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07. キムチ鍋(3)

 やがて淳也がサッカーの練習から戻り、少し中途半端なままに話は終わった。

「淳也。こちら、松枝健二くん。ええと、姉さんの、ですね。ううんと」

 と、律保(りほ)が真っ赤な顔でしどろもどろと紹介をする横から、健二が

「お婿さん候補です。よろしく」

 と冗談めいた口調で自己紹介をした。

「おむ、こ、え……ええええええええ!?」

 そのあとに連なる言葉はなかなか聞くに耐えない、律保に対する罵倒の嵐だった。

「――って感じのオニオンナだよ? お兄ちゃん、あとで“しまったあ”なんて思っても遅いよ? 僕、知らないよ? ホントにこんな怖いのでいいの?」

「ちょっと淳也。何よ、その言い草は」

 と説教を始める律保の言葉に、健二は言葉を被せて淳也の肩を持った。

「へーき、へーき。絶対にそんなこと思わないから。淳也君からダメ出しを食らわなくて、よかった。ありがとう」

「って、ちょっと待って。どうして勝手に話が進んでるの? 私はまだ」

 玄関先でのそんな会話を「律保、健二さんとお買い物をお願い」というキッチンから届いた千鶴の声が遮った。


 二人並んで、商店街への道を辿る。

「物怖じしない、素直な弟さんですね。淳也君とは仲よくなれそうだ」

 真っ黒に日焼けした顔と泥だらけのユニフォームをまとった淳也を見た瞬間、サッカー少年だったころの自分を思い出した。健二がその当時サイドバックを担っていたと淳也に話すと、「マジ? 僕のポジションもサイドバックなんだよ!」とキラキラした瞳を健二に向けて教えてくれた。

「そうね。口は悪いけれど、本当は今でもきゅうってしたくなっちゃうくらいなのよね。姉バカかしら?」

 健二と同じように、淳也の顔を思い出したのだろう。律保はくすくすと笑いながら、そう言って弟を褒めちぎった。

「律保さん、俺に内緒で、ご両親にいっぱいいろいろ話してたでしょう」

 健二は芝居がかった口調で律保をそしった。

「う……お、お母さん、一体何を話したの?」

 自然な笑みを突然引き攣らせて千鶴へ矛先を逸らそうと必死な律保の顔を見たら、結局噴き出してしまった。

「本題は親父さんのことだったけれど、でも律保さんのこともいっぱい教えてくれました」

「うそ。たとえば、何?」

「俺のプロポーズを断っちゃったのを、本当は後悔してるってこととか」

 そう打ち明ける口角が、つい意地悪く吊り上ってしまう。

「う……お、お母さんのうそつきッ。家の処分についてのことで、健ちゃんにお父ちゃんのことを訊きたいだけだなんて言ってたくせに」

 と、律保がかなり後ろになり見えもしない実家を振り返って、恨めしげにそう零す。健二から照れた顔を隠そうとしているのが一目瞭然だった。

「そういうの、ちゃんと俺に話してくださいよ。朝からお義母さんと話すまでの間、ずっと寿命が縮む想いだったんですよ、俺」

 朝、という単語でふと昨夜のことが脳裏を過ぎる。二人して途端に押し黙ってしまった。

「……お父さんに、話したの」

 無言でしばらく商店街に向かって歩いていた二人だったが、律保が先に口火を切った。

「何を、ですか」

「お父ちゃんの借金を、健ちゃんと一緒に返していること」

 浜崎に遠慮ばかりしていた律保が、剛三のことを告げるのにどれだけ勇気が要っただろう。彼女がまた一歩前に進めたことを知り、健二は彼女を抱きしめたくなった。感慨深げな笑みを浮かべて律保に続きを促すことで、不意に湧いた衝動をやり過ごした。

「やっぱりね、二重家賃って無駄だと思うの。私のアパートは二部屋だから、健ちゃんと一緒に暮らそうと思ってる、って報告したの」

「げ」

 つい変な声が上がる。慌てて口許を押さえる情けない顔をした自分が、睨み上げて来た律保の目に映った。

「げ、って何よ。その……昨夜のことは、OKって意味じゃなかったの?」

 と、律保が挑むというより縋るような目で訴える。首まで肌が真っ赤に染まっているのは、西陽のせいではないと思う。健二はむずがゆさを覚え、二、三度首を掻いた。

「お義父さんが書斎から出て来なかった理由、なんか判った気がします。律保さん、役回りがおかしいじゃないですか」

「な、何よ、役回りって」

「俺、お義父さんの目の前にいたんですよ? 律保さんからじゃなくて、俺がお願いに上がるべき話でしょ、それ」

「だって、でも、別に結婚っていう話じゃないし、それにお父さんも、お母さんからその話はもう聞いているからいい、って」

「って! ちょっと律保さん! それ、お義母さんにももう話が済んでたんですか!」

 血の気が一気にさぁっと引く。そうとも知らずに、千鶴へ偉そうなことを言っていた自分を思い返した途端、心の中だけでのた打ち回った。

「あ、う、だって、親の説得については私の問題だし」

 健二はしどろもどろと言い繕う律保に、わざと大きな溜息をついてみせた。

「私の、じゃなくて、私“たち”の、でしょう?」

 さりげなく逃げの体勢に入った律保の手を掴み、大通りへ出る前にと、思うところすべてを吐き出した。

「俺は律保さんよりも年下で、頼りないところもいっぱいあるかもしれないけど。独りでがんばろうとしないで、一緒にいろんなことを解決したり、励まし合ったり支え合ったりしましょうよ。それが“家族”っていうものでしょう」

 律保の結婚観を聞いて一度は怯んだ思いが、新たに宿った強い想いで掻き消された。それが健二に素直な本心を紡がせた。


 ――律保さんが「うん」っていうまで、何度でもプロポーズします。


「今すぐじゃなくっていいんです。浜崎のお義父さんのことやお義母さんのこと、親父さんのことだって、いっぱい、いっぱい、律保さんが悩んでることくらい、俺だって解ってます。独りでどうにかしようとしないで、俺にも分けてくださいよ」

 まっすぐ見上げて来る口惜しげな瞳が、赤い西陽を反射してきらきらとまたたいた。涙を堪えて唇を噛んだ律保は、それを隠そうとしたのか、不意に勢いよく俯いた。

「……うん」

 健二の掴んだ律保の手が、弱々しく健二の手を握り返す。彼女全部を抱きしめたくても、公道でそれをする度胸はなかった。健二は細くしなやかな指にごつい自分の指を絡ませて、律保の代わりに彼女の手をしっかりと包んだ。

「買い物から帰ったら、お義父さんの書斎へ案内してくださいね」

「……うん」

 初夏の夕空を赤く染める太陽が、肩を寄せ合い大通りへ向かう二人を柔らかく包んだ。




 千鶴に手渡されたメモを片手に、二人で買い物をするのは楽しかった。

「健ちゃんって、男の人の割には野菜選びが念入りなのね。感心するわ」

 律保が笑ってそう言えば、

「だって、親父さんがやたら味にうるさい人じゃないっすか。これはもう、ガキのころからの癖ですよ」

 と健二が大袈裟に愚痴零す。

「お父ちゃんといいお父さんといい、自分のことを棚に上げて我が子には偉そうに語る、ってのが親なのかしらね」

 律保はそう言って、思い出し笑いを交えながら書斎で浜崎と話したことを健二に伝えた。

「お母さんから聞いて健ちゃんの人柄も解ってるつもりだ、とかね。話してくれるのを待っていたとかね。もう、自分こそ、知っていたならそうと言ってくれればよかったのに、って。初めてお父さんに偉そうなお説教をしちゃった」

 律保は「まさか健ちゃんに同じことでお説教されるとは思わなかった」と、先ほどの話を蒸し返して健二の脇腹をつついた。

「マジっすか。実は、俺もお義母さんに説教かましちゃったんッすけど」

「え、何それ」

「ええと、それは、なんつうか……ナイショです」

「いいもん。あとでお母さんを締め上げるから」

 律保は握り拳を振り上げて、今にも荒い鼻息を噴かす勢いできっぱりと言い切った。

(……お義母さん、がんばれ)

 まずこちらの交わした会話のすべてを白状することはないだろうと思いつつ、気弱な千鶴の反応に若干の不安を覚えた。

「……え、ちょっと」

 律保がその話をいきなり切り上げ、メモを見て不穏な呟きを口にした。

「なんですか」

「健ちゃんは辛いものが苦手だって答えたはずなのに」

 困惑する律保の視線の先へ、健二も目を遣った。

『キムチ、コチュジャン、赤唐辛子』

 白菜、豚肉、木綿豆腐などに埋もれて、そんな食材が記されていた。

「うわあ……」

「お父さんが鍋にしようって言い出したみたいなのよね」

「お義母さん、かなり強引に夕飯を食べていけって言ってましたよね」

「これは」

「回りくどいわ……」

 仕返し、というフレーズが、苦笑と一緒に二人の口から同時に出た。

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