……おめえは今、お母ちゃんを変だっつったのと、同じだぞ――お母、さん……思い、出したわ」
剛三のあの怒りは、千鶴を貶める物言いをした律保に対する、恩知らずな気持ちへ向けられたものなのだ。決して自分の思い通りにならない娘への苛立ちではなかった。
「ごめんなさい……お母さん、本当に」
膝の上で拳を握り締める。垂れた頭を上げられなくなっていた。自分の名に、そんな深い意味がこめられていたことも、その名付け親が剛三だったことも、そこに千鶴への想いがあったことも、知らなかったとはいえ否定に近い言葉で侮辱した。
「小さな子供だったのよ。それに、何も知らされていなかったのだから、謝ることじゃないわ」
顔を上げなさい、と優しくたしなめられた。悪いことをしたときだけは、きちんと心から謝りなさいと教えて来たはずだ、と。
「赦されることがなくても、謝るべきなのは、私、なのよ」
という千鶴の言葉に、「お父ちゃんに」という一言が添えられた。律保がゆっくりと顔を上げると、頼りない母からは滅多に見ることのない強い眼差しが、律保をまっすぐに捉えていた。
「律保、私やっぱり、健二さんに様子を伺いながら、時期を見てお父ちゃんと会って来るわ」
珍しく、相談の形ではなく断言をされた。
「お母さん」
「いつまでも逃げていたら、ダメよね。お父さんに気が引けるなんて、お父さんを信じていないみたいだもの。お父さんがお父ちゃんや律保に遠慮してしまうのは、私がお父ちゃんへの後ろめたさを持ち続けているからだと思うの」
千鶴はそう締めくくると、緑茶にまた口をつけた。
「律保、家に寄って、食材やほかに必要なものがあったら持って帰りなさい。直接の支援ができる立場ではない私たちだから、あなたたちを助けることでお父ちゃんの返済に協力させて欲しいわ」
そうしてくれるほうがお父さんも喜ぶから。にこりと笑んで促す千鶴の声が、律保の瞳をじわりと潤ませた。
律保の生活が目まぐるしく、そして慌しく過ぎていく。ときには「結婚してからの生活に備えた予行練習」と言い聞かせながら。また別のある瞬間には、「健ちゃんに妙な借りを作りたくないだけ」と自分に言い訳をしながら。
平日には、日ごとに増えていく仕事をこなし、休日は主婦業紛いの雑事に一日を費やす日々。雨の日は岩田家の補修工事ができないので、健二が買い物や掃除を手伝ってくれる。それが律保の新しい楽しみになった。普段も何かと一緒に家事をしてくれる健二だが、休日の肉体労働を思うとどうにも気が引けていた始めのころだった。だが、雨の日限定の心置きなく甘えられる時間は律保を少しずつ素直にした。
「どうしたんですか」
自分から健二を誘ったら、真っ赤な顔で訊かれてしまった。
「だって健ちゃん、このごろすぐ寝ちゃうから、疲れてるのかな、と思って、なんか……ええと」
軽く触れた唇が、律保の続く言葉を食べてしまった。
「律保さんこそ、ハードな毎日だから、困らせるかな、と思ってたんです」
それまで自分のことだけだったでしょう、と言われると胸が痛い。健二は律保と違い、これまでもずっと、剛三への配慮をしながら暮らして来ているのだ。
「健ちゃんにできることなら、私にだってできないことないはずだもの」
こんなときまでかわいげのない言葉しか出せない自分が憎らしい。
「負けず嫌いなんだから」
健二がくすりと笑って、そんな律保さえ受け容れてくれる。
「明日も雨で休みだし……そう簡単に眠らせてなんか、あげませんよ」
耳もとで甘く囁かれ、減らず口さえ出て来なくなる。
「健……ん……ッ」
幸せのただ中にいながら、ちくりと胸が痛む。自分だけが幸せでいいのだろうか。そんな疑問は、律保の中で日に日に大きくなっていった。
過去と向き合うことが、少しずつ苦痛ではなくなっていった。千鶴と母娘ではなく“女同士”として話せることが、もう一つの楽しみにもなった。
「呆れた。それで冬は鍋料理ばっかり作っていたの?」
鍋のときだけは、剛三がほかの誰よりも自分を優先してくれたから。一緒にキッチンに立って洗い物を手伝ってくれたから。二人だけの時間を得られるから。自分の意向をなかなか口にできない千鶴らしい、と言えば千鶴らしい理由ではあった。
「あのころの私は、今の律保と近い年よ。若かったのよ。今思うと、仕事で疲れて帰って来ているのに気の働かない女房だったと自分でも思うわ」
まだ元職場の同僚という関係に過ぎなかった浜崎にも、そんな愚痴を零したことがあるという。
「お父さんとは、結婚してからもずっと連絡を取っていたの?」
「お父さんだけじゃなくて、工務店の皆さんとね。少しでもお父ちゃんの仕事に繋がれば、と思っていたの」
剛三が人の好い人間だと浜崎も知っている。だからこそ、今も千鶴と一緒に罪の意識を拭えずにいる。千鶴は、母としてではない、女性としての心境を初めて律保に語り聞かせた。
「お父ちゃんを恨んで別れたわけではないのよ。ただね、ああいう下町の雰囲気みたいな気さくさや、私には馴染みのない会話のやり取りに、どうしてもついていけなくて辛かった、というのもあったの」
それに何より、と言葉を次いだ千鶴の眉尻が苦しげに下がった。
「私には、追い掛ける恋というのが向いていなかったみたい」
ふと隣を見れば、人生の伴侶が自分を最優先にと手を広げてくれている。いつでもかたわらに寄り添ってくれている。そんな心地よい安定感は、心の凪を保たせてくれる。穏やかで優しい自分でいたかった。剛三と過ごして来た時間の中で、そんな自分は決して得られなかった。千鶴は寂しげにそう語った。
「お父ちゃんはいつも外へ意識が向かっている人だったでしょう? 寂しく感じてしまったり、お父ちゃんの足かせになっている自分というのが、私はとても嫌いだったの。愛されていないと思っていたんでしょうね、当時の私は」
千鶴は苦笑しながらそう言った。
浜崎は、自宅の書斎で仕事をしていることが多い。それが会社の方針らしい。出勤は週に一度。ほかの日は定時報告になっている。思い返せば浜崎は、毎日出勤していた当時も図面を持ち帰って夕食までには帰宅することが多かった。
「お父さんの気持ちは、信じられたのね」
小さく頷く千鶴に「今、幸せ?」と尋ねたら、「お父ちゃんには申し訳ないけれど」という小さくて短い答えが返って来た。
岩田家を訪れること、これもまた新たな習慣になっていた。ときどき健二たちが施工している姿をこっそり覗くことはあるものの、平日会社の帰りに少しだけ立ち寄るほうがはるかに多い。
剛三と鉢合わせする心配のないバイトの時間帯に赴いては、敷地内や部屋の中をぐるりと見渡して思い出を探す。
まずは、組まれた足場を見て、現場へ連れ歩かれていたことを思い出した。施主の出してくれた茶菓子を分けてくれた思い出。ほんの少しの休憩時間、剛三の下で働く職人たちも一緒になって、ボール投げなどで遊んだ記憶。あんなにも仕事道具を大事にしていた剛三が、目地用の小さなコテを握らせてくれた遠い昔の一コマ。
『ねえ、お父ちゃん。律保はいいしゃかんさんになれる?』
巧く“さ”と発音できなかった律保に、剛三は破顔して答えた。
『チビのくせに、いい手つきしてやがるじゃねえか。なれる、なれる。律保は岩田左官自慢の跡継ぎ娘だ』
溢れ出す記憶は、すべて“思い出し日記”に綴った。これまで心にふたをして来た反動とばかりに、蘇った思い出は律保の手を一心不乱に働かせた。
季節が一つ通り過ぎ、和菓子屋で月見団子やうさぎをかたどった饅頭が飛ぶように売れるころ。その日は、“ハーフパンツ事件”を思い出した。
男の子なら、ブルー系でハーフパンツ、女の子なら、ピンク系でスカート。まだそんな価値観が残っている時代だった。小学校で気の合う女子のほとんどがハーフパンツを持っていた。律保はそれが羨ましくて、千鶴にハーフパンツを買ってとねだった。
『女の子なんだから、スカートで充分よ』
千鶴がそう言った直後に剛三が言ったのだ。
『千鶴、律保に無理強いするんじゃねえ。男らしさだの女らしさだのの前に、律保らしさってえのを大事にしてやるのが、親ってもんじゃねえのかよ』
思い出した途端、そのときの気持ちが蘇った。
“お父ちゃんは、解ってくれる”
“お父ちゃんはやっぱり、律保の味方だ”
「私、お父ちゃんのことが好き、だったんだ」
錆びついていたはずのブランコが、昔のピンク色を取り戻している。そこに腰掛けて、律保の望むままに思い切りブランコを漕いでくれた剛三の奇妙な微笑が蘇る。あれは、今思うと照れ笑いだったのだろう。
『律保はお母ちゃんの賢さと俺の負けん気を持ってんだ。自信持って、おめえらしくいりゃあいい』
これまで剛三に対して抱いて来たネガティブなイメージが、彼を盗み見る日を重ねるごとに、声を聞くたびに、別の想いへと変わっていく自分を感じていた。
「……どんな顔をして、会えばいいんだろう」
懐かしいブランコに腰を落とし、膝に肘をついて頭を抱える。
「私、ひどいことを言ったわ」
――お父ちゃんなんか、大ッ嫌い。
「いまさら、何もなかったようになんて」
ごめんなさい、というか細い声が、住まう人のない岩田家の庭に零れて消えた。




