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異世界転移をした俺は文通相手の家にお世話になることになりました  作者: 陽花紫


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ハンスの死

 ある日、ハンスが亡くなった。

 それはあまりにも静かで、拍子抜けするほどでもあった。


 朝になっても、その日ハンスは起きてこなかった。

 いつもなら、多少遅くとも咳払いの音や寝台のきしむ気配がしていた。

 その日は、それが一切なかった。

 嫌な予感がして、俺はハンスの部屋の扉を叩いていた。

 もちろん返事はなくて、勢いよく扉を開けるとそこには、穏やかな顔をしたハンスが眠っていた。

「……ハンス?」

 声をかけてみても、瞼が開くことはなかった。

 その頬に触れれば、熱を失ったかのようにひどく冷たくもあったんだ。


「……お疲れ様、ハンス。これまでありがとう」


 事前に準備をしていた通りに、すぐさま医者の先生を呼んでその確認をしてもらった。

 老衰だと言われた。

 苦しんだ様子もなくて、眠るように逝ったのだと。


 それから先のことは、正直よく覚えていない。

 俺と神父様だけが教会で小さな祈りを捧げて、気付けば、誰もいないがらんとした家に戻っていたのだから。

 どのように帰ったのかも、その記憶も何もなかった。


 ハンスのいない家は、怖いくらいに静まり返っていた。

 何も音がなかった。

 静かな息遣いも、咳の音も、ゆったりとしたあの足音さえも。

 俺は、何もかもを失ってしまったんだ。


***


 どれほどの日が過ぎたのか、もはやそれさえもわからない。

 朝がきて夜がきて、それを何度か繰り返したはずであるというのに。

 時間の感覚が、すっかりなくなってしまっていた。


 ハンスがいなくなっても、この世界はいつも通りに回っていた。

 鳥は鳴き街はざわめき、人々は笑って暮らして働いて、楽しげに食事をしていた。


 そのことが、ひどく残酷であるかのように思えていた。

 いつもの癖で、今日もくたくたに煮た野菜のスープを作ってしまっていた。鍋いっぱいに。

 それを前にして俺は一人、静かに涙を流していた。

 もう、これを食べてくれる人はいないのに。

 それでも、悲しみだけでは済まされないこの現実は容赦なく押し寄せてきていた。


 不安で、どうにかなりそうだった。


 貯金は、確実に減っていく。

 ハンスが亡くなってしばらくは、心配した近所の人たちが料理や食材を分けてくれていた。

 パンや芋、干し肉なんかが籠一杯に入れられていた。

 それをありがたく受け取って、俺は深く頭を下げていた。


 けれど、それもいつまでも続くものではなかった。

 家の棚は、目に見えて空になっていた。


 今の俺の知識では、まだ仕事に就くことさえもできずにいた。

 一通り、読み書きは覚えていた。簡単な計算も少しはできる。

 それでもこのレベルでは、この国で働けると言えるほどではなかったんだ。


 そしてそれ以上に、これからどう生きていけばいいのかがわからなかった。


「ハンス、……」


 その名前を呼んでも、いつものように返ってくる声もなかった。


***


 ある日、気づけば俺は、ふらふらと街を歩いていた。

 周囲にはたくさんの人がいるのに、なぜだか自分だけが世界に一人ぼっちであるかのような気がしてならない。

 噴水のある広場。

 その端の木の椅子に腰を下ろして、行き交う人々をぼんやりと眺めていた。

 家族連れに、恋人同士。

 気さくに笑みを交わすあの二人は、友人同士だろうか。

 誰もが誰かと並んで歩いている。


 そのときふと、俺は大切なことに気付く。

「セラに、返事を書いていない……」

 ハンスが亡くなってから、何週もの日にちが過ぎていた。

 心臓が、どくんと強く音を立てる。

「……しまった!」

 慌てて立ち上がり、俺は預かり所へと走り出していた。


 息を切らしながら、受付で名前を告げる。

 そして差し出されたのは、三通の分厚い封筒だった。

 封筒には丁寧に日にちまで書き添えられていた。

 なぜだか嫌な予感がして、手が震えた。


 家に戻ると机の上にそれらを並べて、深く息を吸ってから封を切った。


 まずは一通目。

 いつも通りの返事があった。

 穏やかで優しくて、相変わらず俺を気遣うような言葉が綴られていた。

 次に二通目。

 俺から返事がないことについての、不安と心配が書かれていた。

 体調でも崩しているのではないのかと、事故に遭ってはいないかという予想もあった。

 最期に三通目。

 これまでの長いやり取りへの謝罪と、それでも返事がないことへの焦りと怒りが書かれていた。

 文通を続けないにしても、せめて返事だけは欲しいと。

 セラにしては珍しく、走り書きのような文字で書かれていた。

 胸が、ひどく締めつけられる。

 俺はセラのことを傷つけてしまっていた。


 慌てて便箋を手に取り、ペン先をインクにつけていた。

 ハンスが亡くなったこと、忙しかったこと。

「いや、……まずは謝罪からか?いや違うな、まずは挨拶から……」

 頭が、うまく回らない。


 今となっては、このがさついた便箋一枚でさえ俺にとっては貴重なものでもあった。

 決して書き損じるわけにはいかない。

 文体が崩れるのも構わずに、俺はただ、素直に思いの丈を綴っていた。

 返事ができなかったことへの、心からの謝罪。

 セラとの文通は、これからも続けたいという気持ち。けれど今は、その余裕がないことを。

 貯金が底を尽き食べるものもなく、仕事も見つからずに、毎日が不安ばかりだということも。

 書き終えてから、余計なことまで書いてしまったような気がしていた。

 けれど、もう書き直す気力もなかった。

 いつものように糊をつけて、俺はまた預かり所へと走っていた。


「お願いします!」

 思わず、声が荒くなる。

 俺の気迫に圧倒されたのか、受付のおじさんは目を丸くしながらも手紙を受け取ってくれていた。

 確かに引き出しにしまわれるのを見届けてから、俺は再び街へと走り出した。


 今はただ、一刻も早く仕事を探したかった。

 この世界どこかに、こんな俺でも働ける場所はないのかと。

 掃除でも、荷物運びでも、なんでもいい。

 けれど、どこも人手は足りていた。

「今は間に合っている」

「募集はしていない」

 断られるたびに、心が折れていく。


 夕暮れの街をとぼとぼと歩いていると、どこからか甘い匂いが鼻をくすぐった。

 焼き菓子だ。かつて一度だけ食べたことのある、あの味。ふわふわで甘くて、とても幸せだったあの記憶。

 匂いのするほうを見れば、家族連れが楽しそうに分け合って食べていた。

 泣きそうになるのを必死に堪えて、俺は視線を逸らして静かに家へと帰っていた。


 扉を閉めて、灯りをつける。

 それでもわずかに暗く、やけに静まり返った部屋。


 食事もとる気にもならなくて、俺は床に座り込んで膝を抱えていた。

 セラは、どう思うのだろうか。

 俺のあの手紙を読んで。

 重いと思っただろうか、迷惑だと思っただろうか。

 それでも、返事を書かずにはいられなかった。

 この世界でセラだけが、今の俺に繋がっている唯一の糸でもあるのだから。


 その夜、俺は何度もセラの文字を思い浮かべながら、浅い眠りについていた。

 次の返事が届くことを祈るような気持ちで。


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