表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/39

第三十六話 観測者

 塔の最上階へと続く、最後の螺旋階段。


 一歩、また一歩と上るたびに、カイルの肌を刺すプレッシャーは、凄まじい勢いで増していく。それは、もはや特定の感情ではなかった。ただ、圧倒的なまでの、巨大で、冷徹な知性がそこにあるという、純粋な存在感。彼の「静寂の心」が、警鐘を乱打していた。


 レオンは、無言で階段を上り続けている。だが、その握られた剣の柄が、ギリ、と音を立てたのを、カイルは聞き逃さなかった。師もまた、極限の緊張状態にあるのだ。


 やがて、二人は、開かれた扉の向こう側へと、同時に足を踏み入れた。そこが、この長い旅の終着点だった。


 塔の最上階。壁と天井のほとんどは崩落し、鉛色の、荒涼とした空が、そのまま剥き出しになっている。風が、絶えず吹き抜け、まるで亡霊の嗚咽のような、低い唸り声を上げていた。


 部屋の中央には、黒い水晶と、禍々しい金属で組み上げられた巨大な装置が、不気味な心臓のように、ゆっくりと脈打っていた。周囲の土地の生命力を吸い上げ、この廃墟に満ちる黒い瘴気の源となっている動力源だ。その装置からは、低い、地の底から響くような駆動音が、絶えず放たれている。


 そして、その装置の前に、一人の人物が、背を向けて立っていた。


 カイルは、息を呑んだ。フードは、外されている。そこに立っていたのは、カイルが想像していたような、年老いた魔術師や、異形の怪物ではなかった。


 年の頃は、まだ二十代半ばといったところだろうか。汚れ一つない、仕立ての良い、純白の研究衣のような服に身を包んだ、学者風の、線の細い青年だった。その整いすぎた顔立ちと、この荒廃の極みにある場所との、あまりにも極端な不釣り合いさが、彼の存在を、ひどく非現実的なものに見せていた。


「…………」


 青年は、二人が部屋に入ってきたことに気づいているはずだった。だが、彼はしばらくの間、振り返ることさえしなかった。ただ、目の前の装置が脈打つのを、恍惚とした表情で眺めている。


 やがて、彼は、まるで観劇の幕間を終える俳優のように、ゆっくりと、そして優雅に、こちらへと振り返った。


 その目に、何の感情も浮かんでいなかった。


「よく来たね、イレギュラー」


 その声は、彼の見た目と同じように、若々しく、そして、どこまでも平坦だった。


「そして、老いたる“蒼鷲”よ」


 彼は、レオンの過去の異名を知っていた。その瞳は、カイルとレオンを、敵としてではなく、実験室に迷い込んできた、興味深い観察対象として、値踏みするように見つめている。


「君のその力、実に興味深い」


 観測者の視線が、カイルを捉えた。


「心音継ぎの、失われたはずの才能。それは、旧い世界の殻を破る、進化の兆しだ。滅びゆく者たちに与するには、あまりにも惜しい。なぜ、こちら側に来ないのかね?」


「戯言は、そこまでにしろ」


 レオンが、低い声で、その言葉を遮った。


「貴様らの言う進化とやらのために、どれだけの命が弄ばれたか。その罪を、ここで償わせてやる」


 観測者は、その言葉に、心底残念だというように、小さく肩をすくめた。


「やれやれ。旧い生命とは、いつの時代も、自らの滅びの運命に、かくも頑固に抵抗するものだ」


 彼は、まるで指揮者のように、優雅に、指を鳴らした。


パチン。


その乾いた音を合図に、部屋の四隅の、最も深い影の中から、二つの巨大な影が、音もなく姿を現した。


「グルルル……」


 一体は、獅子の屈強な肉体と、蠍の猛毒を宿した尾を持つ、禍々しき合成獣。


「キシャアアァ!」


 もう一体は、狼のしなやかな四肢と、鷲の鋭い鉤爪、そして巨大な翼を持つ、空を舞う合成獣。


 地下で見た、あの哀れな“失敗作”たちとは、次元が違う。無駄な部分が一切なく、ただ、殺戮のためだけに、完璧に“デザイン”された、観測者の最高傑作。


「さあ、見せてくれたまえ」


 観測者は、少し離れた場所で、まるで特等席から舞台を眺めるかのように、腕を組んだ。


「君たちの旧い力が、我々の創造した“新しい生命”の前に、どこまで通用するのかを」


 戦闘は、唐突に始まった。翼を持つキメラが、凄まじい速度で空を舞い、カイルの頭上から襲いかかる。同時に、獅子のキメラが、地を揺るがす突進で、レオンへと牙を剥いた。


 完璧な、二面同時攻撃。


「カイル!」


 レオンが叫び、獅子のキメラの突進を、正面から受け止める。凄まじい衝撃。レオンの足元の床が、蜘蛛の巣のように砕け散った。


 カイルもまた、頭上からの鉤爪の薙ぎ払いを、必死に剣で受け流す。腕が痺れ、体ごと吹き飛ばされそうになる。


 強い。


 これまで戦ってきた、どの魔物とも違う。だが、カイルは、恐怖に呑まれる寸前で、心を「静寂」へと沈めた。


(読め……! こいつらの動きじゃない! あいつの、“思考”を!)


 観測者の心は、やはり、冷たい“無音”に近かった。だが、その静寂の中から、キメラたちへと向かう、無数の、そして、恐ろしく精密な思考の“糸”が、はっきりと感じ取れた。それは、言葉ではない。ただの、戦術データの奔流。


【グリフォン:左旋回、背後から尾を狙え】

【マンティコア:圧力をかけ続けろ。敵の体勢が崩れた瞬間に、毒針を放て】


「レオンさん、背後! 翼のある方が!」


 カイルは、流れ込んでくる情報を、絶叫に変換して、師に伝えた。


 レオンは、カイルの言葉を、疑いもせずに信じた。彼は、正面の獅子のキメラを力ずくで押し返すと、振り返ることなく、背後へと剣を突き出す。その剣先は、音もなく背後から迫っていた、グリフォンタイプの鉤爪と、火花を散らして激突した。


「次は、蠍の尾が来ます!」


 カイルの警告と同時に、マンティコアタイプの尾が、槍のように、レオンの脇腹を狙う。レオンは、それを読んでいたかのように、最小限の動きで躱した。


 二人は、いつの間にか、背中合わせの陣形を取っていた。レオンが、物理的な攻撃の全てを受け止める盾となり。カイルが、目に見えない敵の思考を読む、目となる。


 絶望的な戦力差の中、師弟は、まるで一つの生き物のように、完璧な連携で、観測者が指揮する死の二重奏を、かろうじて凌ぎ続けていた。


 その光景を、観測者は、少しも表情を変えず、ただ、その目に、冷たい、冷たい、好奇心の光を宿して、見つめていた。


 絶望的な戦力差。だが、二人の間には、一筋の光明があった。


 カイルという目が、敵の思考を読み解き、レオンという“剣”が、それを的確に体現する。それは、まだ不格好ではあったが、確かに機能している、二人だけの戦術だった。


 レオンは、カイルの警告を絶対の指針とした。彼はもはや、目の前のキメラの動きを見ていない。ただ、弟子の声を、その魂の叫びを信じ、自らの体を、長年の経験が培った極致の反射神経だけで動かしていた。


 右、と聞こえれば右に。左、と聞こえれば左に。

 その結果、彼の剣は、常にキメラたちの攻撃の一瞬先を捉え、致命傷を避け続けていた。


 だが、その戦術が、永遠に続くはずもなかった。


「――面白い」


 戦場を見下ろす観測者の唇が、初めて、三日月のように歪んだ。その目に、冷たい愉悦の色が浮かぶ。


「思考を読んでいるのか。なるほど、実に興味深いサンプルだ。ならば……これなら、どうする?」


 次の瞬間、カイルの頭の中に流れ込んでくる思考の糸が、爆発的に増殖した。これまでは、一本の明確な指示だったものが、今は、無数の、そして、互いに矛盾する可能性の奔流となって、彼の精神に叩きつけられる。


【グリフォン:右から急降下】

【グリフォン:否、左から牽制】

【マンティコア:毒針を構えろ】

【マンティコア:否、距離を取れ】


 真実と、偽り。その二つが、あまりにも巧みに織り交ぜられ、カイルの心の水面を、嵐のように掻き乱す。


「くっ……!」


 カイルは、情報の濁流の中で、溺れそうになる。どれが本物で、どれが罠だ? 焦りが、彼の「静寂の心」に、さざ波を立てた。


 マンティコアが、レオンへと突進する。観測者から、その頭を狙えという、ひときわ強い思考の“流れ”を感じた。


「レオンさん、上です!」


 カイルは、絶叫した。だが、それは、偽りだった。本命は、その思考の裏に隠された、地を這うような、下段への薙ぎ払い。


「しまっ……!」


 カイルが、自らの誤算に気づいた時には、もう遅かった。レオンは、カイルの言葉を信じ、上段からの攻撃を迎え撃つべく、剣を構えていた。そのがら空きになった足元へ、マンティコアの、岩をも砕く剛腕が、横薙ぎに叩きつけられた。


「ぐ……っ!」


 レオンは、咄嗟に後方へ跳んで直撃は避けた。だが、その爪の先端が、彼の左の太腿を、深く、長く、切り裂いていた。鮮血が、闇色の床に飛び散る。レオンは、苦悶の声を漏らし、大きく体勢を崩した。


「レオンさん!!」


 カイルの絶叫が、広間に響き渡った。自分のせいだ。俺の未熟さが、師を傷つけた。その事実に、カイルの血の気が、すっと引いていく。罪悪感と、絶望が、彼の心を黒く塗りつぶそうとした。


 キメラたちは、その好機を見逃さない。二体の怪物が、負傷したレオンにとどめを刺すべく、同時に、その牙と爪を剥いた。


 もう、終わりだ。


 ――そう、思った、瞬間だった。


 カイルの心に、いつかの師の言葉が、稲妻のように蘇った。


『奴らが人間性を捨てたというのなら、その“人間ではない”という歪みそのものが、奴らの最大の弱点になる』


(……歪み……)


 そうだ。俺は、まだ、見ていなかった。敵の思考の、そのさらに奥にある、本質を。カイルの罪悪感と絶望は、一瞬にして、極限の集中力へと昇華された。


 彼は、もはや、観測者が放つ戦術の“糸”を追わない。その“糸”を紡ぎ出している、観測者自身の「心の形」そのものを、見つめた。


 冷徹で、機械的で、完璧なはずの、その心。だが、その中心には、確かに、一つの“歪み”があった。


 それは、まるで黒い太陽のような、禍々しく、そして、熱を帯びた感情の塊。自分の創り出した、この完璧なキメラたちへの、歪んだプライド。自分の指揮する、この完璧な戦術への、芸術家のような執着。


 彼は、戦っているのではない。自分の作品の、その素晴らしさを、誇示しているだけなのだ。そして、彼は、二体のキメラを、平等には見ていなかった。彼の心の奥底では、より美しく、より俊敏な、あの翼を持つグリフォンタイプのキメラへ、ほんのわずかに、しかし、確かに、強い愛情を注いでいた。


 カイルの目に、狂気すらはらんだ、強い光が宿った。彼は、負傷した足で、必死に体勢を立て直そうとするレオンに、絶叫した。


「レオンさん!」


 その声は、もはや、助言を求める弟子の声ではなかった。戦況を覆すための、絶対的な確信に満ちた、相棒の声だった。


「狙いは、一体だけ! 右の、翼のある方だけを、徹底的に狙ってください! もう一体は、無視して!」


 それは、戦術的には、あり得ない選択だった。一体を無視すれば、レオンへの負担は倍増する。だが、レオンは、一瞬だけ、カイルの目を見た。そして、その目に宿る光の意味を、全て理解した。


 彼は、ニヤリ、と血に濡れた口元で笑った。


「……面白い」


 次の瞬間、レオンの動きが変わった。彼は、正面から迫るマンティコアの攻撃を、もはや避けようとはしなかった。鎧が衝撃を受け、火花を散らす。その代償に、彼は一直線に、翼を持つグリフォンタイプへと肉薄した。


 そして、その美しい翼の付け根を狙い、渾身の力を込めて、剣を振り抜いた。


「ギィヤアアアアアッ!!」


 翼を深く切り裂かれ、グリフォンは、苦痛の悲鳴を上げた。


 その、瞬間だった。


 観測者の、完璧だったはずの心の“静寂”が、初めて、激しく、乱れた。カイルの心に、直接叩きつけられた、純粋な、そして、子供のような、激しい怒りの波紋。


『――よくも、私の最高傑作を!!!』


 その感情の爆発が、観測者の精密な思考の指揮を、完全に麻痺させた。彼の意識は、傷ついたグリフォンへと集中し、もう一体のマンティコアへの指示が、完全に途絶える。


 完璧だった二重奏は、今、終わりを告げた。キメラたちの連携が、完全に崩れたのだ。絶望的な状況の中で、二人は、ついに、反撃の狼煙を上げた。


 レオンは、血の滴る腕で剣を構え直し、初めて感情を露わにした観測者を見据えて、不敵な笑みを浮かべた。


「ようやく、ただの人間に戻ったな、研究者先生」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ