第三十七話 決着
レオンの、血に濡れた口元から紡がれたその言葉は、観測者の心の、最後の冷静さを断ち切るための引き金だった。
「……貴様ぁ……!」
観測者の整っていた顔が、初めて、純粋な怒りで醜く歪んだ。これまで彼を支配していた、冷徹なまでの知性は鳴りを潜め、代わりに、自らの作品を傷つけられた創造主の、子供のような癇癪が、その全身から溢れ出す。
その感情の爆発は、彼の指揮するキメラたちにも、即座に伝播した。
完璧だった連携は、完全に崩壊。二体の怪物は、もはや統率された兵士ではなく、ただ、主人の怒りを代弁するかのように、やみくもに牙と爪を振り回すだけの、狂える獣と化していた。
好機。
カイルとレオンは、言葉を交わすまでもなく、それを理解していた。二人の影が、左右に分かれる。
「グルルァア!」
マンティコアタイプのキメラが、レオンへと突進する。レオンは、負傷した足を引きずりながらも、その突進を、柳のようにしなやかな剣捌きでいなした。彼はもう、無理に攻めようとはしない。長年の経験と、地形を熟知した老獪さで、最小限の動きで攻撃を受け流し、確実に、しかしじわじわと、相手の体力を削っていく。それは、傷ついた老いた獅子の、あまりにも老練な戦い方だった。
その間に、カイルは、もう一体の敵――傷ついたグリフォンタイプのキメラと、対峙していた。
「キシャアアァ!」
翼を傷つけられたことで、その動きは以前よりずっと単調になっていた。だが、その分、怒りに任せた一撃一撃の威力は、凄まじさを増している。
カイルは、真正面からそれを受け止めない。彼は、完全に「静寂の心」へと意識を沈めていた。荒れ狂うキメラの怒りの“奔流”を、彼の心の水面は、ただ静かに映し出す。
(……来る!)
鉤爪による薙ぎ払い。その攻撃の予兆である、鋭い殺意の“波紋”を、カイルは相手が動くより一瞬早く感じ取る。彼は、体を低く沈めてそれを躱し、すれ違いざまに、相手の脇腹を浅く切り裂いた。
深くはない。だが、確実な一撃。カイルは、もはや、ただ敵の攻撃を読むだけの存在ではなかった。相手の心の“形”を読み、その隙を突き、反撃する。彼は今、一人の剣士として、この強大な敵と、確かに渡り合っていた。
それは、まさしく、師弟による、見事な挟撃だった。レオンが、重厚な盾となって、敵の主力を引きつけ、時間を稼ぐ。
その間に、カイルが、鋭い槍となって、もう一体の敵の急所を、的確に削り取っていく。
観測者は、その光景を、信じられないという顔で見ていた。自分の完璧な作品が、旧世界の老兵と、才能だけが取り柄の小僧に、徐々に、しかし確実に、追い詰められていく。
「あり得ない……。私の計算が……私のキメラが、こんな……!」
彼のプライドが、悲鳴を上げていた。やがて、その時は来た。カイルが、相手の足への攻撃をフェイントに、大きく懐へ飛び込み、グリフォンタイプの、傷ついた翼の付け根を、渾身の力で貫いたのだ。
「ギィイイイイイイッ!!」
断末魔の絶叫。翼を持つキメラは、力なく地面に崩れ落ち、痙攣しながら、やがて完全に動きを止めた。
「……一体……!」
カイルが、勝利を確信した、その瞬間だった。
「――もういい」
観測者の、氷のように冷たい声が、広間に響いた。
その声に、カイルははっと我に返る。見ると、観測者は、もはやキメラたちの方を見ていなかった。彼の目は、部屋の中央で脈打つ、あの巨大な動力源へと注がれていた。
その顔からは、先ほどまでの怒りが嘘のように消え失せ、代わりに、全てを諦め、そして、全てを破壊しようとする者の、虚無的な光が宿っていた。
「遊びは、終わりだ」
彼は、そう呟くと、両手を動力源の黒水晶へと掲げた。そして、カイルがこれまで一度も聞いたことのない、古く、そして、禍々しい言語による、呪文の詠唱を開始した。
「レオンさん、まずい!」
カイルは絶叫した。
観測者の心から流れ込んでくる響きが、彼に危険を告げていた。あれは、ただの魔術ではない。塔の動力源そのものを暴走させ、この空間ごと全てを吹き飛ばすための、自爆的な破滅の呪文だ。
部屋全体が、凄まじいエネルギーの奔流で満たされていく。床が、壁が、ビリビリと振動し、砕け始める。黒水晶は、もはや脈打つのではなく、今にも爆発寸前の恒星のように、禍々しい光を明滅させていた。
レオンもまた、観測者の危険な企みに気づいていた。だが、残る一体のマンティコアが、主を守る最後の壁として、彼の前に立ちはだかっている。
詠唱が、完了する。もう、間に合わない。絶望が、カイルの心を、再び黒く塗りつぶそうとしていた。
観測者の詠唱が始まると同時に、部屋全体が、まるで巨大な獣の断末魔のように、激しく震え始めた。中央の動力源が、もはや制御不能なエネルギーを放ち、黒い稲妻が壁や床を奔放に走り抜ける。詠唱が完了すれば、この塔そのものが、彼らを巻き込んで崩壊するだろう。
レオンもまた、観測者の危険な企みに気づいていた。だが、残る一体のマンティコアが、主を守る最後の盾として、彼の前に立ちはだかっている。負傷した足では、この猛攻を掻い潜って、観測者の元へたどり着くことは、不可能に思われた。
絶望的な状況。
万策尽きたかと思われた、その時だった。
「――レオンさん!」
カイルの絶叫が、轟音の中で、奇跡のように師の耳に届いた。
「今です! 全力で!!」
カイルは、極限の集中の中で、見ていた。
観測者の、その冷徹な心の全てが、術の詠唱という、ただ一点にだけ収束していくのを。そのあまりの集中ゆえに、彼の心の“守り”が、完全に無防備になっている、ほんの一瞬の隙を。
そして、カイルは、常軌を逸した行動に出た。彼は、目の前で崩れ落ちたグリフォンの亡骸を乗り越えると、自らの唯一の武器である鋼の剣を、槍のように、レオンの進路を塞ぐマンティコアの足元めがけて、全力で投げつけたのだ。
それは、剣士にあるまじき、あまりにも無謀な賭けだった。
ガキン!と、甲高い金属音。
カイルが投げた剣は、マンティコアの装甲に弾かれた。だが、それで十分だった。ほんの一瞬だけ、その注意がレオンから逸れた。
そのコンマ数秒の好機を、老いた剣士が見逃すはずもなかった。
レオンは、カイルが作った道を信じ、もはや自らの体の防御さえも捨てて、駆けた。負傷した足の痛みを、燃えるような闘志で踏み潰す。マンティコアの爪が、彼の肩の鎧を抉り、肉を裂く。だが、彼は止まらない。
ただ、前へ。敵の王、その心臓だけを見据えて。その動きは、もはや剣技ではなかった。
彼の、五十八年の人生の全てを込めた、ただの、まっすぐな一閃。レオンの剣の切っ先が、詠唱を終える寸前だった観測者の胸の中心を、まるで、静かな水面に吸い込まれるかのように、深く、そして、音もなく、貫いていた。
「……ぁ」
観測者の口から、意味にならない声が漏れた。
詠唱が、途切れる。
瞬間、部屋全体を覆っていた、凄まじいエネルギーの奔流が、まるで陽炎のように掻き消えた。黒水晶の脈動が、ゆっくりと、その光を失っていく。
静寂が、戻ってきた。
観測者は、自らの胸に突き刺さった剣を、信じられないという顔で見下ろし、そして、ゆっくりと崩れ落ちた。
主を失ったマンティコアが、最後の咆哮を上げ、やがて、巨体を横たえて動かなくなる。中央の動力源が、低い、うめき声のような音を最後に、完全に沈黙した。
レオンとカイルは、二人とも、その場に膝をつき、荒い息を繰り返していた。満身創痍。だが、確かに、勝ったのだ。
二人は、ゆっくりと、倒れた観測者へと近づいた。
彼は、おびただしい量の血を流しながらも、まだ、生きていた。だが、その目は、もはやレオンを見ていない。彼は、カイルだけを、見ていた。その瞳には、敗北の悔しさではなく、最後まで、純粋な好奇心の色だけが浮かんでいた。
「……見事だ……旧い世界の、人間にしては……」
彼は、血の泡を吹きながら、嘲笑うように言った。
「だが……無意味だ……。私を倒しても……これは、“あの方”の壮大な計画の……ほんの、序章に過ぎない……」
観測者は、カイルを見据えた。
「お前のような……イレギュラーが、現れたことこそ……計画が、次の段階へ……進む、合図、なのだ……」
その言葉を最後に、観測者の体は、急速に黒い塵へと変わり始めた。まるで、風に吹かれた砂の城のように、その輪郭が崩れ、数秒後には、そこには、空っぽになった白い研究衣だけが、不気味に残されていた。
戦いは、終わった。
塔の頂を覆っていた分厚い雲が、まるで呪いが解けたかのように、ゆっくりと割れていく。そして、その隙間から、一本の、清浄な朝日の光が、差し込んできた。
その光は、部屋の中央で、完全に沈黙した動力源の残骸を照らし出した。
カイルは、まるで何かに導かれるように、ふらつく足で、そこへ近づいた。そして、エリアスの言葉を思い出しながら、おそるおそる、その黒い残骸に、そっと手を触れた。
すると、彼の体から、温かい、柔らかな光が溢れ出した。
彼の「心音継ぎ」の力が、死んだはずのこの場所に、わずかな生命の“癒し”をもたらしていく。
黒い石の床の、その亀裂の隙間から、一本の、小さな、小さな、若葉が、芽吹いた。
レオンは、壁に寄りかかり、その光景を、静かに見ていた。彼は、光が差し込む空を見上げ、ぽつりと、呟いた。
「序章、か。随分と、高くついた序章だったな」
カイルは、芽生えたばかりの、そのか細い若葉と、師の傷ついた体を見つめた。戦いには、勝った。土地の汚染も、ひとまずは、食い止めた。
だが、観測者が残した、あまりにも不吉な言葉が、勝利の余韻を打ち消す。
真の黒幕。次なる計画。これは、終わりではない。本当の戦いの、始まりに過ぎないのだ。
カイルは、固く、拳を握りしめた。自分のこの力の意味を、そして、進むべき道を、見つけ出すために。この旅を、続けなければならないと、改めて、固く、心に誓った。
朝日が、黒の廃墟を、静かに照らし始めていた。




