第四話 森の中
日が西の山へと沈みかけ、あたり一帯が茜色に染まっていた。旅に出て三日目。舗装もされていない土の道をひたすら歩き続け、レオンとカイルはようやく今夜の野宿に適した小高い丘を見つけた。近くには小川が流れており、飲み水の心配もない。
「ふぅ……ようやく休める」
カイルは背に背負った荷を下ろし、草の上にへたり込んだ。額には汗がにじみ、息も少し荒い。
そんな少年を横目に、レオンは黙々と野宿の支度を始める。落ちている枝を拾い、火を起こす準備をし、風よけになる石を組む。その一連の動作には長年の経験からくる無駄のなさがあった。
「……カイル。火打石は持っているか」
「え? あ、あります!」
慌てて荷の中を探り、袋から取り出す。だが、いざ火をつけようとすると、思うように火花が出ない。何度も石を打ち合わせるが、ぱちぱちと小さな火花が散るだけで、枯れ草には火がつかない。
「くっ……なかなか、難しいな……」
額に皺を寄せ、必死に挑戦するカイルを、レオンは少し離れて腕を組みながら眺めていた。
「……火は生き物だ。焦って近づけば逃げる」
短くそう言うと、レオンはしゃがみ込み、カイルの手から火打石を受け取る。枯れ草を指先でほぐし、空気が入りやすいように形を整えると、ほんの数度石を打っただけで、小さな炎がぱっと生まれた。
「……っ!」
カイルは思わず息を呑む。
「こうしてやれば、素直についてくれる」
そう言って火を枝に移し、やがてぱちぱちと心地よい音を立てる焚き火ができあがった。火の温かさに包まれ、カイルは自然と肩の力が抜けた。
「すごい……俺、さっきまで全然駄目だったのに」
「慣れだ。やがて手が勝手に覚えるようになる」
レオンはぶっきらぼうに言いながらも、炎の明かりに照らされた横顔はどこか穏やかだった。
焚き火の赤い光が、二人の顔をやわらかく照らしていた。レオンは腰を下ろし、携えていた革袋から乾燥させた「オルンの根菜」を取り出す。
オルンの根菜は、土の下に膨らんだ塊を作る植物だ。見た目はごつごつしているが、焼けば皮の下からほくほくとした白い実が顔を出し、ほんのり甘みがある。旅人にとっては腹を満たす頼もしい保存食であり、どの村でも畑の隅に植えられている庶民の味だった。レオンはオルンの根菜を軽く洗うと、そのまま焚き火の灰の中に転がした。じりじりと熱せられるうちに、皮の焦げる匂いが漂い始め、やがて甘く香ばしい香りが鼻をくすぐった。
「……いい匂いだ」
カイルの目が輝いた。
「旅人にとっちゃ定番の食いもんだ。焼けば腹にたまるし、持ち歩いても腐りにくい。」
レオンは口角を上げて、焚き火に小さな束を投げ込む。
「スモークハーブだ。虫や魔物が寄ってこなくなる」
束ねたスモークハーブは、火にくべると甘く清涼な香りを立て、白い煙を生む。その煙は虫や魔物を遠ざける効果があり、野宿の必需品として旅人に重宝されている。
「へえ……便利だなあ」
カイルは感心したように煙を見上げる。
そのとき、遠くの森の奥から「アオォン……」と低い遠吠えが響いた。
カイルの背筋がぴんと伸びる。
「ウルフ……?」
レオンは表情を曇らせ、火にかけた根菜を一度転がす。
「そうだ。大体の森に生息している魔物だな」
「大丈夫なんですか?」
「スモークハーブの葉も焚いてるし大丈夫だ。よっぽどの事がない限り近づいてこないだろうさ。だが、警戒するに越したことはないぞ」
焚き火の光の向こうに見えない闇が広がっている。カイルは唾を飲み込み、そっと剣の柄に手を伸ばした。
レオンはそれを見て、かすかに笑う。
「いい心がけだ。」
――バキッ。
枝を踏み折る乾いた音が、焚き火の明かりが届かぬ闇の中から響いた。カイルは思わず振り返る。
闇の帳を裂くように、二つの光が浮かび上がった。黄色くぎらつく眼光だった。炎に照らされて現れたのは、一頭のウルフ。
毛並みはところどころ抜け落ち、痩せ細った肋骨が浮き出ている。普通の群れにいるウルフとは違い、みすぼらしく、しかし瞳には狂気のような光が宿っていた。
「……来やがったか」
レオンが低く呟き、腰を上げる。
ウルフは喉の奥からうなり声を洩らし、焚き火の熱をものともせず一歩、また一歩と近づいてきた。カイルはごくりと唾を飲み込み、剣の柄を握りしめる。
次の瞬間、灰色の影が地を蹴った。
「ガルルァッ!」
飛びかかろうとしたその動きよりも早く、レオンの剣が閃く。
鋭い音と共に、ウルフは地面へと崩れ落ちた。か細い息を吐き、痙攣しながらやがて動かなくなる。
カイルは目を見開いたまま立ち尽くす。
「……一撃、で……」
レオンは剣先を払って返り血を落とし、静かに死骸を見下ろした。
「やはりな。痩せ細っている。群れからはぐれた“落伍ウルフ”だろう」
「落伍ウルフ……」
「ああ。群れを追われたか、ついていけなくなったか……どちらにせよ、満足に狩りもできず、こうして人間の焚き火にすら寄ってきちまう。飢えていたんだろう」
レオンの声は淡々としていたが、どこか哀れむ響きがあった。レオンは短剣を抜き、倒れたウルフの腹を確かめるように押した。指先に伝わる感触は骨ばかりで、まともな肉付きではない。
「やはり痩せすぎているな……。肉はほとんど取れん」
彼は淡々と告げ、首元に刃を滑らせて牙を二本引き抜いた。小袋に収めながら、付け加える。
「普通のウルフなら肉も食える。臭みはあるが、焚き火でじっくり炙れば悪くない。皮も厚いから防具の素材になるんだがな」
カイルは目を瞬かせた。
「……魔物の肉を、食べるんですか?」
「当たり前だ。腹を満たすもので選り好みできる旅は少ない」
レオンの声音は冷ややかというより、ただ現実を言っているだけだった。
カイルは倒れたウルフの体を見下ろした。毛並みは荒れ、あばら骨が浮き上がり、命を落とす寸前の姿だったのだろう。胸の奥が少し重くなる。
「……この子も、お腹が減っていたのかな」
つぶやいた声に、レオンは短く答えた。
「そうだろうな。群れから追い出され、飢え、最後は剣に倒れた」
そこで一度、言葉を切り、牙を抜いたあとの口元を布で拭いながら続けた。
「だが、そうして死んだ肉も皮も、誰かの糧になる。俺たちが食べてもいいし、鳥や獣が喰らう。無駄にはならん」
カイルは小さく唾を飲み込んだ。まだ生温かさの残る死体から目をそらしたい気持ちと、しっかり見届けたい気持ちが胸の中でせめぎ合う。それは、昨日までの村での暮らしとは全く違う、旅の厳しくも残酷な現実だった。守りたいと願う故郷も、このウルフが命を落としたような、弱肉強食の世界の上に成り立っている。カイルは胸の奥が重くなるのを感じ、思わず焚き火の中を見つめた。
やがて、レオンが立ち上がり、短く言った。
「皮と牙は街で売る。他は……これは使い物にならんな。置いていくぞ」
その声音に迷いはなく、カイルはただ頷くしかなかった。カイルは胸の奥が重くなるのを感じ、思わず焚き火の中を見つめた。
ぱちり、と木が爆ぜる音が、夜の森に染み渡った。