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08. ハリハリ鍋(1)

 両親の許可を得て、健二の荷物を律保(りほ)のアパートへ運び出したのがゴールデンウィーク後半のこと。大家が気のよい人だったお陰で、五月に食い込んでしまった五日分の家賃をなかったことにしてくれた。

 お互いのアパートが近かったことと、健二が家具類など大物家財を持っていなかったことが幸いした。引越し作業は、健二名義にした剛三のトラックを使って半日ちょっと。平日の夜も使って少しずつ荷台から荷物を運び入れた。そんな生活がひと月ほど続く間に、緊張と気恥ずかしさの混じる“擬似新婚生活”にも慣れていった。


 健二と同じ屋根の下で暮らすからこそ知り得たもの、ということがらがたくさんあった。その中の一つが、夜遊びのこと。

(夜遊び、っていうか。話してくれてもいいのに)

 隠し事をされていたという少しの不満と、それ以上に感じる彼の優しさでくすぐったくなってしまう小さな秘密を初めて知った。

 ときどき健二は深夜になると、隣駅の前に並ぶ繁華街へ出掛けていく。しかも電車やトラックを使わずに、そっと部屋を抜け出して歩いていくのだ。ある晩、律保はこっそりあとをつけてみた。律保はそのとき初めて、健二がなぜ隠していたのか理由を察した。

 健二は居酒屋ののれんをくぐるのではなく、裏へ回って勝手口から中へ声を掛けていた。

「よう、松っちゃん。おめえもまかない食ってくか?」

 懐かしいダミ声に、律保は思わず足がすくんだ。電柱にぶつかって我に返り、慌ててその影に身を隠した。

「何勝手なこと言ってるんですか、親父さん。そろそろ上がるころかと思って、差し入れを持って来たんですよ」

 健二はそう言って、タッパをその人物の前に翳した。半透明の買い物袋から透けて見えるそれは、律保が夕食に作ったおろしカツの残りを入れたタッパだ。タッパの下には律保には詰めた覚えのない弁当箱も入っていた。

「お。そいつはありがてえ。おめえ、最近また料理の腕を上げたんじゃねえか? この間の唐揚弁当も美味かったぜ」

 にやけた顔で居酒屋の店名が入ったTシャツをまとい、トレードマークのタオルを首に巻いていたのは。

(……お父ちゃん)

 すっかり刈込み頭が白くなって目尻や額に皺が増えたものの、見間違えるはずのない人物が、健二に向かって子供のように嬉しげな笑みを零していた。


 二人は店を退けると、近所の公園のブランコに腰掛けた。律保も目隠しの植え込みに隠れ、公園の外からそっと二人のやり取りを窺った。

「なんでえ、道理で最近飯が美味くなったと思ったら、例の事故娘の手製かよ」

「事故娘って……いい加減、“彼女”とか“相棒”とか、まともな呼び方にしてくださいって」

「知るか。面倒くせえ。俺ァまだその事故娘を信用したわけじゃねえぞ。まったく、一緒に暮らし始めたっつうのに、なんで俺に会うのはまだ無理だなんて健二に無茶を言いやがる」

 そんなやり取りから、健二が苦心して剛三の執拗な追求をかわしてくれているのを知った。

「事後報告だったから根に持ってるんでしょう。悪かったとは思いますけど」

「わあってるよ。その娘っこも、親父さんの借金の肩代わりで一杯一杯になってるんだろ」

 人のことを悪く言えねえ。そう零した剛三の呟きには、自嘲が多分に混じっていた。しゅんとうな垂れて肩を落とし、申し訳なさそうにおろしカツを食べる。そんな姿は、律保の知らない剛三だった。

「すごく真面目な人なんです。迂闊に身の上を明かすことで、親父さんにまで迷惑を掛けたくないんじゃないかな、と俺は勝手に思ってますけど」

 健二はあくまでも自分の推測だという姿勢を貫き、剛三に嘘もつかず、律保への追求もさせず、という言い回しでごまかしていた。

「こんだけ美味い飯を作れる女に、悪いヤツはいねえだろうよ。しっかし美味えな。冷めてても衣がカラっとしてやがる。おろしをちゃんと絞って別に入れとくたあ、こんな手間の掛かることを。忙しいんだろうがよ、その娘っこも」

 そう言ってご飯と一緒にカツを口に掻き込む剛三を見て、律保の視界がわずかに滲んだ。

 なぜ目が潤んだのか、律保自身にも解らなかった。なぜか急に胸の真ん中が、じわりと温かいもので溢れ返ったのだ。どこかで覚えのあるその感覚に疑問を抱きつつ、律保は自分の胸にそっと手を当てた。

「彼女も食道楽ですから、割とまめなんですよ。それより親父さん、まかないもいいっすけど、たまにはちゃんと栄養を考えた飯も食ってくださいよ。ちょっとでも早く返済しちまわないと、って気持ちは解りますけど、ぶっ倒れたら元も子もないんっすからね」

 眉根を寄せて不安げにそう口にする健二は、まるで本当の息子のような自然さで剛三に説教を垂れていた。

「わあってるよ。ったく、おめえは心配性だな。事故娘とも毎日そんなやり取りしてんのか? 気の毒なこった、さぞおめえのうっとうしさに呆れてるだろうよ」

「そんなことないっす! 向こうのほうが何倍も口うるさいっすよ!」

(何それ)

 無駄にこめかみが引き攣れる。右手が勝手に拳を作り出す。話している相手が剛三でなければ、衝動のままに飛び出していたところだ。剛三の笑い声が、辛うじて律保の一瞬にしてたぎったものを抑え込んでくれた。

(いいわよ。二人で親子漫才でもしてればいいわ)

 妙な疎外感を覚えた律保が踵を返し掛けたとき、剛三がぽつりと呟いた。

「松よ……心配ばっかり掛けてて、すまねえな」

 剛三の声では聞いたこともない謝罪の言葉が、律保の耳にまで力なく届いた。思わず再び身を潜めて窺えば、あんなにも畏怖と暴力の象徴でしかなかった鬼のような父が、その大きさに怯えてばかりいたはずなのに、とても小さな、くたびれた老人に見えた。

「リケン設備の仕事も、やってみりゃ案外おもしれえしよ。バイトのここも、まかないが美味い上に酒を飲む暇がなくて酒代も浮くから都合がいい、ってもんよ。だからもう心配すんな。松、これからはてめえのことをがんばれ」

 剛三はそう言って、ご飯粒を飛ばしながら無理やりにしか見えない表情で笑った。

「また事故娘に内緒で抜け出して来たんだろうがよ。もめごとの原因になるのはゴメンだぜ。ごっそさん。ほれ、これ持って早いトコ帰んな」

 そう言って健二やまだ正体を知らない健二の相手にまで思い遣りを見せる剛三は、かつて幼い律保を平手打ちした暴力親父と同じ顔をしているだけの別人に見えた。

(健ちゃんもお父ちゃんにとっては他人だから、愛嬌を振り撒いているだけよ、きっと)

 借金の返済にも協力してもらっている。その負い目が健二への対応を優しくさせているだけだ、きっと。

 律保は唇をきつく噛み、自分へそう言い聞かせた。そして二人に気取られないよう、そっと公園をあとにした。




 そんなものを見なかったことにして、忙しい毎日が過ぎていた。先輩設計士のアシスタントとして、そこそこ仕事ができるようになって来たころ、律保は先輩上司から「夏の三連休は休日出勤をしなくても間に合うから」と休むよう勧められた。

 その連休は健二も休みを確保していた。久しぶりに二人でゆっくり過ごせると喜べたらいいのだが。

「独りで家にいても、つまんないな」

 律保は思いつくままに、弁当を二つ作り始めた。一つは健二のために、そしてもう一つは、剛三用に。

 健二は半ば脅しに近い強引さで剛三を説き伏せ、岩田家の外壁補修工事を予定に組み込んでいた。


 浜崎家を訪れた春先に、千鶴から岩田家の所在を教えられたそうだ。そのころに補修工事を思いついたと健二は言った。

『どうしてあの場所を引越し先に選んだのか、親父さんにそれとなく訊いたら理由を教えてくれました』

 一番満ち足りていたころ。最も英気を発揮させていたころ。体が思うように動いて、働いた分だけ稼げていたころ。律保や千鶴の笑う顔が当たり前にあった、人生で最も花開いていたころ――。

『当時のお義母さんや律保さんを思い出しながら、残りの人生を笑って、いい夢見ながら往生したい、って』

 健二の涙声を目の当たりにしたら、その瞬間は確かに律保ももらい泣きをした。ただ、それは自分に関することでも剛三自身のこととして実感したからでもなく、他人事として聴いた感覚に近いものでしかなかった。

 空元気ばかりの剛三に、張りや生き甲斐を持って欲しいと健二は言った。

『書類上は、あの家って親父さんのものじゃあないですか。だから夏場を利用して補修しようって持ち掛けたんです。もちろん、お義母さんの了解済みですよ』

 それも、かつての職場仲間だった葦原の大工を交えて、飲み屋でその話をしたらしい。足場や材料費の立替は、葦原がしてくれるという。道具はホームセンターで揃えられる程度のもので充分できる、と弾んだ声で説明された。

『健ちゃん、ものすごく嬉しそうね』

『バレました? 実は自分が壁を塗りたいから、というのもあったりして』

 図面屋ばかりでは体がなまって仕方がない。そんな言い回しで律保の感じそうな負い目にまで気を回す健二に、反対の言葉など切り出せなかった。


「別に、会うわけじゃないし。そっとお弁当を置いて来るだけだし」

 律保はでき上がった二人分の弁当に、誰も知ることのない弁解を添えた。玉子焼きが塩味なのは、別に剛三が甘い玉子焼きを嫌っていたからではない。

「たまたま思い出したから、作ってみただけなんだから」

 公園で見た剛三の「美味え」と言った顔を、あれからほどなくして律保は“いつ”“どこで”見たのかを思い出した。

 小学五年生になってから初めての調理実習の授業を終えた日の夜、家で作ったのがこの玉子焼きだった。砂糖と塩を入れ間違えたのに、剛三は満面の笑みを零して「美味え」を繰り返しながら、すべてたいらげた。これからは律保の作った“塩風味焼き玉子”の作り方で作れ、と千鶴に命じていた。失敗作に大層な名前までつけて、そう言った。

「たまたま気に入ったから、というだけ。それだけの、ことよ」

 剛三が自分たちにして来たことは、そんな些細なことで赦されるものではなかったはずだ。

 律保は幼いころに見た千鶴の泣き顔を、むきになって思い起こした。


 健二のあとをつけたときに覚えた道を、散歩がてらに隣駅まで歩く。これも生活費の節約だ。

 浮いた家賃だけでは不足を感じ、健二と話し合って残業の日も外食をやめて弁当に切り替えた。デートに行ったつもりで貯金箱へ紙幣を何枚か入れる。この四月の異動に伴い、律保にも能力給や資格手当がついたので、給与の増額分もすべて借金の返済に回した。二人合わせて、月に十六万円。それは決して楽な返済金額ではなかった。

「何やってるのかしら、私」

 大嫌いな人のために、借金を返したり、弁当を作ったり。そんな自分にばからしさを覚える。律保はぬけるような青空を見上げ、疲れた溜息を一つだけ漏らした。


 駅前の繁華街を通り過ぎ、少しだけ寂しさを感じながら懐かしい道のりを歩いてゆく。律保が住んでいたころには多かった土壁の家が、ほとんど改築されて今どきのお洒落な住宅に変わっていた。坪数も半分になっている。表札を見れば、ほとんどが知らない名だ。

「和子ちゃんや真理子ちゃんも、もうお嫁に行って引っ越しちゃってるのかしら」

 律保の交友関係は、今ではほとんどが高校・大学時代の仲間になっている。親の離婚についてあれこれと訊かれたり慰められることが嫌だったので、小中時代の友達とは疎遠にしてしまった。

 律保の重い気分を拭う音が聞こえる。足場を組む音と話し声が、住宅街の通りにまで聞こえていた。

(あ、懐かしい。この声は、葦原のおじちゃんだわ)

 ふと手にしたお弁当に目を遣った。おかずのタッパが一つと、白米の弁当箱が二つだけ。どうしようかと悩んでいたら、家のほうから聞こえた健二の声が解決を知らせた。

「親父さーん、飯買って来ます。葦原さんは何がいいっすか?」

「俺ァ、かかあが持たせた弁当があるから要らねえよ」

「了解っす」

 健二がそんなやり取りをしながら門から飛び出して来た。

「あ」

 健二は律保の存在に気付いた途端、驚いた顔で立ち止まった。

「あ、えっと……気が向いたから、これ。はい」

 そう言って差し出した弁当を持つ手が乱暴になった。買い物袋の中で、タッパと弁当箱が小さな悲鳴を上げた。

「顔を出してはいかないんですか」

 健二は弁当を受け取りながら、あくまでも無理強いではない優しい形で律保を促した。

「う……ん、そうね、まだお父ちゃんの借金を全部返すまでは、ちょっと。葦原のおじちゃ……おじさんに会わせる顔もないし」

 と、健二が受け取った弁当へ視線を向ける。つい目が合うことから逃げてしまった。

「あ、そうだ」

 まだぐずぐずとこだわりやわだかまりを燻らせている律保を、健二はどう思ったのだろうか。彼は少しだけ明るい声で、別の話題へ切り替えるような言葉を発した。

「葦原さんには、口どめ付で話しましたよ、律保さんとのこと」

「なんで!?」

 つい声が大きくなり、慌てて口を両手で押さえる。健二はそんな律保に苦笑した。

「きっと律保さんが来てくれると思ったから。もし葦原さんと鉢合わせしたとき、彼が何も知らなかったら、無理やり律保さんを中に引き込みかねないでしょう?」

 悪びれもなくそう言う健二に、開いた口がふさがらない。

「考え過ぎよ。きっとそんなことはしないわ。葦原のおじさんだって、昔のことを知ってるんだもの」

 律保が言い掛けた反論は、話の途中で聞き流された。

「こっそり覗いていったら解りますよ。あ、お弁当、ありがとうございます。今夜は夕飯にも付き合わされそうなんで、先に食べててくださいね」

 健二は何かをにおわせるだけにおわせると、さっさと道を隔てた門の向こうへ戻ってしまった。律保はそんな健二の後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。


 元我が家の裏手に回り、生垣の隙間から庭の様子を窺う。

(健ちゃんが気になる言い方をするせいなんだから)

(別にお父ちゃんのことが心配ってわけじゃないもの)

 心の中で責任と理由を健二に転嫁しながら、律保は中の会話に聞き耳を立てた。

「へへ、懐かしいなあ。まだちゃんと動くじゃねえか」

 そんな剛三の声と一緒に、ギィ、ギィ、と錆びついた音が庭から零れ出す。

「サビどめ剤を塗ってペンキで塗装し直しゃあ、まだ充分使えるだろう。あの時代のしろもんは今のと違って頑丈だしよ」

 遠い目をしてそう言う葦原も、随分白いものが髪に混じっていた。健二とともに縁側に腰掛けているのが、妙に不思議だ。葦原がまばゆげに見つめているのは、元々ピンク色だった、向かい合わせタイプの二人乗りブランコだ。剛三はそのブランコに腰を下ろして、ゆっくりと揺らしていた。

「だな。こいつを安く譲ってくれた東海エクステリアも、つぶれたんだってな」

 剛三は寂しげにそう呟くと、またギィとブランコを一漕ぎした。

「まあ、時代の流れに乗れなきゃしょうがねえってことだろう。それよか、そいつもついでに直しておくか?」

 暗い話題を避けようとしたのだろう、葦原がブランコに話題を集中させた。

「そうだな。もし律保がこの家を売るとしても、ガキの遊び道具がありゃあ、ちったあ色つけて買い上げてくれるだろうしな」

「親父さん、やっぱりこの家を手放したくないんじゃないですか」

 健二が弁当の白身魚のフライを頬張りながら、剛三にそんな突っ込みを入れた。

「そりゃそうさ。松っちゃん、ゴウがこの家を建てるとき、俺になんて注文つけたか知らねえだろう」

 ――律保が一生住む家に困らねえよう、三世代くらい長持ちする建材を使え。

「金に糸目はつけねえ、とか言ってな。随分儲けさしてもらったんだぜ」

 と、葦原が剛三を鼻で笑ってそう語る。律保は初めて聞くそんな話を、どう受けとめていいのか戸惑った。知らずに喉をこくりと鳴らし、庭先の三人を覗き続けた。

「このブランコだってな、りっちゃんが二歳の誕生日ンときに買った最新モデルだったんだけどよ。繋ぎの部分が手に挟まらねえようにだとか、定期メンテを寄越せだとか、まあうるせえうるせえ」

「う、うるせえのはてめえだよっ、余計なことまで松にしゃべってんじゃねえ」

 昔よく見た赤ら顔が、律保の目の前で再現される。だがそれはアルコールの染めた赤ではなく、気恥ずかしさや照れといった類の、心が醸し出す天然色。

「娘さんの話を聞くたびに思いますけど、親父さんって“娘が人生最後の恋人”っていう、よく耳にする父親像を地で行ってますよね」

 そう言って葦原のからかいに便乗する健二は、少しだけ口角を引き攣らせていた。剛三の娘の正体が誰なのかを知っているくせに知らない振りをするのが辛そうだ。そう思うと、律保の胸の奥がツキリと疼いた。

 剛三が健二の下手な隠し立てに気付くことはなかった。律保はてっきり剛三がいきり立って反論するとばかり思ったのだが、そこには意外な表情が宿った。

「そんな資格は、ねえよ」

 年を重ねてすっかり垂れた瞼の皮膚が、剛三の細い目尻を少しだけ下げさせる。肩を落として背中を丸めた、その横顔がひどく苦しげだった。

「女の子なのに、ついカッとなって、あいつを思い切り殴っちまったからなあ」

 それから律保の態度が変わった、と、剛三が苦笑しながら呟いた。

「ゴウ、でもそれは、りっちゃんがちづちゃんを悪く言ったから、とかなんとか言ってたじゃねえか」

「俺も酔ってたからよ、律保が何を言って俺がどうしてカッとなったか、実はもう覚えてねえんだよなあ。覚えてねえっつうことは、その程度のことでしかなかった、ってえことだ。はは、バカ親父もいいトコだぁな」

 律保の中で、十年以上も昔の記憶が蘇る。足がわなわなと震え出した。

『親の気も知らねえで、このガキがっ』

 自分のなんという言葉が、剛三にそんな言葉を吐き出させたのか、律保自身も覚えていなかった。あのときは心と体と、思考までもが恐怖に占領されていた。

「……親父さん、まだ玉子焼きが残ってますよ。食べないんですか」

 健二が話題を切り替えるように、弁当を剛三に勧めた。律保の角度から剛三の苦しげな横顔が見えなくなった。

「お? ああ、玉子焼きはおかずのくせに甘えから苦手なんだよ」

「あ、そっか。親父さん、いっつも塩味で作れって言ってま……あ」

 健二がそう言いながら玉子焼きを口にしたら、突然言葉を詰まらせた。

「親父さん、だまされたと思って一個食べてみてくださいよ。彼女がこの味付けで作ったのは初めてです」

 きっと感想を欲しがるだろうから、とタッパをずいと差し出した健二と、一瞬目が合った気がした。

「お。こいつは……」

「塩と、ちょっとだけ醤油、かな。だしで味を調えている感じですね。どうですか」

 剛三の背中が小さく揺れた。

「懐かしいなあ。塩味の玉子焼きを作るバカなんて、家のドジな娘だけかと思ったぜ」


 ――ホンっとに律保ってのは、バカ娘でよ。


 剛三は、本人が生垣の向こうで聞いているとも知らずに、律保に関する昔話を健二や芦原と語らっていた。だがそれはもう、ほとんど律保の耳に入ってなどいなかった。剛三の零した「バカ娘」という響きが律保の胸をざわつかせた。

(お母さんと会わなくちゃ……訊かなくちゃ)

 自分の中に立ちはだかる剛三と向き合うために、律保は千鶴の記憶を求めた。しがみついていた生垣からそっと身を退き、駅に向かって駆け出した。

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