表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/23

01. だしを取る

 律保(りほ)は目の前の男が突然告げた交際の申し出に目を丸くした。その男、平林は、同じ建設業界の中で働く同業者というだけでなく、「平林」「律保」と親しく呼び合う大学時代の同期でもある。確かに今日は、律保の勤める竹内工務店の職場仲間から打診された宴席よりも、他社で勤める彼との時間を優先した。ただし、学生時代の友人としての感覚で。

 平成八年三月十二日。日付が変わると同時に「誕生日プレゼントだ」と言ってバーのカウンターテーブルに置かれたお洒落な小箱。

「一番に律保の二十六歳を祝いたかった」

 という甘ったるい言葉と、開けられた小箱の中身。

「結婚を前提に、付き合って欲しいんだ。この箱に今度は、エンゲージリングを収めて律保に贈りたい」

 妙齢の女性ならば、天にも昇る心地のシチュエーションなのだろう。だが律保にとって、その演出は失望以外のなにものでもなかった。

「平林は、今までそういう目で私を見ていたの?」

 放った第一声が、律保自身でも驚くほど冷ややかだった。こめかみの引き攣れをことさらに感じる。長い髪を留めたバレッタが後ろへ引っ張るせいだけではない、と律保自身が解っていた。剣呑に細められた律保の両目が、醒めた冷たい色でアクアマリンのヘッドを見下ろした。

「まあ、そういうことになるな」

「いつから?」

「本当は、安田先輩と霧香の結婚披露宴のとき、二次会のどんちゃん騒ぎにかこつけて言おうと思ってたんだけどさ」

 悪びれることも、そして律保の気持ちにも気付くこともなく、平林は苦笑しながら告白を続けた。

「俺が言う前に、律保が酔っ払って大失言をしちまっただろう?」


 ――安田と霧香の、離婚の始まりにカンパーイ。


「安田先輩と霧香も律保の家庭の事情を知っていたから、ツッコミで笑いを取ってごまかしてくれていたけどさ。離婚の始まりだとか、人生の墓場だとか、そういうの、“恋愛と結婚はベツモノ”って言うのか? 俺は結構、あのときの律保の言葉がショックで、結局言い損ねちまったまま今日まで来ちゃったんだよな」

 結婚は離婚の始まり。結婚する人の気がしれない。それは確かに律保の口癖だった。四年前に酔った勢いで口を滑らせたらしいその持論は、律保の中で今も変わらず存在している。

「過剰な女扱いをされるのが嫌いだ、というのは知ってるよ。でも、さすがに二十六だしさ。それに、“いつまでも受付嬢なんてやってられない”って愚痴は、つまり、そういうことだろう? 俺の給料も安定して来たし、いい頃合いかな、と思って」

 結婚は人生の墓場、という持論。男は結婚すれば妻を家政婦扱いしかしないバカな生き物、という男性観。それらも律保の中で昔から根付いている、揺るぎない概念の一つだ。だから律保は、平林の言葉と勘違いを、歯に衣着せぬ口調で指摘した。

「そういう誤解をさせたのなら、謝るわ。私が愚痴を話せる異性は、私を恋愛対象として見ない人だけなの。てっきり友人として、理不尽な人事に共感して付き合ってくれていたのだとばかり思っていたわ」

 律保はそこまで一気にまくしたてると、残ったソルティドッグを飲み干した。

「これからは自重します。今まで話を聞いてくれてありがとう」

 みるみる目を見開いていく平林の驚いた顔が、律保にゆがんだ微笑を浮かばせた。

「じ、ちょう?」

「価値観の似た友人として、私の先を往く設計の先輩としてだったら、あなたは安田と同じくらい、私にとって最高の存在だったわ」

 遠回しな決別宣言に、引き攣れた口角がゆがむ。大切な友人を切る喪失感は否めなかった。

「だった、って……なに過去形で話してんだよ」

「マスター、二人分のキャッシュ、ここに置くわね」

 彼の言葉には見向きもせず、淡々と紙幣を取り出し席を立つ。

「おい、律保。俺の早とちりだったことは謝るよ。それなら何も今すぐ返事をってわけじゃ」

「あなたの期待する答えは、永遠に吐けない。勘違いも甚だしいと言っているの。そこまで言わないと伝わらない?」

 敢えて小声の配慮をせずにぴしゃりと言い放った。数人の客が、こちらを注目する。律保は痛い視線を感じながら、出入り口の扉へ向かった。


 いつもと違うルートを使って帰路を辿る。万が一にも平林が追い駆けて来た場合に備えて巻いたつもりだった。

 男の面子を人前で潰したのだ。殴られても仕方がないと思っている自分がいた。だが。

「待てよ」

 荒い息に混じって、そんな大声が律保の足を止めさせた。ぐいと強く腕を掴まれると同時に、律保が

「ひっ」

 と小さな悲鳴を上げた。それはまるで、被虐の少女が上げる、恐怖に満ちた切迫感を孕んでいた。人通りの少ない裏路地に、それがいつまでも響いているような錯覚にさえ陥った。

 嫌な記憶が蘇る。腕を取られ、逃げることを封じられ、そして頬を思い切り叩かれた記憶。

『親の気も知らねえガキが、いっぱしの口を利きやがって』

 律保の耳だけに、怒鳴り声が轟いた。平林に頬を打たれたわけでもないのに、左の頬がひりりとした痛みを訴えた。

「……そんなに、触れられるのさえ、嫌になった、か」

 ぽつりと漏らされた平林の声が震えていた。律保の腕を掴んだ彼の手も。

「……わかった」

 重く沈んだ低い声が、律保を我に返した。無理やり振り返らされて目にしたのは、遠い昔、自分を殴った父親ではなく、六年もの月日をともに過ごして来た平林の、自嘲でゆがんだ顔だった。

「……」

 違う、という弁解を呑み込んだ。キッ、と平林を睨み返すことで、目から零れそうになるモノをどうにか堪える。

「ただの不器用な女だと思ってた。強がっていたんじゃなくて、本当に強いんだな」

 ――独りで生きていけるくらいに。

 拘束された右腕が解放された代わりに、その言葉が律保の全身を固まらせた。

「勘違いして、悪かったよ。もう二度と連絡しないから」

 平林は力なくそれだけ言うと、肩を落として踵を返した。律保はその後ろ姿に声を掛けることもできなかった。やがて平林の発した言葉が心に浸透していくと、律保も彼と反対方向へ向かって踵を返した。これみよがしにヒールの音をカツカツと鳴らす。見送りもしない、未練などないと強く訴えるかのように。

「……そうよ。独りでも生きていける自分でありたいもの」

 平林の姿が完全に見えなくなるほどの距離を歩いてから、ようやく口にした。ゆらいでいく視界がうっとうしくて、子供のように目を袖で拭った。




 その夜は、なかなか寝付けそうになかった。

「明日……じゃない、もう今日なのか。休めないんだから、早く寝なくちゃ」

 律保のぼやきに近い独り言が、一人暮らしのキッチンに響いた。買い置きしてあった缶ビールを手に、冷蔵庫の扉を閉める。

「思いっ切り親父OL街道をまっしぐら、って感じ」

 カシュ、というプルタブの開く音に、そんな自嘲の声が重なった。風呂上りの楽しみが酒だという自分に、女性らしさの欠片もないと感じてしまう。それでも職場では、嫌な意味で女性扱いを受けている。

 設計希望で入社したのに、配属先は受付。そのまま四年も異動なし。業務命令ではないものの、配属早々に人事部長から髪を伸ばして女性らしいメイクをするよう、皮肉混じりで告げられた。

 そんな職場の面々が、仕事のあとで誕生祝の宴席を用意しているらしい。平林との約束を優先したので、今日に持ち越された格好だ。だが、律保はそんな職場に感謝など感じていなかった。

『律保さんは、鍋料理が好きなんですよね』

 後輩の子からそう確認されて、即座に首を横に振った。

『なんでもイケる口よ。みんなからリクエストを募ってみたらどうかしら』

 職場の気が合わない人たちとまで、同じ鍋をつつく気になどなれない。律保は騒ぎに紛れて早々に立ち去るつもりで、そんな生返事をしておいた。

 律保の誕生日など、実際は会社の経費で飲み会をするための口実に過ぎない。忙しい年度末の合間の、ささやかな息抜きを兼ねた愚痴の場が欲しい。律保は偶然の立ち聞きからそんな思惑を耳にしていた。

『とうとう岩田くんもクリスマスを過ぎるのか。受付の椅子がそろそろ生温かくて気持ち悪いんじゃないのかい?』

 遠回しな退職勧告、とも受け取れる人事部長の嫌味が脳裏をよぎった。

「そう思ってるなら、希望部署に配転してくれればいいじゃない。嫌味なハゲ親父」

 律保は人事部長への抗議と一緒に、最後の一口を飲み干した。


 枕元に飾ってあるフォトスタンドに声を掛ける。

「おやすみなさい」

 そこに写っているのは、養父の浜崎と実母の千鶴、そして異父弟の淳也だ。淳也がこの春から少年サッカーに入団したという手紙とともに、ユニフォーム姿の写真を送ってくれたので飾っている。

 背景になっている自宅の表札に目が留まると、つい眉をひそめてしまう。「浜崎」という姓を、律保は名乗ることができなかった。

「……」

 自分とそっくりな、細く吊り上がった目を思い出す。がさつな下町言葉でまくし立てるダミ声が鮮やかによみがえる。

 律保の実父、岩田剛三は、律保の母親である千鶴に親権を譲らなかった。それが離婚を認める条件だった。もう一つの条件は、律保の生活費や学費を剛三に任せること。千鶴は自分から離婚を切り出した後ろめたさから、その条件を呑んだそうだ。律保は千鶴の告白受ける形で、すべてが終わってからそのことを知った。

『律保、ごめんね。ごめんなさい。お母ちゃん、もうお父ちゃんとやっていける自信が、なくなっちゃったの』

 泣きながら娘に頭を下げて謝罪を繰り返す千鶴に、なんの言葉も浮かばなかった。千鶴がそう言うのも無理はないと思ったとき、律保はまだ中学生の子供だった。

「お父ちゃん、どうして私にこだわるの?」

 自分だけが岩田を名乗らされる原因となった剛三を思い浮かべて文句を言う。

「老後のための保険? それとも、私と関わり続けることで、お母さんと完全に縁が切れるのを防ぐため?」

 負けを認める剛三を思い浮かべようとしても、あまりにもおぼろげな記憶になっていて、まったく気持ちが晴れなかった。

「私が家を出た途端に行方不明になるなんて、私とお母さんへの当て付けなの?」

 ごろりと仰向けにベッドへ寝転び、薄暗い天井を仰ぐ。

 剛三と会う気にはなれなかった。だが、所在は確かめておきたいと思っていた。いつか剛三と対峙して、頼んでもいない自分の養育費や学費を突き返してやるために。

「……でも、まだ、今は無理」

 姿勢を変えて、体を小さく丸めた。抱き枕にしがみつく。

「……もっと、強くならなくちゃ……」

 今夜も呪文のように繰り返す。自分は間違っていないと言い含める。次第に睡魔が優しく律保を包み、いつしか小さな寝息が狭い寝室に立ち始めた。




 鍋料理が好き、というよりも、鍋を囲む雰囲気が好きだった。

 幼いころの、淡い記憶。剛三の雇った職人たちが、我が家のキッチンに所狭しと立って鍋の用意をする、賑やかで楽しげな風景。

 左官の親方だった剛三が、若い職人たちに厨房を任せるのだ。そして彼は千鶴と一緒に、人数分の器や箸を用意する。そのときの千鶴はいつも笑顔だった。滅多にない母親の笑顔を見るのが、小さな律保のささやかな楽しみだった。

 でも、そんな優しい笑顔も、いつも最後は泣きそうな苦笑や切実な表情に変わる。

『お父ちゃん、やめてくださいっ。相手は若い子でしょう? そんなに本気で殴ったらケガをさせてしまいますっ』

 剛三は、深酔いをするたびに、若い職人と喧嘩をして家の中を散らかした。

『てめえ、女房の分際で俺に指図する気かっ』

 剛三がそう叫びながら、拳を振り上げる。まるで律保の恐怖感を煽るように、部屋の照明がその姿を見せ付けた。

『お父ちゃん、近所の人に通報されるよ。もうやめてよ』

 律保の言葉がスイッチを入れたとでも言いたげに、剛三の拳が矛先を変えた。

『養ってもらってるガキのくせに、てめえまでいっぱしの口を利きやがるかっ』

 殴られる。そう思った瞬間、足がすくんだ。逃げることもできず、咄嗟に頭を抱えた。職人の中の誰かが、律保を庇って殴られた。

『い……ってぇ、無礼講だっつったのは、親父さんじゃねえかっ。りっちゃんにまで手を出してんじゃねえよっ』

 そしてまた、乱闘が始まる。

 帰って来ないほうが、まだマシだと思った。まだ家の中が散らからないから。千鶴が笑ってくれない代わりに、泣くことも絶対にないから。


 律保が千鶴から頭を下げられた日からほどなくして、千鶴は剛三に離婚の意思を告げた。

『申し訳、ありません。お父ちゃんを待つ生活に、疲れました。私は家政婦ではありません。律保とこの家を出ます。離婚してください』

 酔って帰宅した剛三の赤ら顔が、怒りでさらに赤くなった。

『てめえ……バカじゃねえか? 職もねえのに、律保を連れて出るだあ? 家政婦なんて御託を並べられるほど、てめえは完璧な職人の女房ができてたつもりかよ。けっ、笑わせんなっ』

 そしてまた拳を振り上げた。律保は千鶴が殴られると思い、咄嗟に二人の間に割って入った。母を抱いて固く目を閉じた。痛みに備えて歯も食いしばった。だが、剛三の拳が律保の頭や顔に打ち込まれることはなかった。律保がおずおずと振り返って剛三を見上げると、電灯の逆光で顔は見えなかったが、肩を落として佇む剛三の影のような姿が見えた。

『……やれるもんなら、やってみろや。ガキを養うってのが、てめえで稼ぐってことが、どんだけてえへんなことか……実際に味わってみりゃいいさ』

 その言葉は、千鶴の肩をぶるりと震わせた。その出来事は、律保が中学に上がって間もないころのことだった。

 それを境に、岩田家から完全に笑い声が消えた。

 三十路をとうに過ぎた千鶴に、律保を養えるほどの収入が得られる就職先など当時はなかった。主婦は家庭を守るもの、という概念がまだ根強くはびこっている世の中だった。剛三は、解っていてそう言ったのだ。幼いながらもそれに気付いた律保は、剛三に対する恐怖よりも、家族を奴隷や人形のように扱う接し方に怒りを覚えた。憎しみだったのかもしれない、と今の律保は思う。

 飲み歩いては遅い帰宅を続ける剛三に、千鶴が何度目かの離婚を口にしたのは、律保が中二というデリケートな年ごろの時期だった。

『まだそんなくだらねえことを言ってるのかよ。誰に飯を食わせてもらってんだ。あ?』

 最も懇意にしていた大工の葦原に、帰れと促されて酒も飲まずに帰って来たらしい。そこに淡い期待を抱いていた律保だったが、素面でも変わらない剛三の態度を見て、何かがプツリと音を立てて切れた。

『……いい加減にして』

 ふつふつと沸き立つ、どろりと粘ついた感情が、律保に床を這うような低い声を出させた。

『ああ? なんだって?』

 千鶴と剛三の間に割って入り、これまで耐えに耐えて来た胸の内を、とうとう吐き出した。

『お父ちゃんなんか、大ッ嫌い』

 足の震えがぴたりと治まり、千鶴を守って屈んでいた身体が自由に動かせるようになっていた。

『養われていると、なんでもいいなりにならなきゃいけないの? お母ちゃんも私も、お父ちゃんの奴隷や人形なんかじゃないっ』

 立ち上がって剛三とまともに向き合い、叫びに近い声を張り上げた。剛三の顔から血の気が引いたのは怒りの表れだと律保は思ったが、不思議と怖さを感じなかった。

『仕事、仕事。付き合い、付き合い。そんなのばっかりでろくに家にも帰って来ないで。たまに帰ってくれば飲んで来ているか、職人さんをたくさん連れて来てお母ちゃんを疲れさせてばっかりで。そんなに仕事が大事なら、仕事と結婚してればいいでしょう!』

 剛三の強面な顔がゆがみ、一層醜くなっていく。妙な達成感を覚えた律保は、勢いのままに決定的な決別宣言を口にした。

『さっさと離婚して私とお母ちゃんを自由にしてよ。私はお母ちゃんについていく』

 剛三が、初めて一歩退いた。言葉を失った口が、バカのようにぱくぱくと開け閉じを繰り返した。剛三が言葉を返すまでの間、律保はやかましいほどの自分の心音と、上がる息の耳障りな音を聞きながら、肩を上下させていた。

『……俺が出てきゃいいんだろうがよ。だがな、千鶴よ。律保の親権は渡さねえ。こいつは俺の、たった一人の娘だ。おめえみてえな気の弱え女が独りで育てられっこねえ』

 剛三は低い声で呟くと、首に掛けたタオルで顔を一拭いした。そしてそのままくるりと律保や千鶴に背を向けた。

『お父ちゃん、待ってください。ちゃんと話を』

『律保の言ったことがすべてなんだろうがよ。千鶴、てめえがこいつにこれまでいろいろと吹き込んだ結果だ。その責任だけは、てめえ自身が持て』

 それきり、剛三は本当に帰って来なかった。そして千鶴は浜崎と再婚するまで、それまで以上に笑うことを忘れた。


 やっと飲兵衛で暴力的な父から解放されたのに、母がまったく幸せそうな顔を見せてくれない。それは律保の中で、次第に大きな壁となっていった。

『律保……ごめんね。お父ちゃんは身寄りがないから、きっとお父ちゃんなりに律保を家族として大切に思ってのことなんだと思うの』

 浜崎と並んで再婚の許可を申し出られたとき、大の大人が高校生の律保を相手に頭を下げた。

『ちづちゃんが家の会社に勤めていたときから、僕も岩田さんと仕事の付き合いがあったんだ。きっと彼は、僕がちづちゃんを横から掻っ攫ったように思うだろう。弁解できないほど、結果としてはそのとおりだ。気持ちの上で、彼の許可なく君を養子にするのは、彼のその後の行動を考えると、どうにもためらわれてしまう』

 浜崎もまた、剛三が千鶴のこと以上に律保を家族として諦め切れないであろうことを主張した。

『でも、娘として君を迎え入れたい気持ちは、岩田さんに負けていないつもりだ。だからと言って、君に無理強いするつもりもないんだよ。ただ』

『うん、解ってる。ご近所の人たちが、最近ろくでもない噂を立てているものね』

 知っていたのか、と苦しげに呟く浜崎に苦笑した。

『みんな私を子供だと思って、根掘り葉掘り訊いて来るんだもの』

 お父さんを最近見かけないわね。お仕事が忙しいのかしら?

 最近よく見かける男の人は、どなた?

 律保ちゃん、何かといろいろ大変ね。おばさんでよければ相談に乗るからね。

 いやらしい笑みを浮かべて親切を装う近所の専業主婦たち。彼女たちの餌食になるほどバカではないつもりだ、と高飛車な口調で二人に報告した。

『あんな気性の父だから離婚したんです、って好奇心を満たしてやったの。浜崎さんのことは、お母さんの事務員時代の先輩だと正直に伝えてあるから、大丈夫』

 律保はそのとき初めて、千鶴のことを「お母ちゃん」ではなく「お母さん」と呼んだ。

『だから、私は浜崎さんがお母さんにプロポーズしてくれるのを待っていたくらいなのよ。だって、お互いに一緒にいたいと思ってるんでしょう?』

 律保は演劇部で賞賛を受けている、完璧なまでの演技で微笑を浮かべた。

『生意気な娘ですけど、私のこともよろしくお願いします。お父さん』

 そう言って二人の再婚を寿いだ。

 二年ぶりに、千鶴が心からの笑顔を見せた。なさぬ仲の律保のことまで父親のように心配し続けてくれた浜崎が、そのとき初めて涙を見せた。律保は自分の出した答えに、後悔はしていなかった。

 ――ただ。

 千鶴のようにはなりたくない、と思った。独りで生きていく自信の持てない、いつも不安げな怯えた表情で生きる“昭和の女”にはなりたくない、と強く思った。

 浜崎には、どうしても他人としての遠慮が燻った。実の娘のようにと言いつつ、常に律保の中に剛三を見る。いつもどこか遠慮がちな浜崎との時間や空間が、次第に苦しくなっていった。


 そんな想いから、就職をきっかけに浜崎の家を出た。だが理由は、それだけではない。かわいい盛りの淳也が、当たり前の疑問を口にしたことも考慮に入れての決断だった。

『お姉ちゃん。なんでお姉ちゃんだけ苗字が違うの?』

 六歳の残酷な問いが、律保に決心させた。大人の事情で振り回される。あんな思いを弟にまでさせたくない、と思った。

『淳也が大人になったら教えてあげる』

 その場はそう答え、浜崎と千鶴にそのことを報告した。そのときに自分の意向も伝え添えた。もちろん、両親が反対などできないと計算済みの上で、独立の段取りをすっかり整えてからの報告だった。

 剛三が行方をくらませたのは、それからほどなくのことらしい。剛三が作った仕送り用の銀行口座を解約したことで、千鶴と剛三の橋渡しをしている友人、福岡医師を介して律保の独立を知ったらしい。律保は剛三に所在を知らせるなと千鶴に強く念を押していた。それが剛三の衝動を煽ったのだろうと律保は推測している。

『俺は用済みか、って、それっきり僕にまで連絡がないんだ。りっちゃん、本当にこれでいいのかい?』

 剛三の友人というだけでなく、幼いころからホームドクターとして律保を見守って来た福岡医師にそう言われても、律保は自分の意向を曲げなかった。

『お父さんやお母さんっていうストッパーがいなくなったら、いつ訪ねて来られるか分からないでしょう? いまさらお父ちゃんに父親面なんてされたくないわ』

 福岡は律保の言葉を聞いて、深い溜息をついた。

『剛ちゃんは、何かあれば葦原のお大工さんに言付けろと言っていたよ。下手なことはしないと思うけれど、あいつは僕にも裏切られたと思っているんだろうなあ』

 そう愚痴を零して落ち込む福岡の心理が解らなかった。あんな横暴な人と、なぜこの温和な開業医が懇意にしていたのか律保には不思議なほどだった。

 とりあえず住まいは、剛三の営業範囲ではない場所にしたつもりだが、生活圏内を離れるほどの大きな移動は不可能だった。ただひたすら、出くわさないことを祈る日々を始めてから四年が経とうとしていた。




 どこか遠くでベルが鳴っている。律保は条件反射でベッドサイドに手を伸ばした。そしていつものように、叩き落とす勢いで目覚まし時計のアラームをオフにする。

「んん……、もう朝?」

 頭が重い。まだ昨夜のアルコールが残っているのだろうか。そんなことを思いながら、だるい体を起こした。

「目覚めわる……」

 思い出めぐりの夢というには、あまりにも思い返したくない内容だった。

 律保は昨夜平林に掴まれた腕の感触まで思い出し、自分の肩を抱いて身を震わせた。

「さぶっ。さっさと着替えよう」

 身震いを寒さのせいにした。寝ても覚めてもちらつく剛三の顔を拭うために。三月の半ばだというのに、まだ朝はかなり冷え込む。律保はデジタル時計の温度計を見ようと視線を時計に移した。

「え……えええええ!?」

 温度計よりも大きな文字で表示された時刻が、いつもの出勤時間さえ過ぎた時刻を知らせている。思わず時計を手に取り、アラームのセット時刻を確認した。いまさらそんなことを知ったところで無意味だと気付いたのは、一時間遅くセットしていた自分を確認して愕然としたあとだった。

「と、とにかく急がなくちゃ。まだどうにかギリギリ間に合うわ」

 だるさも物憂げな重い気分も吹き飛び、律保は勢いよくベッドから飛び出した。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ