第五話 トラヴィスの街へ
幾日も森や丘陵を歩き続けた末、カイルとレオンの目の前に、ようやく人の営みの気配が大きく広がった。
視界を遮っていた木々の切れ間から見えたのは、石造りの城壁と、その上に並ぶ尖塔や赤茶けた屋根の群れ。城壁の向こうからは、朝日を浴びた屋根瓦が赤茶にきらめき、無数の煙突から立ち上る白い煙が、まるで町の息吹のように空へと伸びていた。
「……すごい、本当に街だ」
思わず息を呑むカイル。今まで村を出てから、野営や小さな集落しか目にしていなかった。その規模に圧倒されながら、胸の奥がざわざわと落ち着かない。期待と不安がないまぜになった感情が、言葉にならずに喉で渦を巻いていた。
「ここが〈トラヴィスの街〉だ。北の街道を押さえる要衝で、人も物も集まる。冒険者にとっては稼ぎやすい街だな」
レオンは慣れた調子で言いながら、歩調を少し早める。巨大な木の門をくぐった瞬間、世界が一変した。賑わいの波が一気に押し寄せてくる。荷車を引く馬のいななき、商人たちのけたたましい呼び声、道端で遊ぶ子供の弾けるような笑い声、そして、焼きたてのパンと肉を焼く香ばしい匂い――すべてが、村育ちのカイルには目に映るもの、耳にするもの、鼻に感じるものすべてが、あまりにも鮮やかすぎた。
「わ、わあ……人が多すぎて、どこを見ればいいのか分からない」
「すぐ慣れるさ。だが、人混みで財布を掏られるなよ」
レオンが軽く釘を刺す。カイルは慌てて腰の袋を押さえた。
道の両側には、木造や石造りの様々な店が軒を連ねている。武器屋からは、鍛冶師が鉄を叩く甲高い音が響き、薬草屋からは、甘い薬草の匂いが漂ってくる。行き交う人々は皆、活気に満ちていて、その熱気にカイルは圧倒された。
街の中心部へ進むと、ひときわ目立つ建物が視界に入った。重厚な石造りの壁に、分厚い木の扉。二階にまで届く大きな窓からは、楽しそうな笑い声と軽快な音楽が漏れ、出入りする人影は屈強な戦士や軽装の弓手、ローブを羽織った魔道士らしき者までさまざまだ。看板には大きな紋章が刻まれている。
――剣と杯を交差させた印。それが〈冒険者組合〉の象徴だった。
「ここが組合か……」
カイルは胸の鼓動を全身で感じながら、重い扉を押す。
中は想像以上に賑やかだった。正面には磨き上げられた長い木製のカウンターが設けられ、その奥では酒を酌み交わす冒険者たちの喧騒が響く。肉料理の香ばしい匂いと、エール酒のほのかな香りが混ざり合って、独特な活気を生み出していた。壁には依頼書がずらりと貼り出されており、そこから人々が依頼書を抜き取り、談笑しながら席へ戻っていく。まさに酒場と事務所が一体化した空間だった。
「落ち着け。まずは窓口だ」
レオンに促され、カイルはカウンターに並ぶ。前に立っていたのは、快活そうな赤毛の女性職員だった。
「いらっしゃい、新顔さんね。登録の用件? それとも持ち込み?」
「持ち込みだ。森狼の毛皮と牙をいくつか」
レオンが手際よく荷をほどき、包んでいたウルフの素材を差し出す。
女性は慣れた手つきでそれらを確認していく。牙を一本ずつ手に取り、光に透かして欠けや汚れを調べ、毛皮の大きさや状態を比べる。
「ふむ、ちょっと痩せてた個体みたいね。肉付きが悪かったでしょう? 毛皮は悪くないけど、牙は小さめかな」
「ええ……肉は、ほとんど取れませんでした」
カイルが思わず答えると、女性はくすりと笑った。
「食べてみたの? 初めてなら、ちょっと獣臭さに驚いたんじゃない?」
「はい……正直、あまりおいしくは……」
顔をしかめるカイル。横でレオンは肩をすくめている。査定を終えた女性が、カウンター越しに小袋を差し出した。
「これが換金分よ。毛皮二枚と牙五本で――銀貨三枚。悪くない額だと思うわ。組合に登録しておけば、これから依頼の受注や換金もスムーズになるから、後で案内するわね」
「銀貨三枚……!」
カイルの手の中で、初めての大金が鈍く光った。村でなら一ヶ月は暮らせる額。胸の奥が熱くなると同時に、重みをどう受け止めていいか分からなかった。
「これで、俺も……ちゃんと生きていけるんだろうか」
小さく呟いた声を、喧噪がさらっていった。
「浮かれるのはまだ早いぞ。これからだ」
レオンの低い声に我へ返る。カイルは深くうなずいた。銀貨の入った小袋を手にしたカイルがまだ余韻に浸っていると、赤毛の受付嬢がにこやかに言った。
「さて、お二人とも登録はまだなのよね? せっかくだから、いま済ませてしまいましょう。時間はかからないわ」
レオンが頷き、カイルの背を軽く押す。
「そうだな。俺も再登録が必要だ。……いいな、カイル。冒険者として正式に認められるってことだ」
「う、うん……!」
案内された先はカウンター横の小部屋だった。喧噪から少し離れ、木の机と椅子が整然と並ぶ、事務的な空間だ。
受付嬢は机の上に二枚の羊皮紙を広げた。
「これが登録票です。名前、年齢、出身地、それから得意な武器や技を記入してください。読み書きが難しければ、口頭でも大丈夫」
「俺は書ける。……ただ、もう一度登録って形になるな」
レオンが手早く筆を走らせると、彼女は小さく目を丸くした。
「レオンさん……? もしかして、以前に西方支部で活動していた“蒼鷲のレオン”ですか?」
「……ああ。しばらく田舎に引っ込んでたが、また戻ることにした」
レオンは照れ隠しのように髭を撫でる。
「まぁ! 噂は聞いたことがあります。腕利きの剣士が戻ってきてくれるなんて、心強いですわ」
受付嬢がぱっと笑みを浮かべ、カイルの方へ視線を向けた。
「では次は君ね。初めてかしら?」
「は、はい。カイルといいます。村から出てきて……まだ、右も左も分からなくて」
震える手で筆を持ち、ぎこちなく名前を書き入れるカイル。受付嬢はその様子を温かく見守りながら、説明を続ける。
「冒険者登録は、身分証明を兼ねます。これがあれば街の門を通るのも楽になりますし、組合で依頼を受けたり、素材を売ったりする権利が得られます。もちろん、危険な依頼を受ける責任も伴いますけれどね」
説明の合間に、羊皮紙の端へ指で示す。そこには「階位」という欄があった。
「最初は皆〈銅等級〉からのスタートです。依頼をこなして評価が上がれば、銀、金と上がっていきます。等級が高ければ高いほど、大きな依頼も任されますよ」
「……つまり、ちゃんと実績を積めば、一人前と認められるってことだな」
カイルは胸の奥に熱を感じながら呟いた。
最後に受付嬢が小箱を取り出す。中には金属で作られた小さな札が並んでいた。
「これが冒険者証です。名前と等級が刻まれていて、携帯必須。なくしたら再発行には銀貨がかかりますから、気をつけてくださいね」
差し出された札を両手で受け取り、カイルはじっと見つめる。そこには自分の名前と「銅等級」と刻まれていた。
「これが……俺の、冒険者証……」
胸が高鳴り、同時に背筋が少し伸びる。村の少年だった自分が、いまこうして冒険者として世に名を刻んだのだ。
レオンは隣で、懐かしそうに自分の札を指先で弄んでいた。
「さあ、これで晴れて俺たち二人とも正式な冒険者だ。まずは街に慣れて、それから依頼を選ぶとしよう」
「はい!」
力強く答えたカイルの声は、もう少し大人びた響きを帯びていた。