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第三十八話 帰るべき場所

 どれくらいの時間、そうしていただろうか。塔の最上階で、カイルとレオンは、ただ、そこにいた。


 崩れた壁の隙間から、朝日が、まるで祝福のように差し込んでくる。その光は、部屋の中央で機能を停止した禍々しい装置の残骸と、その瓦礫の隙間から、奇跡のように芽吹いた一本の若葉を、分け隔てなく照らし出していた。


 戦いは、終わったのだ。


 カイルは、極度の疲労と、全身に刻まれた無数の傷の痛みで、指一本動かすことさえ億劫だった。だが、彼の心は、不思議なほどに静かだった。「静寂の心」を保っているからではない。この場所に満ちていた、あの巨大な悪意と、無数の魂の苦しみが、嘘のように消え失せていたからだ。


 後に残っているのは、ただ、この古代都市が、その長い年月をかけて蓄積してきた、静かで、そして、どこまでも深い「哀しみ」の響きだけ。それはもはや、彼を苛むものではなかった。


 レオンは、ゆっくりと立ち上がった。彼は、カイルが芽吹かせた若葉に一瞥をくれると、折れた塔の縁まで歩み、眼下に広がる廃墟を見下ろした。黒い瘴気が晴れたことで、廃墟は、その哀しいまでの壮麗な姿を、朝日の下に晒している。


 彼は、その光景を目に焼き付けるように、しばらくの間、黙ってそこに立っていた。やがて、誰に言うでもなく、風に乗せるようにして、静かに呟いた。


「すまなかった」


 それは、おそらく、かつてこの場所で失った、古い仲間たちへの言葉だったのだろう。彼は、その一言だけを墓標のように残すと、カイルの方へ向き直った。その顔には、もう過去を悼む影はなかった。


「行くぞ、カイル。俺たちの街へ、帰る」


 ⸻

 北方廃墟からの帰路は、行き以上に、過酷なものとなった。観測者を打ち破り、土地の汚染を食い止めたという達成感は、日に日に増していく肉体的な苦痛の前で、急速に色褪せていった。


 問題は、レオンの負傷だった。


 キメラに切り裂かれた左足の傷は、思った以上に深く、彼の体力を容赦なく奪っていた。最初の数日は、彼は気丈にも、いつもと変わらぬペースで歩き続けた。だが、旅が五日目を過ぎる頃には、その足取りは、誰の目にも明らかなほど、重く、引きずるようなものに変わっていた。


 カイルは、その師の姿を、痛ましさと、そして、焦燥感の入り混じった目で見つめていた。あの、絶対的で、揺らぐことのなかったはずの強者の背中が、今は、ひどく小さく、そして脆く見えた。


 その日の夕暮れ、ついに、レオンが歩みの途中で、がくりと膝をついた。


「レオンさん!」


 カイルが慌てて駆け寄ると、レオンの額は、脂汗でぐっしょりと濡れていた。傷口が熱を持ち、化膿しかけているのだ。


「……少し、休む」


 レオンは、それだけを言うと、近くの岩に、もたれかかるようにして座り込んだ。その呼吸は、荒く、浅い。


 役割が、逆転した。


 カイルは、そう直感した。ここからは、俺が、この人を支えなければならない。


 彼は、白鹿亭でエイダに叩き込まれた、手早い火起こしの方法を思い出し、乾いた枝を集めた。エリアスから受け取った文献の写しの中にあった、薬草の図を頼りに、周囲の乏しい植生の中から、止血と解熱の効果があるという草の根を、必死に探し出した。


 それは、これまでレオンが、彼にしてくれたことの、忠実な反復だった。カイルは、レオンの傷口を、湧き水で慎重に洗い清めると、噛み砕いてペースト状にした薬草を、ためらいながらも塗り込んでいく。


「……すまん」


 レオンが、目を閉じたまま、か細い声で言った。


「謝らないでください」


 カイルは、包帯をきつく結びながら、言った。


「俺は、あなたの弟子なんですから」


 その夜の焚き火の前で、レオンは、珍しく、弱音に近い言葉を漏らした。彼は、熱に浮かされたような目で、自分の傷ついた足を見下ろしながら、自嘲するように呟いた。


「……年、か」


 その声は、ひどく、か細かった。カイルは、燃え盛る炎を見つめながら、静かに、しかし、力強い声で答えた。


「俺がいますから」


 彼は、師の目を、真っ直ぐに見つめ返した。


「足なら、俺がなります。目も、耳も。二人でなら、どこへだって行けます。……そうでしょう?」


 その言葉に、レオンは、何も答えなかった。ただ、その瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、柔らかな光が灯ったのを、カイルは見逃さなかった。


 その日から、カイルは、師の前を歩くようになった。それは、単なる感傷ではなかった。弟子が、師を守るための、静かで、そして、確かな決意の表れだった。


 その日から、二人の旅は、その役割を完全に逆転させた。


 先を歩き、道を見定めるのはカイルの役目だった。彼は、これまでレオンから教わった全てのサバイバル術を、必死に思い出し、そして実践した。乏しい植生の中から、解熱効果のある薬草を見つけ出し、レオンに煎じて飲ませる。夜、冷たい風を少しでも避けられる岩陰を探し出し、師が眠る間、自らは火の番をしながら、片時も警戒を怠らない。


 彼の「静寂の心」は、もはや戦闘のためだけのものではなかった。それは、この死せる大地の中から、わずかに残された生命の“響き”――岩陰に隠れる小動物の気配や、まだ枯れていない湧き水のありか――を探し出すための、命を繋ぐための道具となっていた。


 レオンは、ほとんどの時間を、黙ってカイルの背中を見て過ごした。


 熱に浮かされ、朦朧とする意識の中で、彼は、かつて自分がそうであったように、弟子が、一人の男として、着実に、そして力強く成長していく姿を、その目に焼き付けていた。


 それは、敗北ではなかった。むしろ、彼がこの旅で手に入れた、何よりも大きな勝利の果実であるのかもしれない。


 何日、歩き続いただろうか。彼らの食料が、ついに底を突いた日の、夕暮れだった。


 身も心も、疲労の限界に達していた二人が、最後の力を振り絞って、なだらかな丘を越えた、その時だった。


 眼下に広がるのは、見覚えのある、緑の平原。そして、その遥か地平線の先に、ぽつり、ぽつりと、温かい、オレンジ色の光が灯り始めた。


「……あ……」


 カイルの声が、かすれた。あれは、トラヴィスの街の灯りだ。夕食の支度をする家々の煙突から立ち上る、白い煙。世界が夜の闇に沈む中、そこにだけ、確かに人の営みがあることを告げる、温かい光の群れ。


 その光景を見た瞬間、カイルの目から、これまでずっと、心の奥底に押し殺していたものが、堰を切ったように溢れ出した。


 涙だった。


 熱い滴が、後から後から、頬を伝って落ちていく。守りたかった日常。帰るべき場所。そのどうしようもないほどの愛おしさと、そこまでたどり着いた安堵感が、彼の全身を震わせた。


 隣で、レオンもまた、その灯りを、どこか懐かしい、そして、ひどく穏やかな目で見つめていた。彼は、カイルの肩に、そっと、その大きな手を置いた。その手は、ひどく熱かったが、不思議なほど、力強かった。


 ⸻


 二人が、互いの肩を支え合うようにして、よろめくような足取りで街の門をくぐったのは、それから一時間ほど後のことだった。


「……おい、あれを見ろ!」


 門番の一人が、二人の姿に気づき、叫んだ。


「レオンと、あの小僧だ! 北から、帰ってきたぞ!」


 その声は、あっという間に、街中に伝播していった。


 人々が、家々の窓から顔を出す。噂は、瞬く間に、街全体を駆け巡った。誰もが生きては帰れないと言われた、あの北方廃墟から、二人が帰還したのだと。


 彼らが、白鹿亭の前にたどり着いた時。


 その木の扉は、彼らが手をかけるより先に、内側から、勢いよく開かれた。そこには、心配そうな顔で待ち構えていた、エイダとベルトルド。そして、報せを聞いて、書庫から駆けつけてきたのであろう、エリアスが立っていた。


 エイダは、二人の、まるで亡霊のようにも見える、傷だらけで、痩せこけた姿を見て、一瞬、言葉を失った。彼女の瞳が、みるみるうちに涙で潤んでいく。


 だが、彼女は、何も聞かなかった。ただ、駆け寄ると、二人まとめて、その温かい腕で、強く、強く、抱きしめた。


「……おかえり」


 その声は、震えていた。


「本当に、よく……帰ってきたねえ……」


 その温かい腕の中で。


 懐かしい、エイダの匂いに包まれて。カイルは、旅の始まりからずっと、鋼のように張り詰めていた緊張の糸が、ぷつり、と音を立てて切れるのを感じた。


 彼は、エイダの肩に顔をうずめた。そして、まるで、迷子になった子供が、ようやく母親を見つけたかのように、ただ、声を上げて、泣いた。


 嬉しさも、悲しさも、安堵も、苦痛も、その全てが、涙となって、溢れ出した。


 レオンは、そんなカイルの姿を、壁に寄りかかりながら、静かに見ていた。そして、ほんの少しだけ、その厳しい口元を、緩めた。


 白鹿亭の、温かいランプの光が、傷だらけの英雄たちの帰還を、優しく、優しく、包み込んでいた。北方廃墟での、長く、過酷な戦いは、この瞬間、本当の意味で終わりを告げた。

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