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第三十四話 収容所

 中央の塔の入り口は、まるで地獄の顎のように、黒々とした口を開けていた。外観の荒廃とは裏腹に、内部の通路は奇妙なほど整然としており、壁には正体不明の光を放つ鉱石が埋め込まれ、床には精密な幾何学模様が刻まれている。空気は、ひどく淀んでいた。金属と、嗅いだことのない薬品、そして、微かに血の匂いが混じり合った、冷たい空気が二人の肺を満たす。


「……っ」


 一歩、足を踏み入れた瞬間、カイルは思わず足を止めた。これまで感じていた廃墟全体の禍々しい気配が、塔の内部では、比較にならないほど凝縮されている。そして、その気配の質が、少し違っていた。


 上階から感じるのは、あの「観測者」の、全てを見下すような、冷徹で巨大な思考の響き。だが、それとは別に、この場所には、もう一つの“声”が満ちていた。


 階下からだ。地下の、さらに奥深くから。無数の、混沌とした苦しみに満ちた響きが、まるで沸騰した汚泥のように、せり上がってきている。それは、思考や感情というより、もっとずっと根源的な、ただ純粋な「痛み」そのものの奔流だった。


「レオンさん……下です」


 カイルは、こめかみを押さえながら、声を絞り出した。


「地下から……たくさんの、数えきれないほどの、苦しんでいる声が聞こえます」


 レオンは、上階へと続く、壮麗だが崩れかけた大階段を一瞥し、次に、隅の方にある、地下へと続く、狭く暗い螺旋階段へと視線を移した。彼の顔には、苦々しい表情が浮かんでいる。


 彼は、短く決断した。


「この異臭の元を、まず叩く。背後に何があるかわからんまま、王の首だけを狙うのは愚か者のやることだ」


 二人は、地下へと続く螺旋階段を下りていった。それは、ひどく長く、そして陰鬱な道のりだった。壁は、湿った結露でぬめり、一歩下りるごとに、階下から聞こえてくる、この世のものとは思えぬ呻き声と、そして、カイルにしか聞こえない苦痛の“響き”が、強くなっていく。


 カイルは、必死に「静寂の心」で精神の防壁を張っていた。だが、その壁を、無数の鋭い針が、絶えず突き刺してくるような感覚があった。あまりの精神的な圧力に、呼吸が浅くなり、視界が明滅する。


 どれくらい下りただろうか。螺旋階段は、不意に終わりを告げた。その先に広がっていたのは、広大な、ドーム状の地下空間だった。


 そして、その光景に、カイルは、生まれて初めて、地獄というものを幻視した。そこは、まさしく、悪夢の実験室であり、そして、魂の牢獄だった。


 薄暗い空間に、おびただしい数の鉄格子が、蜂の巣のように並んでいる。その多くは、内側から、凄まじい力で破壊されたかのように、ぐにゃりと歪んでいた。


 床には、どす黒く変色した体液が干からびた染みとなって広がり、錆びついた手術道具や、正体不明の薬品が入っていたであろうガラスの破片が、無数に散らばっている。


 そして、何よりもおぞましいのは、その檻の中にいるモノたちと、既に檻を破って、闇の中を徘徊しているモノたちの姿だった。


「……なんだ、これは……」


 カイルの声は、恐怖に震えていた。それは、キメラだった。二人がかつて戦った、あのキメラの、無数の失敗作たち。熊の胴体に、鳥の足が、あり得ない角度で縫い付けられている。


 狼の頭部に、蛇の体が融合し、互いを喰らい合おうとするかのように、痙攣している。もはや、元の生物が何だったのかさえ判別できない、ただの肉塊と化したモノ。


 その全てが、生きているのだ。


 その瞳には、知性も、闘争心も、何も映っていない。ただ、この世の終わりまで続くかのような、終わりのない苦痛だけが、淀んだ光となって宿っている。


 空間全体に、彼らの絶え間ない呻き声と、壁や床を掻きむしる、不快な音が響き渡っていた。カイルは、もう「静寂の心」を保つことさえできなかった。


 彼の心に、この場所に囚われた、全ての失敗作たちの、純粋で、凝縮された苦痛の全てが、濁流となってなだれ込んできた。


 体が引き裂かれる痛み。


 意識が混ざり合う混乱。


 なぜ自分がこんな姿なのかという、言葉にならない問い。そして、その全ての根底にある、ただ一つの、哀れな願い。


 ――殺してくれ。


 その声なき声が、カイルの魂を、直接鷲掴みにした。彼は、その場に膝から崩れ落ちそうになる。その、瞬間だった。


 闇の中から、一体の失敗作が、二人の存在に気づいた。複数の獣の脚が、ちぐはぐなリズムで床を蹴り、それは、獲物に向かう動きではなかった。ただ、目の前に現れた「動くもの」に対して、その苦痛をぶつけるためだけに、突進してきた。


「――グルルァアアッ!」


 最初に動いたのは、檻を破って徘徊していた、狼と巨大な蜘蛛を無理やり融合させたかのような失敗作だった。その動きには、明確な殺意はない。ただ、目の前に現れた「動くもの」に対して、その内に溜め込んだ、出口のない苦痛をぶつけるためだけに、複数の関節がちぐはぐな音を立てて突進してきた。


 レオンは、即座にその一体を迎え撃つ。彼の剣は、もはや生き物を斬るためのものではなかった。苦しむ獣の急所を正確に見抜き、一瞬でその命を絶つための、外科医のメスのように、冷徹で、正確だった。


 だが、カイルは動けなかった。彼の心に、目の前の怪物が発する、純粋な響きが、濁流となってなだれ込んできていたからだ。


 ――コロシテクレ

 ――イタイ

 ――モウ、ヤメテクレ

 ――クルシイ

 ――コワシテ


 それは、殺意ではない。戦意でもない。ただ、この終わりのない苦痛から解放されたいという、悲痛で、哀れな願いの絶叫。その声を聞いてしまっては、剣を振るうことなど、できるはずもなかった。


「レオンさん、こいつら……!」


 カイルは、悲鳴に近い声を上げた。


「ただ、苦しんでるだけです……! 戦おうなんて、思ってない!」


「感傷に浸るな!」


 レオンの、雷鳴のような叱責が、地下牢全体に響き渡った。彼は、次の一体を斬り伏せながら、カイルのほうを振り返りもせずに叫ぶ。


「ならば、なおのこと、斬れ! 奴らにとって、死こそが唯一の救済だ! それを成し遂げてやることこそが、今の我々にできる、唯一の“慈悲”だ!」


「……っ!」


 慈悲。その言葉が、カイルの心を、鋭く抉った。そうだ。こいつらを、このままこの地獄で生かし続けることこそが、本当の残酷なのだ。ならば、俺がすべきことは、一つしかない。


 カイルは、奥歯を強く、強く、噛み締めた。涙が、頬を伝う。


「……ごめん」


 彼は、誰に言うでもなく、そう呟いた。そして、突進してくる次の一体の前に、震える足で、しかし、確かに立ちはだかった。


 彼は、目を閉じない。相手の、苦痛に歪んだ瞳を、真っ直ぐに見つめ返した。そして、「静寂の心」で、その魂の“響き”に、深く、深く、同調していく。


(わかるよ。苦しいんだな)


 彼の心の水面に、相手の苦痛が、そのままの形で映し出される。そして、彼は、その苦痛の中心――生命活動を辛うじて維持させている、核の部分――を、正確に感じ取った。


「……眠れ」


 カイルの剣が、閃いた。それは、敵を殺すための剣筋ではなかった。苦しむ魂を、その呪われた肉体から解放するためだけの、どこまでも哀しい、一閃だった。


 それから、二人は、黙々と、剣を振り続けた。


 それは、戦いではなかった。


 ただ、この場所に満ちる、終わりのない嘆きの声を、一つ、また一つと、鎮めていくための、悲しい儀式だった。


 カイルが、最後の一体の胸に剣を突き立て、その痙攣が止まった時、地下牢は、ようやく、本当の静寂を取り戻した。


 カイルは、その場に立ち尽くしていた。返り血と、そして、自分の涙で、顔中がぐしょ濡れになっていた。敵の非道さへの燃えるような怒りと、自らが救済の名の下に奪った、数えきれない命への深い哀悼。その二つの相反する感情が、彼の心を張り裂きそうにしていた。


 二人は、実験室の奥へと進んだ。そこには、まだ息のある、最後の一体がいた。檻の中に、蹲っている。


 それは、もはや何の生き物とも呼べないような姿だったが、その瞳には、かつて人間だった頃の、理性の光が、ほんのわずかに残っていた。


 カイルが近づくと、その被験体の心から、最後の思念が、断片的な映像となって流れ込んできた。


 ――白い仮面をつけた、冷たい目の男。“観測者”だ。

 ――体に突き刺さる、灼けるような痛みの“棘”。

 ――そして、観測者の思考。『不完全』『失敗作』『素材の再選定が必要』『目標は、完璧なる生命体』……。


 やがて、その思念の光は、燃え尽きる蝋燭のように、ふっと消えた。カイルは、無言で、檻の隙間から剣を差し入れた。そして、その哀れな魂に、最後の安らぎを与えた。


 実験室の最奥に、上階へと続く、武骨な昇降機が設置されていた。その側には、作業台があり、おびただしい数の観察記録が、羊皮紙の束となって散乱している。


 レオンは、その一枚を拾い上げた。そこには、失敗作たちの苦しむ様子が、まるで昆虫観察日記のような、冷徹で、無機質な文字で克明に記されていた。


「……これを、“進化”と、ぬかすか」


 レオンの声は、地を這うように低かった。カイルは、もう何も感じたくなかった。彼は、ただ、師の後ろについて、昇降機へと乗り込んだ。


 レオンが、壁のレバーを引く。


 ガコン、と重い音を立てて、昇降機の扉が閉まった。地獄のような光景が、鉄の扉の向こう側へと、完全に閉ざされる。


 そして、二人の体は、ゆっくりと、上階へと続く、新たな闇の中へと、持ち上げられていった。

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