そして出会う
感謝の言葉と、丁重な断りの文章。
それを目に入れた瞬間、私は思わず手紙を机へと叩きつけていた。
乾いた音が、室内に響く。
拒まれた。
そう思った途端に、この胸の奥で何かが崩れ落ちていた。
指先が、わずかに震えた。
だが怒りに任せて何かを壊したところで、事態が好転するはずもない。
私は深く息を吸い、すぐさま屋敷中の使用人を呼び寄せていた。
「ハルという名の庶民を探せ。黒い髪に、黒い瞳の青年だ」
一瞬の戸惑いのあと、私ははっきりと言葉を重ねていた。
「連れてきた者には、それ相応の報酬を与えよう」
そう多額の金貨を示せば、使用人たちの目の色が変わる。
彼らは一斉に頭を下げ、言葉もなく駆け出していた。
扉が静かに閉じたあと、私はひとり呟いた。
「……なぜだ」
なぜ、ハルは頼らない。
なぜ、この手を取ろうともしないのか。
***
数日が過ぎた。
胸を締めつけるような不安は、日に日に形を持ち始めていた。
そのようなある日、ついに一つの目撃情報が届く。
ひどく痩せ細った青年が、仕事を探して街を彷徨っているのだと。
私は身分を隠し、最低限の供を連れて街へと降りた。
目撃されたという広場へと向かうと、そこには常とは変わらぬ噴水の音と人々のざわめきだけが存在していた。
そしてそこには、誰もいなかった。
使用人たちを先に屋敷へと帰し、私はひとり噴水近くの椅子へと腰を下ろしていた。
ハルは今、どのような思いで生きているのだろうか。
腹を空かせてはいないだろうか、独りで泣いてはいないだろうか。
そのような不安ばかりが、この胸で渦を巻く。
文字だけでしか知らないはずであるただの青年が、今や私の心のすべてを占めていたのだ。
立ち上がり広場を去ろうとした、その時。
遠くから、男たちの荒々しい声が耳に入った。
「……やめろ、はなせ!」
「お前、仕事が欲しいんだろう?俺たちが紹介してやるよ」
「化粧でもすりゃ、女にも見えないことないからなあ!」
声がした方へと視線を向けると、無骨な二人の男に腕を掴まれた一人の青年の姿があった。
ひどく痩せ細り、黒い髪に黒い瞳をしたその青年。
考えるよりも早く、私はすぐさま駆け出していた。
男たちの腕を捻り上げ、金貨を数枚地へと投げた。
その隙に青年の身を支え、私は震える手を取っていた。
男たちは躊躇なくそれに群がり、こちらを見るようなこともなかった。
青年の手は驚くほどに小さく、とても軽くもあった。
街外れまで移動し、息を整えたところで私はその黒い瞳を静かに見つめていた。
「その、危ないところを……ありがとうございました……」
青年は目に涙を浮かべて、深く頭を下げていた。
だがこの人物がハルであるという確証は、まだなかったのだ。
「……なぜ、あのようなことに?」
できる限り、落ち着いた声で私は尋ねた。
「……仕事を、探していて……」
言葉を選ぶかのように、青年は震える声でこう続けた。
「でも、この辺りに仕事がなくて……。知らない間に、つけられていて……それでっ……すみません……」
言葉の途中で、静かにその涙がこぼれ落ちる。
私は無意識のうちに、その涙を指で拭っていた。
拒まれるかと思ったが、青年は抵抗するようなことはしなかった。
「……もう、大丈夫だ」
呼吸が整うのを待ちながら、私は静かにその姿を見つめていた。
衣服はありきたりな庶民のもの、そして骨と皮だけのその腕。頬はひどく痩せこけ、表情も乏しくあった。
しかしその瞳だけは、やけに美しい光のようなものを宿していた。
潤む涙のせいであるのか、青年が元から持つものなのかはわからなかった。
「本当に、ありがとうございます。では、俺はこれで……」
青年が踵を返そうとした、その瞬間。
「待ってくれ」
声が、自然と出ていた。
この青年を引き止めて、何になる。
そうは思いながらも、私は確かめられずにはいられなかった。
どうかこの青年がハルであることを祈りながら、私は静かに言葉を続けた。
「セラという名に、聞き覚えは?」
その言葉に、びくりと背が揺れていた。
「……それは私のことだ。本名を、セラスティンという」
「……セラ……?」
青年は振り返り、まるで信じられないものでも見るかのように、その目を大きく開けて私のことを見つめていた。
「ハル、で……。間違いないだろうか……」
一瞬、安堵の笑みが浮かんだような気がした。
しかし次の瞬間には、血の気を失ったような顔で静かに首を横に振る。
「……いいえ。違います……」
その否定は、あまりにも弱々しいものでもあった。
かすかな光を宿したその瞳が、ひどく揺れていた。
「私は、ハルという名の青年を探している。あらゆる力を使って調べ尽くしたが、そのような名の青年はどこにも存在しなかった……」
私は、静かに言葉を重ねていく。
「ハルは祖父のハンスと、二人で暮らしていたそうだ。……君のことで、間違いはないか?」
次第に、青年の目からは大粒の涙が溢れていた。
静かに鼻をすすりながら、その目を逸らすかのようにうつむいた。
気づけば私は、その身をこの腕に強く抱きしめていた。
拒まれることも構わず、細い背を静かに撫でていた。
「……っ、……」
ハルは、ただ静かに涙を流していた。
その姿があまりにも脆く、あまりにも愛おしいものであるかのように思えてしまい。
私は彼の髪を撫でながら、震える声で囁いた。
「……やっと、会えたな。ハル」
ハルは、ただ泣いていた。
その涙さえも美しいと思ってしまったこの心を、もう否定することなどできはしなかった。
文字から始まったこの想いは、いま確かに、この腕の中にあったのだ。




