表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
33/39

第三十三話 亡霊たちの回廊

 二人は、まるで一つの生き物のように、滑るようにして「嘆きの尾根」を駆け下りた。眼前に広がるのは、巨大な獣の死骸にも似た、黒々とした廃墟の全景。そこから発せられる悪意の奔流が、肌を刺すように痛い。だが、今のカイルの心にあったのは、恐怖よりも、むしろ、これから為すべきことだけを見据える、冷徹なほどの集中力だった。


 エリアスの地図を頼りに、二人は廃墟の外壁に沿って、巨大な瓦礫の山をいくつも乗り越えていく。やがて、目的の場所にたどり着いた。黒く、棘だらけの蔦がカーテンのように覆い隠す、古い地下水路の入り口。鉄格子の扉は、長い年月と、この土地の呪いによって、赤黒く錆びつき、固く閉ざされている。


 レオンは、何も言わずに、その鉄格子に手をかけた。


ギ……ギギ……ッ!


 彼の腕の筋肉が、鋼のように盛り上がる。錆びついた蝶番が、断末魔のような悲鳴を上げた。


――ガッ、ン!!


 凄まじい金属音と共に、扉がこじ開けられる。瞬間、カイルは思わず鼻を覆った。カビと、ヘドロと、そして、何かが腐敗したような、甘く不快な腐臭が、淀んだ空気と共に、まるで生き物のように暗闇から這い出してきたのだ。


 レオンは、躊躇わなかった。彼は松明に火を灯すと、その腐臭の只中へと、ためらいなく足を踏み入れた。カイルもまた、意を決してその後に続く。


 内部は、完全な暗闇だった。レオンが掲げる松明の炎だけが、唯一の光。その揺らめく光が照らし出したのは、地獄のような光景だった。


 壁一面に、黒く、ぬめりを帯びた苔が、まるで内臓のようにびっしりと生えている。足元には、油のように淀んだ黒い水が流れ、時折、正体不明の何かが、その水面を揺らして通り過ぎていく。


 カイルは、すぐに「静寂の心」を発動させた。だが、この場所に満ちる響きは、これまで経験したことのないほどに、異質で、不快だった。


(なんだ、これは……)


 それは、特定の感情ではない。怒りでも、悲しみでもない。もっと根源的な、生命そのものが腐っていくような、淀んだ気配。まるで、巨大な生物の、腐った腸の中を進んでいるかのようだった。


 そして、その淀んだ気配の奥底で、いくつもの、鋭い敵意が、暗闇の中でじっと自分たちを窺っているのを、彼は感じ取っていた。


「レオンさん」


 カイルの声は、緊張で張り詰めていた。


「下です。水の中に、三つ。それに、右の壁の亀裂に、二つ。全部、飢えてる」


 カイルの感覚は、もはや、この暗闇における唯一の“目”だった。レオンは、その報告だけを頼りに、歩みを止めた。彼は、カイルを背後に庇うように立ち、静かに剣を抜く。


「……来い」


 次の瞬間、静かだったはずの水面が、爆発した。


「ギシャアアア!!」


 水しぶきと共に、巨大なサンショウウオのような、しかし、目は完全に退化して白い膜に覆われた魔物が、三匹同時に飛びかかってきた。


 レオンは、その突進を、岩のように受け止めた。狭い通路を、彼の体躯が、まるで城壁のように塞ぐ。一匹目の顎を剣で貫き、二匹目の爪をいなし、三匹目の尾を足で踏みつける。その一連の動きに、一切の無駄がない。


 だが、敵はそれだけではなかった。


「――右、壁から!」


 カイルが叫ぶ。レオンは、正面の敵と対峙したまま、振り返ることさえしない。ただ、カイルの言葉だけを信じ、右手の剣を、背後へと突き出すように薙ぎ払った。


「キィッ!」


 甲高い悲鳴。壁の亀裂から飛び出してきた、巨大な百足のような魔物が、レオンの剣に正確に貫かれ、絶命していた。師弟の間に、もはや言葉による確認は必要なかった。彼らは、一つの生き物のように、戦っていた。


 全ての魔物を仕留めた時、カイルは、自分の呼吸がひどく荒くなっていることに気づいた。だが、休む暇はなかった。


 ふと、彼の心の水面に、これまでとは全く質の違う、“波紋”が広がった。それは、飢えや、原始的な敵意ではない。もっとずっと冷たく、整然とした、機械のような“思考”の響き。


「……使徒です」


 カイルは、声を潜めた。


「一人、奥から、こちらへ向かってきます」


 狭い通路での、あの狂信者との戦闘。それは、絶対に避けなければならなかった。


「隠れる場所は……」


 カイルは、必死に周囲の気配を探る。そして、見つけた。左手の壁に、人が一人やっと入れるほどの、小さな横穴がある。


「あそこです!」


 レオンは、即座に松明の火を水につけて消した。世界が、完全な闇と沈黙に包まれる。二人は、息を殺して横穴に身を潜めた。腐った水の、冷たい感触が、ブーツを通して伝わってくる。


 カイルは、ただひたすらに、使徒の思考の“規則性”を読み続けた。


(……足音の間隔は、常に一定。視線は、前方百八十度を、機械的に往復しているだけ。横穴のような死角には、注意を払っていない)


 コツ……コツ……。


 使徒の足音が、ゆっくりと近づいてくる。カイルは、自分の心臓の音さえも、敵に聞こえてしまうのではないかと、必死に心を静めた。足音は、二人が隠れる横穴のすぐ前で、数秒間、止まった。


 カイルの全身から、冷たい汗が噴き出す。だが、足音は、再び、同じリズムで遠ざかっていった。カイルは、その冷たい思考の“響き”が、完全に聞こえなくなるまで、闇の中で、ただ、じっと耐え続けた。


 使徒の気配が完全に遠ざかるまで、二人は闇の中で、石のように動かなかった。カイルの心臓が、耳元でうるさいほどに鳴っている。ほんの数秒間だったが、その時間は、永遠のようにも感じられた。


 やがて、レオンが小さな火打石を擦り、再び松明に火を灯した。揺らめく炎が、二人の緊張に強張った顔を照らし出す。


「……行くぞ」


 レオンの短い言葉に、カイルはこくりと頷いた。

 彼らは、さらに水路の奥へと進んでいく。幸い、それ以上の襲撃はなかった。


 やがて、二人の目の前に、上へと続く、錆びついた鉄梯子が現れた。エリアスの地図によれば、この真上が、廃墟のほぼ中心部に位置する、かつての大聖堂の筈だった。


 レオンが先に、音を立てないように慎重に梯子を登っていく。カイルも、その後に続いた。鉄格子でできた天蓋を、レオンがゆっくりと持ち上げる。


 その瞬間、淀んだ水路の空気とは違う、どこまでも静かで、そして冷え切った、巨大な空間の気配が、カいるの肌を撫でた。二人が這い出した先は、まさしく、巨大な聖堂の残骸だった。


 かつては壮麗なステンドグラスが嵌められていたであろう窓枠は、巨大な口を開けたまま、灰色の空を切り取っている。そこから差し込む、弱々しい月のような光が、無数に舞う塵を照らし出し、まるで亡霊の群れのように見えた。


 天井は、ほとんどが崩落している。床には、砕けた石の柱や、朽ち果てた長椅子が、巨大な墓石のように散乱していた。そして、何よりも異様なのは、その静けさだった。


 風の音さえも、ここでは吸い込まれてしまうかのように、ただ、底なしの沈黙だけが、この広大な空間を支配していた。


 カイルは、この場所に満ちる“響き”に、思わず身震いした。それは、水路で感じた腐敗の気配とは違う。もっとずっと古く、そして、深い、悲しみの残響。かつてここで祈りを捧げたであろう、無数の人々の想いが、怨念となってこの場所に染みついているかのようだった。


 だが、その古い悲しみを上書きするように、新しくて、冷たい“何か”が、この空間を支配していた。


「……いた」


 カイルが、声を潜めて呟いた。広間の奥。かつて祭壇があったであろう場所に、四つの人影。


 フードを目深にかぶった、「進化の使徒」たちだった。彼らは、まるで意志を持たない石像のように、広間の四方を向いて、静かに佇んでいる。だが、カイルの“感覚”には、はっきりとわかった。


 彼らは、ただ立っているのではない。彼らの意識は、まるで蜘蛛の巣のように、この広間全体に張り巡らされている。そして、その意識の糸は全て、一つの場所へと繋がっていた。


「塔だ」


 カイルは、崩れた壁の向こう側に見える、天を突くようにそびえる、折れた中央の塔を見据えた。


「あの塔のてっぺんにいる、“観測者”。あいつが、この四人を操っています」


 レオンは、カイルの報告に、静かに頷いた。この広間を横切り、あの中央の塔へ続く通路へ向かわなければならない。だが、そのためには、あの四人の使徒が張り巡らせた、意識の警報網を、突破する必要があった。


 正面から戦えば、勝てないことはないだろう。だが、それは、塔の頂にいる「観測者」に、自分たちの到着を派手に知らせることに他ならない。それは、避けなければならなかった。


 カイルは、目を閉じ、これまでのどの訓練よりも深く、そして広く、意識を広げた。四人の使徒たちの、冷たい思考の“流れ”を読む。彼らは、機械的に、決められた範囲を、視線と意識で走査している。その連携には、一切の無駄も、乱れもない。完璧な警備網。


 だが。


 完璧すぎるがゆえに、そこには、ほんのわずかな、しかし、確実な「空白」が生まれていた。


 四人の意識が、それぞれ最も遠い範囲を走査し、次の走査へと移る、その一瞬。コンマ数秒の間だけ、広間の中央を斜めに横切る一本の道筋から、全ての意識が、同時に外れる瞬間がある。


 カイルは、目を開けた。そして、レオンを見つめ、静かに、しかし、はっきりと頷いた。レオンの目にも、理解したという光が宿る。


 彼は、物陰に隠れながら、指で、静かに秒を数え始めた。


 五、四、三……。


 カイルの心臓が、大きく脈打つ。


 二……一……。


「――今だ」


 レオンの、声にならないほどの囁きを合図に、二人は同時に物陰から飛び出した。目指すは、広間の対岸。中央の塔へと続く、崩れたアーチ状の入り口。


 音を殺し、息を殺し、ただ、駆ける。


 瓦礫が、ブーツの下で、じゃり、と嫌な音を立てた。カイルの心臓が、喉元までせり上がってくる。だが、使徒たちは、気づかない。月明かりが差し込む、遮蔽物のない空間を、二つの影が、疾風のように駆け抜けていく。


 あと、十歩。五歩。


 ついに、アーチ状の入り口の影へと、二人は同時に転がり込んだ。その直後、背後で、使徒たちの意識が、再び彼らが駆け抜けてきた空間を、何事もなかったかのように走査していくのを、カイルは感じていた。


 カイルは、荒い息を必死に殺しながら、顔を上げた。目の前には、巨大な塔の入り口が、まるで地獄の顎のように、黒々とした口を開けていた。


「いくら駒を並べようと、王を討ち取れば終わりだ」


 隣で、レオンが、静かに、そして、どこか楽しむように、呟いた。カイルは、頷いた。長い旅路の、本当の終着点が、今、目の前にあった。


 二人は、視線を交わすと、塔の内部へと続く、深い闇の中へと、その一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ