07. キムチ鍋(2)
浜崎と入れ替わって、千鶴が健二の正面に腰を落とした。
「まだ五月にも入ってないのに、今日は暑いですね。冷たいお茶のほうが喉を潤しやすいかと思って。どうぞ」
と冷えた緑茶を勧められ、健二は戸惑いながらもおずおずとそれに手を伸ばした。
「いただきます」
挨拶は相手の目をきちんと見て、相手に伝わる声で口にしろ。剛三にしつけられたことをそのままに、健二は千鶴と視線を合わせた。
律保は目許が剛三と似ているので、一見父親似だと思わせる。だがこうして千鶴の儚い微笑を見れば、左右対称で鼻筋の通った端正な律保の顔立ちが、母親譲りだとよく解る。
「律保は頑固で勝気な娘ですから、健二さんには随分とご苦労を掛けているでしょう?」
くすりと小さな笑い交え、千鶴がついと健二の持参した柏餅を更に勧めた。
「いえ、そんなこと。情けない話ですが、自分は何かと考え過ぎることが多いので。彼女の決断力に助けられてばかりいます」
健二は答えてから自分の言葉に不安を覚え、つい眉をひそめて俯いた。聞き様によっては、律保を男勝りだと追い討ちを掛けているように聞こえやしないか。情けない性格を自ら晒す発言になっていたのではないか。千鶴は涼しい微笑を保ったまま、まっすぐ健二を見つめたきり何も言わない。健二は気まずい間を紛らせようと、勧められた柏餅を手に取った。
「律保はあなたのことを“物言いは柔らかいけれど、意外と自分の意思を曲げない頑固者なのよ”なんて、自分のことを棚に上げて」
千鶴はそこまで言うと、こらえ切れなかったとでも言いたげに、口許を手で隠してくつくつと笑った。
「あの子ったら、うっかり口を滑らせたんです。“健ちゃんは、お父ちゃんに感化され過ぎよ”って」
その会話のやり取りは、昨年の秋口だったという。千鶴はそのとき初めて、健二と剛三の関係や剛三の所在、律保が骨折していたことなどを知ったと寂しげに語った。
「あの子が女性としての生き方を敬遠していると感じておりましたの。年ごろになっても相談の一つもされず、お友達の結婚式に呼ばれたときも“自分から人生の墓場に足を突っ込むなんて、気がしれない”なんて漏らしたり。とても心配でしたけれど、私と岩田があの子にそういう考え方をさせてしまったのだろうと思います」
千鶴は微笑んで語ったが、健二の目にはとても苦しげな微笑に見えた。上品に柏の葉で口許を隠して餅を口にする彼女へ返す言葉が浮かばなかった。健二も沈黙をごまかすように、柏餅を一口かじった。
「でも、あなたのことがきっかけで、あの子が初めて私に相談をしてくれましたの。それからは、本当にいろんな話をしてくれるようになりまして、あの子の本音が解るようになりました。あなたから思いを打ち明けられて、反射的にお断りしてしまったことをとても悔やんでいましてね」
「――ッ!」
喉の奥に餅が詰まりそうになった。拍葉に包まれていた白い餅と対照的な顔色になっているであろう、自分の顔色が容易に想像できる。健二は次の一口で喉に詰まったいろんなものをすべて流し込もうと、残りを丸ごと口の中へ放り込んだ。
「あなたのお話をするあの子を見て、本当に安心させていただきました。そりゃあ、最初こそ世間様でよくご心配されることなども考えましたけれど」
交際相手として認めてもらえない、という悪い予感は完全に外れた。それにほっとしたものの、自分が結婚を考えている女性の親からこういう話を聞くという状況が、こんなにも気恥ずかしく居心地の悪いものだとは思わなかった。健二は頬張った餅をどうにかしようと、今度は緑茶に手をつけた。
「あの子の口からあなたのお人柄を伺ううちに、このごろどうにも逆の心配が浮かんでしまって」
健二が茶を口に含んだと同時に、千鶴がそんな気になる言葉を口にした。
「律保ったら、健二さんからのプロポーズを即答でお断りしてしまったそうですね。ばち当たりな子ですみません」
「ぶふっ」
とうとう餅ごと緑茶を噴き出した。
「あら、大変。大丈夫ですか」
千鶴は軽く驚いた様子で健二にボックスティッシュを差し出し、濡れ布巾で手早くテーブルをの汚れを拭き取った。
「す、すみま」
健二は今の自分の顔色が赤いのか青いのかも解らなくなった。うろたえる手は乱暴にティッシュを束で掴み、急いで口許を拭っていた。詫びの言葉は最後まで言えなかった。
「こちらこそ、ごめんなさい。てっきり律保が親に話していることもお伝えしているとばかり思っていました」
まったく言葉足らずなんだから、と呟いた横顔は、ラックの上に飾られた写真を見つめていた。そこには、高校時代に撮影したと思われる、仏頂面の律保がこちらを睨んでいた。
開け放たれた窓から涼風が客間に流れ込み、真っ白なレースのカーテンをふわりとなびかせる。冷えた緑茶の注がれる涼しげな音が、空になったガラス茶器の内側から上品に奏でられる。健二のむせる咳払いが治まると、千鶴は新たに注いだ冷茶を差し出しながら健二に視線を戻した。
「どうやらあの子は健二さんからの申し出をお断りしたものの、ずっとそれを悔やんでいるようです。反射的に断りの言葉を口にさせたのは律保の本心ではなく、私どものせいではなかろうか、と。あの子の話を聞いているうちに、いてもたってもいられなくなりまして」
千鶴は慎重に言葉を選んだのであろう、一度健二から視線を外すと、探すように瞳を左右に一巡りさせた。
「私の立場でこんなことを申し上げるのはおかしいと思われるのでしょうけれど」
さまよっていた視線が健二に戻り、彼女がようやく本題らしき話題を口にした。
「健二さんが岩田の背負った借金を一緒に返してくれていると、律保からお聞きしました。このたびは岩田のことでも健二さんに大変なご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ございません」
と、千鶴が突然頭を下げた。面食らった健二は思わず口を挟んでしまった。
「あの、本当に仰るとおりです。あなたはもう浜崎さんなんですから、どうか頭を上げてください。それに、自分がそうしているのは、全部これまで親父さんからしてもらって来たことの恩返しで」
「それでも、健二さんの事情と、律保や私の事情は別だと思うのです。律保は岩田の実子ですし、あの子自身の“これを機に岩田から受けた支援を相殺したい”という気持ちも、間違ってはいるものの理解できないものではありません。ですが健二さんは、違います。岩田が自ら買って出たもの。あなたが岩田の重荷を背負う義務はない、と私は思うのです」
千鶴がそう反論して頭を上げた瞬間、健二は言葉を失った。律保から聞いていた“頼りない母”の姿が、そしてつい先ほどまで健二自身も同じ印象を抱いていた儚げな印象が、今の彼女から消え失せていた。
「健二さんには、岩田の債務を背負っていただくのではなく、別のお願いをしたいと思ってお呼び立て致しました。我が家の恥を晒すようでお恥ずかしいのですが、律保との将来を考えてくださっている方だからこそ、お願いするにあたり、少しお話を聞いていただきたくて」
そう言った千鶴から、初めて仔細を知らされた。剛三と千鶴の離婚当時、律保が幼過ぎたために、今の律保の中で過去の記憶が曖昧らしいこと。律保がそんな自分に気付き、葛藤していること。離婚の原因が、剛三から聞いた話と随分違うこと。千鶴に言わせると、“剛三に必要だったのは自分ではなく、家族という形態だけだったと感じたこと”が、千鶴の中での離婚理由らしい。愛されていないと判って絶望し、離婚を決意したと当時の心境を語った。
「ですが、この春先に岩田の引っ越した先が、以前私どもと暮らしていた場所だと福岡先生からお聞きしまして。あの人が何を考えているのか解らなくて、不安を覚えましたの」
「え……じゃあ、あの駅の東口の向こうにある住宅街が」
「ええ。岩田の建てた家があるところですわ。律保が中学を卒業するまで、私たち二人は岩田と離婚したあともそこで暮らしていましたの。岩田が“律保の相続手続きを取るなり、養育費の足しにするなり好きにしろ。くれてやる”と言い残して出て行った、苦い思い出のある家、です」
千鶴は苦しげに眉根を寄せ、福岡が健二の手引きで剛三の新居を訪ねたあの日、その家の権利書を渡したと健二に明かした。
「あの家を売れば健二さんにご負担を掛けなくて済みますのに、まだ手続きを取っていないようなのです」
誰にも必要とされなくなったあの家を処分するよう、それとなく健二から剛三に打診して欲しい。それが呼び出された本題らしい。彼女は「ほう」と小さな溜息をつくと、再び頭を下げて謝罪した。
「本来ならば、私と浜崎がお訪ねすべきところですが、健二さんは岩田と親子同然に過ごしていらっしゃると伺っているので、私どもの赴くことが今以上のご迷惑を掛けてしまうことになりはしないかと考えまして」
そんな言葉の端々から、今の夫である浜崎とよくよく話し合った上での今回のことだと思われた。健二の中に、疑問が浮かぶ。少し羨望の混じった疑問。
(浜崎さんは、どうしてそんなに寛大なんだろう)
嫉妬深い自覚のある健二から見ると、妻が前夫へここまで心を傾けているのに、嫉妬どころか一緒に前夫を支援しようとさえしている。その寛大さに妙な違和感を覚え、それがつい顔に出た。
「隠し立てをしたところで、律保と連れ添うのであればいずれ判ること。そう思ってお話しましたが、こんないたらない家族では情も薄れてしまいますでしょうか」
不安げな瞳が潤み出す。それが律保を連想させる。健二はどきりとした内心を隠そうと慌てたあまり、不躾な問いをそのまま口にしてしまった。
「そんなことは。ただ、浜崎さんの寛大さに、なんというか、その」
しまった、と思って口に手を当てたが、時既に遅しだった。千鶴は一瞬大きく目を見開いて驚きを見せたが、また寂しげな微笑を宿し、少しだけ俯いた。
「浜崎は、私と同罪ですから。あの人は、岩田と私の馴れ初めから別れまでのすべてを知っています」
浜崎は、千鶴が剛三と結婚する前まで勤めていた工務店の先輩だったと説明された。
「岩田との心の隙間を狙ったかのような形で再婚をした、と浜崎は自分自身を責めています。すべては私が原因なのですが、一緒に背負うと言ってくれまして」
いい年をしてお恥ずかしい。千鶴は今日、何度目かの「恥ずかしい」を口にして苦笑した。
長い沈黙が二人の間に横たわった。少なくても健二にとっては、とても長い時間に感じられた。そう思わせたのは、健二の中に廻るさまざまな思いや感じたことが、整理されるまでにたくさんの時間と思考を要したせいだ。
「お義母さん」
初めて、千鶴のことをそう呼んだ。声音がそれまでのおどおどとした口調から、はっきりとした強いものに自然と変わった。
「仰ってくださったとおり、ゆくゆくは家族として自分を認めていただけるかもしれない、ということであれば、猫を被っていてもいずれ判ることなので、率直にお話させていただきます」
両の拳を固く握り、ふつふつと沸くものを最大限に抑える。
「若輩者の自分が言うのは失礼なことかとも思いますが。でも、自分は、浜崎のお義父さんもお義母さんも、間違っていると思います」
健二がそう口にしながら必死で抑えていたのは、憤り。健二が大切にしたくてももうできなくなってしまった“家族”というものを、人任せにしてしまう千鶴や浜崎の臆病な背中が、そのまま律保に同じ行動や思考の癖を植えつけて来たようにしか見えなかった。
「浜崎のお義父さんもお義母さんも、それに律保さんも、いつも間に誰かを挟みます。後ろめたい気持ちがそうさせているのはよく解ります。でも、本当にそれでいいんでしょうか。親父さんが何を考えているのか解らないのは、直接向き合うことを避けているからじゃあありませんか?」
本来の律保は剛三とよく似た、自分で考えて決断し、自分の意思で行動したい性分だ。表向きのいさかいを避けるために我慢をしては、がんばっている気分に浸っている。そんな風にしか見えなかった。健二はそんな思いを包み隠さず千鶴にぶつけた。
「律保さんに“ちゃんと親父さんと会って話すべきだ”なんて、俺は口が裂けても言えません。それは律保さんが自分で気付いて、自分の意思でしなくちゃ意味のないことだからです。だから俺は気長に待つつもりでいます。彼女が自分で気付いて動いてくれるまで、ずっと待ち続けるつもりでいます。だから、親父さんに何一つ律保さんのことを話せていません。俺は……ここの家の人たちの遠回りが、すごく、歯痒い、です」
口惜しさに唇を噛む。理性がどこかで「こんな言いたい放題をしてしまうのも一種の甘えだ」と自分を諭すので、我ながら情けなくなる。
「生意気を言ってすみません。でも、いくら律保さんの親御さんでも、間違っていることに目を瞑ってまで機嫌をとるなんて器用なこと、俺にはできませんから言わせていただきました」
大きく目を見開いて健二を見つめる千鶴から、とうとうこらえ切れずに視線を逸らした。俯いた先では、膝の上で両手がわなわなと震えていた。過剰なほど親への配慮をする律保に、親か自分のどちらかを選ばせるような真似をしたかもしれない。そう思うと、勝手に体が震えた。そんな健二に、千鶴が柔らかな声で語り掛けた。
「律保を、そして岩田を、本当に大切に思ってくださってるんですね。ありがとうございます」
おずおずと顔を上げて千鶴を見れば、何か憑き物の取れたような表情を浮かべ、両の瞳を潤ませていた。千鶴のそんな表情を見た途端、一気に全身の力が抜けた。緊張の糸もプツリと切れて、隠しようのない安堵の溜息が無遠慮なほど大きく客間に響いた。
「岩田は、私や律保を、恨んではいないのですか」
千鶴のその問い掛けには、健二に負けないほどの、安堵の溜息が混じっていた。
「自分は親父さんじゃないから、本当のところは解りません。でも、恨みつらみを持っている相手との思い出がある場所にわざわざ引っ越すなんて、そんな複雑な神経を持っている人じゃあない、と思います。今回の不渡手形の件だって、告訴しようって言ったのに、“そんな暇と金はねえ。まずは迷惑を掛けてる業者に誠意を尽くすのが筋だろう”なんて、こっちが怒られちまう始末です。そういう人です、親父さんという人は」
剛三とともに過ごして来た十数年間で、一度も千鶴や律保への恨み言を聞いたことがない。健二はようやく笑みを浮かべ、その事実を千鶴に伝えた。
「そう、ですか……そう……」
ゆらゆらと揺れる瞳が、親子ほど年の離れた目上の女性と思わせない頼りなさで健二を見つめ返す。千鶴の中に、やはり律保を見る。若い時分の剛三や浜崎は、さぞこの瞳に散々振り回されたことだろう。そう思うと、彼らに対する“同類相哀れむ”類の苦笑が健二の面に浮かんだ。
「きっと親父さんにとってあの家は、幸福の象徴なんじゃないかって、今思いました。だからあの家の近くにアパートを借りたのかな、って。だから家を売るように、という件は、親父さんの幸せを売れと言っているようにしか思えないから……申し訳ありませんが、協力できません」
健二はそんな形で、やんわりと千鶴に雪解けを促した。
「そう……そう、ですね。私も、今そう思いました。浜崎ともう一度よく話し合ってみます」
千鶴はそっと目頭を拭うと、律保が晴れ晴れとしたときに浮かべるものとよく似たまぶしい笑みを零した。
「辛口のご指摘を、ありがとうございました。お陰さまで目を覚ますことができました」
――律保とも、そうやって一緒に歩んでやってください。律保をよろしくお願い致します。
その瞬間、今日一日の中でたくさんのことについて湧いた不安やネガティブな憶測が、健二の中から拭われた。




