漠然とした不安
半年ほどが過ぎた、ある日のことだった。
いつものように預かり所へと向かい、俺は白い封筒を受け取っていた。
それだけの動作であるというのに、胸の奥がそわそわと落ち着かない。
家に帰るまで待てなくて、思わず歩きながら封を切ってしまっていた。
中には、いつもと変わらない整った文字が並んでいた。
「……ほんとに、綺麗だなあ……」
思わずそう、独りごちる。
ハンスが書く文字も、老人らしく渋みのある骨太な力強さを持っていた。
けれどセラの文字は、それとはまるで違っていた。
繊細で、丁寧で。まるで一文字一文字に息を吹き込んでいるかのような。
跳ねるところは気持ちよく跳ねて、払うべきところは潔く払われ、止めるところはきちんと止まっていた。
まるでお手本のようでいて、それでもどこか人の温もりが残るような字。
『季節の変わり目であるが、体調など崩してはいないだろうか』
そのほかには、相変わらず仕事が忙しいこと。
それでも俺の手紙を読めば、不思議と元気が出るのだということが書かれていた。
その言葉に、自然と頬が緩んでいた。
「俺も、……」
誰に聞かせるでもなく、そう小さく呟いた。
返事を書くべく、机に向かう。
便箋を前に、しばらくペンを持ったまま俺は考え込んでいた。
ふと、セラの手によって書かれた自分の名前に目が留まる。
封筒に記された“ハル”という二文字。
いつでもセラの手によって、迷いなくまっすぐにそれは書かれていた。
それだけで、胸の奥が温かくなる。
けれど俺は、腕を組んで考える。
「うーん……。最近、これといったことがないんだよなあ……」
ハンスの体調は、相変わらずだった。
良い日もあれば、悪い日もある。
家の手伝いもそこそこで、街へ買い出しに行っても手紙に書けるような特別な出来事はなかった。
これまでの日々を思い出していると、ふいに、ある光景が頭に浮かぶ。
「あっ……」
それは確か、週のはじめの出来事。
街を歩いていた時に強い風が吹きつけて、ある女性のハンカチが宙を舞っていた。
俺は反射的に手を伸ばしてそれを掴んで、女性を追いかけて渡していた。するとその女性はひどく驚いたような顔をして、それから品よく笑ってお礼を言った。
どうぞと、さも当たり前であるかのように金貨を一枚差し出されて、俺は慌てて断った。そうしたら、代わりにとあるお菓子をくれたんだ。それは高級な焼き菓子だそうで、こんな俺には勿体ないくらい、ふわふわで軽くて。袋を開けた瞬間に、蜜のような甘い香りが広がった。
表面のざらりとした砂糖の感触も楽しくて、俺はこの世界にこんなに美味しいものがあるんだと驚いていた。
実は甘いものが大好きな俺は、少しずつちまちまと、何日かに分けて大事に大事に食べたんだ。
そこまで書いて、ペンを置く。
セラは、この話を読んでどう思うのだろうか。
貧乏人がと、呆れてしまうのだろうか。それとも、くすりと笑ってくれるのだろうか。
そのようなことを想像しながら、俺は静かに封をした。
***
書き終えた手紙を預かり所に届けて家に戻ると、ひどく苦しそうな咳の音が響いていた。
「ハンス!大丈夫?」
慌てて音がしたほうへ駆け寄れば、ハンスが胸を押さえながら弱々しく笑っていた。
「ああ、なに……。いつものことだ……」
そう言うものの、顔色はいつもより明らかに悪かった。
「薬は飲んだの?」
「ああ、ついさっき……」
「ご飯を食べたらすぐ飲むようにって、医者の先生も言ってただろう?」
「はて、そうだったか……」
ハンスは眉をひそめて、申し訳なさそうに俺のことを見つめていた。
「……ハル、すまないな」
「ううん。俺が、悪かったよ……。今度からは、すぐに教えるからさ」
「ありがとう、助かるよ」
最近、ハンスの物忘れがひどくなってきていた。
同じことを何度も尋ねてきたり、ついさっき話したことでさえ忘れていたり。
どうにかしてあげたい。
そう思って医者の先生に相談しても、年相応のことであるとまともに取り合ってもらえなかった。
慣れないこの世界で、老いたハンスの世話をするのは正直そこまで楽ではなかった。
噛む力も弱くなって、最近は食材をくたくたになるまで煮込むことが増えていた。それでもちゃんと食べてくれたような日は、少しだけ安心することができていた。
ハンスには、大きな恩がある。
だから俺は、日本で祖父にしていた時と同じように、できる限りの世話を焼いていた。
祖父は、ハンスよりもずっと早く亡くなった。けれどその老いは、ハンスよりも深く進んでいた。
「すまない。ハル」
「大丈夫だよ、ハンス」
ハンスの寝具を整えながら、できるだけ明るくそう言った。
「さあ、もう寝よう?明日も、いい日がきますように」
「ああ……。いい日が、くるといいな」
そう呟いて、ハンスは静かに目を閉じた。
「おやすみ」
「おやすみ、ハンス」
自分の部屋に戻って、静かに扉を閉める。
その瞬間、張りつめていたものが切れたかのように、深いため息が漏れていた。
俺の予想では、ハンスはもう長くはない。
考えたくはないけれど、いつか必ずその日は来てしまう。
その時、俺は一体どうすればいいのだろう。
だから最近、仕事に就くための勉強を始めていた。
何から手をつけていいかわからないまま、書店に寄って子供向けの教材をいくつか買っていた。
資金は、ハンスが毎月自由に使っていいと言ってくれたお金。
それを少しずつ貯めて、ようやく手に入れたものでもあったんだ。
机の上に積まれた教材を眺めながらも、今日はもう、何もするような気にはなれなかった。
少しは馴染んできたものの、まだまだこの世界は俺の知らないことばかりでもあった。
将来の不安と、一人になることへの寂しさ。
この気持ちを、誰かに話したい。
でも、打ち明けることはできずにいた。
もちろん手紙にも、このようなことは書けやしなかった。セラに心配をかけたくはなかったから。
次の手紙が届く日を思い浮かべながら、俺は静かに目を閉じた。




