第三十三話 亡霊たちの回廊
二人は、まるで一つの生き物のように、滑るようにして「嘆きの尾根」を駆け下りた。眼前に広がるのは、巨大な獣の死骸にも似た、黒々とした廃墟の全景。そこから発せられる悪意の奔流が、肌を刺すように痛い。だが、今のカイルの心にあったのは、恐怖よりも、むしろ、これから為すべきことだけを見据える、冷徹なほどの集中力だった。
エリアスの地図を頼りに、二人は廃墟の外壁に沿って、巨大な瓦礫の山をいくつも乗り越えていく。やがて、目的の場所にたどり着いた。黒く、棘だらけの蔦がカーテンのように覆い隠す、古い地下水路の入り口。鉄格子の扉は、長い年月と、この土地の呪いによって、赤黒く錆びつき、固く閉ざされている。
レオンは、何も言わずに、その鉄格子に手をかけた。
ギ……ギギ……ッ!
彼の腕の筋肉が、鋼のように盛り上がる。錆びついた蝶番が、断末魔のような悲鳴を上げた。
――ガッ、ン!!
凄まじい金属音と共に、扉がこじ開けられる。瞬間、カイルは思わず鼻を覆った。カビと、ヘドロと、そして、何かが腐敗したような、甘く不快な腐臭が、淀んだ空気と共に、まるで生き物のように暗闇から這い出してきたのだ。
レオンは、躊躇わなかった。彼は松明に火を灯すと、その腐臭の只中へと、ためらいなく足を踏み入れた。カイルもまた、意を決してその後に続く。
内部は、完全な暗闇だった。レオンが掲げる松明の炎だけが、唯一の光。その揺らめく光が照らし出したのは、地獄のような光景だった。
壁一面に、黒く、ぬめりを帯びた苔が、まるで内臓のようにびっしりと生えている。足元には、油のように淀んだ黒い水が流れ、時折、正体不明の何かが、その水面を揺らして通り過ぎていく。
カイルは、すぐに「静寂の心」を発動させた。だが、この場所に満ちる響きは、これまで経験したことのないほどに、異質で、不快だった。
(なんだ、これは……)
それは、特定の感情ではない。怒りでも、悲しみでもない。もっと根源的な、生命そのものが腐っていくような、淀んだ気配。まるで、巨大な生物の、腐った腸の中を進んでいるかのようだった。
そして、その淀んだ気配の奥底で、いくつもの、鋭い敵意が、暗闇の中でじっと自分たちを窺っているのを、彼は感じ取っていた。
「レオンさん」
カイルの声は、緊張で張り詰めていた。
「下です。水の中に、三つ。それに、右の壁の亀裂に、二つ。全部、飢えてる」
カイルの感覚は、もはや、この暗闇における唯一の“目”だった。レオンは、その報告だけを頼りに、歩みを止めた。彼は、カイルを背後に庇うように立ち、静かに剣を抜く。
「……来い」
次の瞬間、静かだったはずの水面が、爆発した。
「ギシャアアア!!」
水しぶきと共に、巨大なサンショウウオのような、しかし、目は完全に退化して白い膜に覆われた魔物が、三匹同時に飛びかかってきた。
レオンは、その突進を、岩のように受け止めた。狭い通路を、彼の体躯が、まるで城壁のように塞ぐ。一匹目の顎を剣で貫き、二匹目の爪をいなし、三匹目の尾を足で踏みつける。その一連の動きに、一切の無駄がない。
だが、敵はそれだけではなかった。
「――右、壁から!」
カイルが叫ぶ。レオンは、正面の敵と対峙したまま、振り返ることさえしない。ただ、カイルの言葉だけを信じ、右手の剣を、背後へと突き出すように薙ぎ払った。
「キィッ!」
甲高い悲鳴。壁の亀裂から飛び出してきた、巨大な百足のような魔物が、レオンの剣に正確に貫かれ、絶命していた。師弟の間に、もはや言葉による確認は必要なかった。彼らは、一つの生き物のように、戦っていた。
全ての魔物を仕留めた時、カイルは、自分の呼吸がひどく荒くなっていることに気づいた。だが、休む暇はなかった。
ふと、彼の心の水面に、これまでとは全く質の違う、“波紋”が広がった。それは、飢えや、原始的な敵意ではない。もっとずっと冷たく、整然とした、機械のような“思考”の響き。
「……使徒です」
カイルは、声を潜めた。
「一人、奥から、こちらへ向かってきます」
狭い通路での、あの狂信者との戦闘。それは、絶対に避けなければならなかった。
「隠れる場所は……」
カイルは、必死に周囲の気配を探る。そして、見つけた。左手の壁に、人が一人やっと入れるほどの、小さな横穴がある。
「あそこです!」
レオンは、即座に松明の火を水につけて消した。世界が、完全な闇と沈黙に包まれる。二人は、息を殺して横穴に身を潜めた。腐った水の、冷たい感触が、ブーツを通して伝わってくる。
カイルは、ただひたすらに、使徒の思考の“規則性”を読み続けた。
(……足音の間隔は、常に一定。視線は、前方百八十度を、機械的に往復しているだけ。横穴のような死角には、注意を払っていない)
コツ……コツ……。
使徒の足音が、ゆっくりと近づいてくる。カイルは、自分の心臓の音さえも、敵に聞こえてしまうのではないかと、必死に心を静めた。足音は、二人が隠れる横穴のすぐ前で、数秒間、止まった。
カイルの全身から、冷たい汗が噴き出す。だが、足音は、再び、同じリズムで遠ざかっていった。カイルは、その冷たい思考の“響き”が、完全に聞こえなくなるまで、闇の中で、ただ、じっと耐え続けた。
使徒の気配が完全に遠ざかるまで、二人は闇の中で、石のように動かなかった。カイルの心臓が、耳元でうるさいほどに鳴っている。ほんの数秒間だったが、その時間は、永遠のようにも感じられた。
やがて、レオンが小さな火打石を擦り、再び松明に火を灯した。揺らめく炎が、二人の緊張に強張った顔を照らし出す。
「……行くぞ」
レオンの短い言葉に、カイルはこくりと頷いた。
彼らは、さらに水路の奥へと進んでいく。幸い、それ以上の襲撃はなかった。
やがて、二人の目の前に、上へと続く、錆びついた鉄梯子が現れた。エリアスの地図によれば、この真上が、廃墟のほぼ中心部に位置する、かつての大聖堂の筈だった。
レオンが先に、音を立てないように慎重に梯子を登っていく。カイルも、その後に続いた。鉄格子でできた天蓋を、レオンがゆっくりと持ち上げる。
その瞬間、淀んだ水路の空気とは違う、どこまでも静かで、そして冷え切った、巨大な空間の気配が、カいるの肌を撫でた。二人が這い出した先は、まさしく、巨大な聖堂の残骸だった。
かつては壮麗なステンドグラスが嵌められていたであろう窓枠は、巨大な口を開けたまま、灰色の空を切り取っている。そこから差し込む、弱々しい月のような光が、無数に舞う塵を照らし出し、まるで亡霊の群れのように見えた。
天井は、ほとんどが崩落している。床には、砕けた石の柱や、朽ち果てた長椅子が、巨大な墓石のように散乱していた。そして、何よりも異様なのは、その静けさだった。
風の音さえも、ここでは吸い込まれてしまうかのように、ただ、底なしの沈黙だけが、この広大な空間を支配していた。
カイルは、この場所に満ちる“響き”に、思わず身震いした。それは、水路で感じた腐敗の気配とは違う。もっとずっと古く、そして、深い、悲しみの残響。かつてここで祈りを捧げたであろう、無数の人々の想いが、怨念となってこの場所に染みついているかのようだった。
だが、その古い悲しみを上書きするように、新しくて、冷たい“何か”が、この空間を支配していた。
「……いた」
カイルが、声を潜めて呟いた。広間の奥。かつて祭壇があったであろう場所に、四つの人影。
フードを目深にかぶった、「進化の使徒」たちだった。彼らは、まるで意志を持たない石像のように、広間の四方を向いて、静かに佇んでいる。だが、カイルの“感覚”には、はっきりとわかった。
彼らは、ただ立っているのではない。彼らの意識は、まるで蜘蛛の巣のように、この広間全体に張り巡らされている。そして、その意識の糸は全て、一つの場所へと繋がっていた。
「塔だ」
カイルは、崩れた壁の向こう側に見える、天を突くようにそびえる、折れた中央の塔を見据えた。
「あの塔のてっぺんにいる、“観測者”。あいつが、この四人を操っています」
レオンは、カイルの報告に、静かに頷いた。この広間を横切り、あの中央の塔へ続く通路へ向かわなければならない。だが、そのためには、あの四人の使徒が張り巡らせた、意識の警報網を、突破する必要があった。
正面から戦えば、勝てないことはないだろう。だが、それは、塔の頂にいる「観測者」に、自分たちの到着を派手に知らせることに他ならない。それは、避けなければならなかった。
カイルは、目を閉じ、これまでのどの訓練よりも深く、そして広く、意識を広げた。四人の使徒たちの、冷たい思考の“流れ”を読む。彼らは、機械的に、決められた範囲を、視線と意識で走査している。その連携には、一切の無駄も、乱れもない。完璧な警備網。
だが。
完璧すぎるがゆえに、そこには、ほんのわずかな、しかし、確実な「空白」が生まれていた。
四人の意識が、それぞれ最も遠い範囲を走査し、次の走査へと移る、その一瞬。コンマ数秒の間だけ、広間の中央を斜めに横切る一本の道筋から、全ての意識が、同時に外れる瞬間がある。
カイルは、目を開けた。そして、レオンを見つめ、静かに、しかし、はっきりと頷いた。レオンの目にも、理解したという光が宿る。
彼は、物陰に隠れながら、指で、静かに秒を数え始めた。
五、四、三……。
カイルの心臓が、大きく脈打つ。
二……一……。
「――今だ」
レオンの、声にならないほどの囁きを合図に、二人は同時に物陰から飛び出した。目指すは、広間の対岸。中央の塔へと続く、崩れたアーチ状の入り口。
音を殺し、息を殺し、ただ、駆ける。
瓦礫が、ブーツの下で、じゃり、と嫌な音を立てた。カイルの心臓が、喉元までせり上がってくる。だが、使徒たちは、気づかない。月明かりが差し込む、遮蔽物のない空間を、二つの影が、疾風のように駆け抜けていく。
あと、十歩。五歩。
ついに、アーチ状の入り口の影へと、二人は同時に転がり込んだ。その直後、背後で、使徒たちの意識が、再び彼らが駆け抜けてきた空間を、何事もなかったかのように走査していくのを、カイルは感じていた。
カイルは、荒い息を必死に殺しながら、顔を上げた。目の前には、巨大な塔の入り口が、まるで地獄の顎のように、黒々とした口を開けていた。
「いくら駒を並べようと、王を討ち取れば終わりだ」
隣で、レオンが、静かに、そして、どこか楽しむように、呟いた。カイルは、頷いた。長い旅路の、本当の終着点が、今、目の前にあった。
二人は、視線を交わすと、塔の内部へと続く、深い闇の中へと、その一歩を踏み出した。




