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第三十九話 癒しの響き

 北方廃墟での死闘から、三週間が過ぎた。


 世界は、ゆっくりと冬の支度を始めていた。トラヴィスの街の空は高く澄み渡り、朝晩の空気は、肌を刺すほどに冷たい。人々は厚手の上着を羽織り、家々の煙突からは、一日中、白い煙が細く立ち上っていた。


 嵐は、過ぎ去ったのだ。あの黒い瘴気も、土地を蝕む呪いも、今はもうない。街は、いつもの、少しだけせわしない、穏やかな日常を取り戻していた。


 カイルの傷は、若さもあって、とうに癒えていた。彼の日常は、規則正しく、そして、満ち足りていた。


 夜明け前、まだ街が深い眠りについている時間に起き出し、白鹿亭の裏庭で一人、木剣を振るう。それはもう、誰かに強いられるためのものではない。彼自身の内なる声に従って、己を磨くための、静かな対話の時間だった。


 日が昇れば、白鹿亭の手伝いをした。薪を割り、ベルトルドの市場への買い出しに付き合う。厨房では、エイダに教わりながら、不格好な手つきで野菜の皮を剥いた。


「おや、坊や。こりゃあ、剣を握るより様になってないじゃないか」


 エイダのからかうような声と、ベルトルドの「……邪魔だ」というぶっきらぼうな言葉。その全てが、今のカイルには、心地よい音楽のように聞こえていた。


 戦いの記憶は、まだ生々しく彼の心に残っている。だが、この温かい日常が、その傷を、少しずつ、しかし確実に癒してくれていた。


 一方、レオンの時間は、止まっていた。


 彼の左足の傷は、思った以上に深く、まだ完治には至っていなかった。医者からは、しばらくは絶対安静だと、固く釘を刺されている。


 彼は、白鹿亭の一室で、ほとんどの時間を、窓辺に置かれた古い肘掛け椅子に座って過ごしていた。そこが、彼の新しい定位置になった。


 彼は、本を読んでいるか、あるいは、ただ黙々と、膝に置いた愛剣の手入れをしていた。その横顔からは、何の感情も読み取ることはできない。だが、時折、窓の外で木剣を振るうカイルの姿を、その瞳が、ひどく複雑な色を宿して、じっと見つめていることがあった。


 戦えないことへの、苛立ち。思うように動かない、老いた自分の体への、もどかしさ。その全てを、彼は、沈黙という名の分厚い鎧の下に、押し隠していた。


 その日の午後、カイルは、宿屋の部屋の片隅で、床の掃き掃除をしていた。


 ふと、彼の視線が、窓辺に置かれた一つの鉢植えに留まった。それは、エイダが客の目を楽しませるために飾っている、名も知らぬ薬草の鉢だった。だが、ここ数日の冷え込みのせいか、あるいは、誰かが水をやり忘れたのか、その葉は元気を失い、黄色く変色して、力なく垂れ下がっている。


 その、萎れた葉を見た、瞬間だった。カイルの脳裏に、あの光景が、鮮明に蘇った。北方廃墟の、折れた塔の頂。機能を停止した、禍々しい装置の残骸。そして、その瓦礫の隙間から、朝日に照らされて、奇跡のように芽吹いた、一本の、小さな若葉。


(……あの時、俺の力は……)


 破壊や、感知だけではない。


 自分のこの力が、生命そのものに、何らかの影響を与えることができるのではないか。その可能性は、帰還してからの穏やかな日々の中で、彼の心の片隅に、ずっと小さな棘のように引っかかっていた。


 カイルは、周囲に誰もいないことを確かめると、そっと、その鉢植えの前に屈み込んだ。そして、おそるおそる、萎れた葉に、指先を触れさせた。


「静寂の心」


 彼は、意識を集中させ、植物の、そのか細い生命の“響き”に、耳を澄ませた。


 ――感じる。


 ひどく弱々しい、渇いた“響き”。それは、「水が欲しい」という、言葉にならない、純粋な渇望の信号だった。


 カイルは、さらに深く同調しようと試みた。廃墟で若葉を芽吹かせた時のように、自分の内なる力を、この植物に分け与えることはできないだろうか。


 だが、どうすればいいのか、全く分からない。彼はただ、念じることしかできなかった。(元気になれ)と。


 しかし、何も起こらなかった。植物の葉は、垂れ下がったまま、ぴくりとも動かない。彼の“感覚”が捉えるのは、ただ、その弱々しい“渇き”の響きだけだった。


(……ダメか)


 カイルは、ため息をつき、手を離した。やはり、あの時の奇跡は、ただの偶然だったのだろうか。彼は、自分の無力さに、小さく肩を落とした。


 このままでは、駄目だ。何か、ヒントが必要だ。カイルは、立ち上がった。彼の足は、自然と、一つの場所へと向かっていた。この街で、自分と同じように、奇妙で、忘れ去られた知識を追い求める、唯一の人物。


 賢者エリアスの、あの埃っぽい書庫へ。



 賢者の書庫の扉を開けると、いつものように、古い紙とインクの匂いがカイルを迎えた。エリアスは、カウンターの奥で、巨大な天球儀のような機械を、熱心に磨いているところだった。


「ほう、坊主か。師匠はどうした。まだ足を引きずっておるのか」


「はい。まだ、安静に、と」


「ふん。あの男が、素直に安静にしているとは思えんがな」


 エリアスはそう言うと、カイルの深刻な顔つきに気づき、片眼鏡の奥の目を細めた。


「……して、今日は何の用だ。また厄介なものでも見つけたか?」


 カイルは、北方廃墟で起こった、あの若葉の奇跡について、詳しく話した。自分が装置の残骸に触れた時、そこから小さな芽が生えたこと。そして、先ほど、宿屋の枯れかけた薬草に触れても、何も起こらなかったこと。


「俺の力は、一体何なんでしょうか。ただの偶然だったんでしょうか」


 その問いに、エリアスは天球儀を磨く手を止め、深く、深く、考え込んだ。彼は書庫の奥へと消え、しばらくの間、本を漁る音だけが響いていたが、やがて、一冊の、ひどく古びた書物を手に戻ってきた。


「……やはり、わしの仮説は間違っていなかったのかもしれん」


 エリアスは、興奮を隠しきれない様子で言った。


「この本によれば、“心音継ぎ”は、ただ心の声を聞くだけの存在ではなかったらしい」


 彼は、ある一節を指さした。


「『彼らは、生命の“調律者”でもあった』、とある」


「調律者……?」


「そうだ。考えてみろ、坊主。お前さんは、あの枯れかけた薬草に、自分の力を無理やり『与えよう』とはしなかったか? 元気になれ、と」


 カイルは、はっとした。まさに、その通りだった。


「だが、それは間違いだ。どんな生命も、他者から無理やり与えられた力で、真に癒えることはない」


 エリアスは、カイルの目を真っ直ぐに見据えた。


「この本によれば、彼らは、力を与えるのではない。ただ、相手の生命の“響き”に、深く、深く、耳を澄ます。そして、その乱れた調律――渇き、痛み、病――を、正常な状態へと、そっと導く“手助け”をするだけなのだ。弦が緩んだ楽器の音を、正しい音へと調律するように」


 その言葉は、カイルの心に、まるで天啓のように響いた。与えるのではない。導くのだ。


 彼は、エリアスに深々と頭を下げると、書庫を飛び出した。早く、試してみたかった。


 ⸻


 白鹿亭に戻り、カイルは再び、あの萎れた鉢植えの前に、静かに座った。


 今度は、もう、焦らない。彼は、目を閉じ、「静寂の心」を発動させた。そして、その意識の全てを、目の前の、小さな、か細い生命へと傾ける。


(……聞こえる)

 薬草の、弱々しい“響き”。水が足りない、という渇望。葉先まで、生命の力が届かない、という悲鳴。


 彼は、無理に力を与えようとはしなかった。ただ、その苦しみに、深く、深く、同調していく。まるで、自分が、この植物そのものになったかのように。


 すると、彼の身に、奇妙な変化が起こり始めた。喉が、焼けるように渇く。まるで、何日も水を飲んでいないかのような、耐え難い渇き。


 そして、全身から、ゆっくりと熱が奪われていく。指先から、血の気が引き、冷たくなっていくのがわかった。ひどい倦怠感。


 これが、この植物が感じている、苦しみ。エリアスの言っていた通りだった。この力は、精神だけでなく、肉体にも、大きな負担をかける。他者の苦しみを知るということは、その苦しみを、自らもまた引き受けるということなのだ。


 だが、カイルは、意識を逸らさなかった。彼は、その苦しみを受け入れた上で、自分の内にある、健康で、正常な生命の“響き”を、静かに、そして優しく、植物の乱れた“響き”に、重ね合わせていった。


 それは、まるで、音程のずれた弦を、正しい音を知るもう一本の弦の隣で鳴らし、共鳴させることで、正しい音へと導いていくような、ひどく繊細な作業だった。


 その、瞬間だった。


 ぴん、と。


 カイルの指先が触れていた、萎れた葉の一枚が、ほんのわずかに、しかし、確かに、その瑞々しさを取り戻したのだ。


 それは、あまりにもささやかで、他の誰が見ても気づかないほどの、小さな変化だった。だが、カイルにとっては、世界が反転するほどに、大きな奇跡だった。


「……できた……」


 カイルは、その場でへたり込んだ。全身から、力が抜け落ちていた。たった一枚の葉を癒すだけで、彼は、まるで丸一日、剣を振り続けたかのような、凄まじい疲労感に襲われていたのだ。


 ⸻


 カイルは、疲弊しきった体を引きずりながら、レオンの部屋へと向かった。


 師は、窓辺の椅子に座り、静かに本を読んでいた。カイルが、今日あった出来事を、興奮と疲労の入り混じった声で報告すると、レオンは、黙ってそれを聞いていた。


 そして、カイルが全てを話し終えると、ゆっくりと本を閉じ、静かに、しかし、強く、釘を刺した。


「その力は、剣以上に、お前の命を削るかもしれん」


 その声には、一切の飾り気がなかった。


「決して、軽々しく使うな。それは、お前が最後の最後に使うべき、切り札だ」


「はい……」


 カイルは、その言葉の重みを、噛み締めていた。その時だった。


 コン、コン、と、部屋の扉が、控えめにノックされた。入ってきたのは、トラヴィスの冒険者組合のマスターだった。彼は、普段の恰幅の良い姿とは違い、どこか緊張した面持ちで、部屋に入ると、まず、椅子に座るレオンに、そして、カイルに、深々と頭を下げた。


「レオン殿、カイル殿。まずは、北方でのご功績、組合を代表し、心より感謝申し上げる」


 そして、彼は、顔を上げると、一枚の封蝋された手紙を、レオンに差し出した。


「お二人の北方廃墟での功績が、ついに、組合本部まで届きました」


 マスターは、一度言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。


「……近日中に、本部から高位の調査官が、お二方に直接話を聞くために、この街へ派遣される、とのことです」


 穏やかだったはずの、嵐の後の静けさ。その水面に、外の世界から、一つの、大きな波紋が、投げ込まれた。


 カイルの、静かな探求の時間は、終わりを告げようとしていた。


 物語は、再び、動き出そうとしていた。

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