表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/39

第三十五話 偽りの白鹿亭

 昇降機が、軋むような音を立てて上昇していく。


 カイルは、鉄の壁に背を預け、浅い呼吸を繰り返していた。地下の実験室で目の当たりにした、あの地獄のような光景。無数の、苦しみに満ちた魂の“響き”。そして、自らの手で、彼らに「救済」という名の死を与えた、剣の重み。その全てが、彼の精神に、洗い流すことのできない泥のようにこびりついていた。


 早く、この場所から出たい。


 一刻も早く、光のある場所へ。その一心だけが、彼の意識をかろうじて繋ぎ止めていた。やがて、上昇の勢いが緩み、昇降機は、大きな衝撃と共に停止した。


 ガコン、と重い音を立てて、目の前の鉄の扉が、ゆっくりと外側へと開いていく。カイルは、次に現れるであろう、荒廃した塔の内部の光景を覚悟し、身構えた。


 だが。彼の目に飛び込んできたのは、予想していた光景とは、あまりにもかけ離れたものだった。最初に感じたのは、温かい光だった。ランプの、柔らかく、そして優しい、黄金色の光。


 次に、匂い。埃と、カビと、血の匂いではない。ベルトルドが作る、猪肉のシチューの、香ばしくて、食欲をそそる匂い。そして、焼きたてのパンの香り。


 そして、音。静まり返った廃墟の沈黙ではない。暖炉で薪がぱちぱちと爆ぜる音。食器がカチャリと触れ合う音。そして、遠くで聞こえる、人々の穏やかな笑い声。


 昇降機の扉が完全に開いた時、二人は、ただ、呆然と立ち尽くしていた。目のの前に広がっていたのは、磨き上げられた木の床、壁に飾られた白い鹿の角、そして、客たちが寛ぐ、見慣れたテーブルと椅子。


 そこは、どう見ても、トラヴィスの街にあるはずの、宿屋「白鹿亭」の食堂だったのだ。


「あら、二人とも、おかえりなさい!」


 カウンターの奥から、聞き慣れた、太陽のように明るい声がした。女将のエイダが、いつものようにエプロン姿で、グラスを布で拭きながら、こちらへ満面の笑みを向けている。


「ひどい目に遭ったようだねえ。そんなに汚れて。さあ、温かいスープでもどうだい? 体が温まるよ」


 その言葉、その笑顔、その仕草。そのどれもが、カイルの記憶の中にある、エイダその人だった。

 カイルは、混乱した。


 頭が、正常に働かない。ここは、北方廃墟のはずだ。トラヴィスからは、何十日も歩かなければ戻れない、北の果て。


 だが、目の前の光景は、彼の五感の全てが、ここが白鹿亭だと、そう告げていた。地下での地獄のような体験の後だからこそ、その温かい日常の光景は、抗いがたいほどの魅力をもって、彼の心を誘惑した。疲弊しきった魂が、この甘い現実に、溶けてしまいそうになる。


(……帰って、きたのか?)


 あまりのことに、一瞬、本気でそう思った。あるいは、これまでの全てが、ひどい悪夢だったのではないか、と。彼は、まるで夢遊病者のように、一歩、その温かい光の中へと、足を踏み出そうとした。


「――カイル、気を抜くな」


 その肩を、背後から、鉄の万力のような力で掴まれた。レオンだった。彼の声は、低く、そして、氷のように冷たかった。


「何かがおかしい」


 その言葉に、カイルは、はっと我に返った。そうだ。おかしい。こんなことは、あり得ないのだ。


「どうしたんだい、二人とも? 疲れているのかい?」


 エイダが、不思議そうに小首を傾げる。


「さあ、こっちにおいで。ベルトルドも、あんたたちの好きだった猪肉のロースト、用意して待ってるよ」


 彼女の言葉は、どこまでも優しく、そして、甘い。カイルは、混乱する頭で、必死に「静寂の心」を発動させた。この異常事態の正体を、見極めなければ。


 彼は、目の前のエイダの“心”に、意識を向けた。そして、さらに混乱した。そこから感じられるのは、純粋な、一点の曇りもない、温かい善意と、自分たちを案じる優しい心遣いの“響き”だけだった。使徒たちのような、冷たい“無音”も、魔物のような、歪んだ狂気もない。その感情の“波紋”は、カイルが知る、本物のエイダのものと、寸分違わぬように感じられたのだ。


「でも、レオンさん……」


 カイルの声は、震えていた。


「エイダさんの心が……温かいんです。いつもの、エイダさんの……」


「罠というものは、本物に見えるからこそ、罠なのだ」


 レオンは、カイルの肩を掴んだまま、一歩も動かない。その目は、目の前の温かい光景ではなく、そのさらに奥にある、見えない何かを、鋭く射抜いていた。


 カイルは、どうすればいいのか分からなかった。師の経験が告げる「危険」と、自らの“感覚”が告げる「安全」。その二つの間で、彼の心は、激しく引き裂かれていた。


 カイルは、混乱の極みにいた。師であるレオンの、長年の経験が告げる「危険」。そして、自らの“感覚”が、絶対の自信をもって告げる「安全」。


 その二つの間で、彼の心は、激しく引き裂かれていた。目の前では、エイダの姿をした幻影が、まだ、優しい笑みを浮かべている。


 猪肉のロースト。それは、カイルがこの宿で初めてご馳走になった、忘れられない味だった。その言葉が、彼の心を、さらに強く揺さぶる。


(本当に……罠、なのか?)


 もし、これが本物だったら? もし、何かの奇跡で、本当に自分たちは白鹿亭に帰ってきているのだとしたら? レオンの警戒は、ただの思い過ごしだとしたら?


 疑念が、彼の心の盾に、小さな亀裂を入れる。その、瞬間だった。カイルの脳裏に、師の声が響いた。それは、実際に発せられた言葉ではない。いつかの稽古の夜、焚き火の前で、彼に与えられた、道しるべ。


 ――『感情がないのなら、その“無音”を聞け。人間性を捨てたというのなら、その“人間ではない”という歪みそのものが、奴らの最大の弱点になる』

 ――『心の形を、その歪みを、見ろ』


(……心の、形……)


 カイルは、はっとした。そうだ。俺は、ただ、表面的な感情の“響き”だけに、惑わされていた。温かいか、冷たいか。それだけで、本物か、偽物かを判断しようとしていた。


 違う。もっと、深く。その心の、本質的な「形」を見なければ。カイルは、もう一度、目の前の“エイダ”に、意識を集中させた。


「静寂の心」


 彼の内なる水面が、再び、静まり返っていく。彼は、彼女から発せられる、温かい善意の感情を、ただ受け入れた。だが、今度は、その感情の“質”を、注意深く、分析していく。


 そして、彼は、ついに、その完璧な幻影に隠された、致命的な「歪み」を見つけ出した。


 ――完璧すぎるのだ。


 その心は、温かい。だが、それだけだった。まるで、一つの音しか出せない笛のように、ただ、単一で、均一な「優しさ」だけが、そこにあった。


 カイルが知る、本物のエイダの心は、もっとずっと、豊かで、複雑なオーケストラだった。夫を案じる微かな心配り、店の経営を考える現実的な思考、長年の労働で培われた肉体的な疲労、そして、それら全てを包み込む、太陽のような温かさ。様々な感情が、常に、美しい不協和音となって、彼女の人間性を奏でていたはずだ。


 だが、目の前の“これ”は、違う。その心には、何の揺らぎも、ためらいも、複雑さもない。ただ、人形のように、完璧なだけの「善意」が、そこに在るだけ。それは、あまりにも不自然で、歪んだ「心の形」だった。


(……見つけた)


 カイルは、その偽りの感情の、さらに奥深くへと、意識を沈めていった。美しい絵画の、その裏側を覗き込むように。


 そして、彼は、それを見つけた。美しい絵画が描かれた、キャンバスの正体。それは、彼がよく知る、あの使徒たちの心と同じ、全てを拒絶するような、冷え切った“無音”だった。


「……レオンさん」


 カイルは、震える声で、しかし、確信をもって言った。


「これは、偽物です。すごく……精巧に作られた、罠です。この温かさの下は、空っぽでした」


 その言葉が、合図だった。


 カイルは、目の前の幻影に向かって、一歩、踏み出した。そして、その偽りの笑顔を、真っ直ぐに見据えて、はっきりと告げた。


「あんたは、エイダさんじゃない!」


 カイルが、その偽りを、自らの意志で明確に「拒絶」した、その瞬間。世界の全てが、ガラスのように砕け散った。


 パリイイイィィン!!


 甲高い悲鳴のような音と共に、温かい光景が、無数の破片となって掻き消える。エイダの優しい笑顔は、苦悶の表情へと歪み、陽炎のように消え失せた。シチューの匂いは、埃とカビの、塔本来の匂いへと変わる。


 後に残ったのは、荒廃した、だだっ広い円形の広間。そして、その中央で、弱々しい光を脈打たせる、巨大な黒水晶だけだった。あれが、この甘い悪夢の発生源。


「――チッ。見破られたか」


 声がした。気づけば、水晶を守るように、四人の「進化の使徒」たちが、音もなく立ち上がっていた。彼らは、自分たちの最高傑作の罠が破られたことに、わずかな驚きを示しつつも、そのフードの奥の瞳を、冷たい殺意にぎらつかせた。


「イレギュラーは、ここで排除する」


 使徒の一人が、機械のような声で告げ、四人が同時に、カイルとレオンへと襲いかかってきた。だが、今の二人にとって、その動きは、あまりにも遅く、そして、単純に見えた。


 心理的な罠を打ち破った今、彼らの心を満たしているのは、弄ばれたことへの、燃えるような怒り。

「……カイル!」


「はい!」


 レオンの檄に応え、カイルもまた、剣を抜き放つ。師弟は、背中合わせの陣形を取る。カイルの心は、かつてないほどに澄み渡っていた。使徒たちの、冷たい殺意の“雫”が、彼の心の水面に、はっきりと、完璧な波紋を描き出す。


 右からの突き。左からの薙ぎ払い。その全てが、手に取るようにわかる。彼は、もはや、ただ守られるだけの存在ではなかった。レオンと肩を並べ、敵の攻撃を捌き、時には鋭いカウンターを繰り出す。


 師弟の剣が、嵐のように吹き荒れた。


 数分後、そこには、地に伏す四人の使徒と、砕け散った黒水晶の残骸だけが残されていた。


「はぁ……はぁ……っ」


 カイルは、その場に膝をつき、荒い息を繰り返した。肉体的な疲労よりも、精神的な消耗が、あまりにも激しかった。あの甘い幻影と戦っていた時間の方が、よほど、過酷な戦いだった。


 レオンが、彼の隣に立った。そして、その肩に、ぽん、と軽く手を置いた。


「……よく見破った」


 その声には、カイルが初めて聞く、飾り気のない、純粋な称賛の響きがあった。カイルは、顔を上げた。師からのその一言が、どんな霊薬よりも、彼の疲弊した心を癒してくれた。


 二人は、立ち上がった。


 幻影が消え、水晶が砕け散った広間の、その奥。上階へと続く、新たな螺旋階段が、まるで巨大な獣の喉のように、暗い口を開けて、二人を待ち構えていた。


 観測者は、このさらに上にいる。二人は、視線を交わすと、静かに頷き合い、その階段への、第一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ