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第三十二話 黒の地平線

 宿場町を後にしてから、さらに十日が過ぎた。もはや、二人が旅する大地に、かつて生命があった頃の面影は、どこにも残っていなかった。


 空は、分厚い雲に覆われ、太陽は、その存在をかろうじて示すだけの、白く滲んだ染みと化している。大地は、黒い砂利と、風化した獣の骨のような白い岩肌だけが、どこまでも続いていた。時折、雷に打たれた巨人の骸のように、黒く炭化した枯れ木が空に向かって歪んだ枝を伸ばしているが、そこに葉が茂っていた時代があったことなど、到底信じられないような光景だった。


 音は、ない。


 鳥も、虫も、獣も、その全てが死に絶えたか、あるいはこの呪われた土地から逃げ去ってしまった。聞こえるのは、常に吹き付ける、乾いた風の音だけ。その風さえも、草木の匂いではなく、鉄が錆びるような、冷たい匂いを運んでくるだけだった。


 カイルは、その死の世界を、ただ黙々と歩き続けた。彼の内なる水面は、静まり返っていた。大地から聞こえてくるはずの、生命の“鼓動”が完全に沈黙している今、彼の心は、かつてないほどの静寂を保っていた。だが、それは安らかな静寂ではなかった。生命の不在がもたらす、底なしの虚無。それは、彼が求めていた「静寂の心」とは、似て非なる、ひどく物悲しい境地だった。


 そして、その静寂を、常に揺さぶり続けるものがあった。地平線の、遥か北の彼方から、絶えず押し寄せてくる、巨大な波動。


 それは、もはや単一の感情ではなかった。数百年、あるいは千年以上の時をかけて蓄積された、無数の魂の苦痛と、憎悪と、そして絶望が、一つの巨大な悪意の塊となって、彼の精神の盾を、絶えず叩き続けていた。


 最初の数日は、その圧力だけで嘔吐しそうになった。だが、今では、彼はその中で平静を保つことに慣れていた。それは、嵐の海で船の上に立ち続ける船乗りのような、ぎりぎりのバランス感覚だった。


「見えるか」


 不意に、前を歩いていたレオンが足を止め、丘の上の一点を指さした。


「あれが、地図にあった最後の目印。“嘆きの尾根”だ」


 その言葉に、カイルは顔を上げた。ここ数日、ほとんど口を開かなかった師の声。その声が、旅の終わりが近いことを、彼に告げていた。


 ⻑い旅路の果てに、二人はついに、その尾根の上に立った。吹き上げてくる風は、これまで以上に冷たく、そして鋭かった。カイルは、風に煽られないよう、足を踏ん張る。そして、レオンが見据える、北の彼方へと、視線を向けた。


 その瞬間、カイルは、息をすることを忘れた。眼下に広がっていたのは、まさしく、絶望そのものを具現化したかのような光景だった。


 巨大な盆地の底に、かつてそこにあったであろう、巨大な都市の残骸が、黒い影のように広がっている。天を突くほどの高さがあったであろう中央の塔は、まるで神の怒りに触れたかのように、半ばから無残に折れていた。城壁は崩れ落ち、無数の建物が、巨大な獣の牙に噛み砕かれたかのように、瓦礫の山と化している。


 だが、異常なのは、その荒廃の様だけではなかった。廃墟の全てが、黒い“何か”に覆われているのだ。


 それは、植物のようでもあり、菌類のようでもあった。黒い苔が、石の壁を脈打つ血管のように覆い尽くし、黒い蔦が、折れた塔に、まるで死者の髪の毛のように絡みついている。それらは、ただそこに在るのではない。生きている。そして、この廃墟そのものを、ゆっくりと、しかし確実に、喰らい尽くしている。


 そして、折れた中央の塔の最上部からは、陽炎のように、ゆらり、と黒い瘴気が立ち上っていた。あれが、この土地全体の生命を吸い上げ、死に至らしめている、呪いの元凶。


 カイルは、その圧倒的なまでの絶望の光景と、そこから発せられる、これまでとは比較にならないほど強大な負の感情の奔流に、立っていることさえままならなかった。頭を殴られたような衝撃。魂が、その場所に囚われて、引きずり込まれそうになる。


 彼は、思わず地面に手をついた。だが、レオンは、微動だにしていなかった。彼は、まるで石像のように、ただ、その場に立ち尽くし、眼下の廃墟を、黙って見つめていた。


 その横顔に浮かんでいるのは、カイルがこれまで一度も見たことのない、深い、深い感情の渦だった。


 カイルの“感覚”が、それを捉える。


 師の心の水面が、激しく波立っている。それは、今目の前に広がる脅威への怒りではない。もっとずっと古い、彼の魂の奥深くに刻み込まれた、巨大な傷跡。


 仲間を失った、深い悲しみ。何もできなかった、無力な自分への、燃えるような怒り。そして、二度とこの場所へは戻るまいと誓ったはずの、過去との再会。


 その全てが、嵐となって、彼の静かな心の中で吹き荒れていた。カイルは、初めて、師が背負うものの、その本当の重さを垣間見た気がした。


 ここは、ただの敵の本拠地ではない。ここは、レオンにとっての、墓場なのだ。風が、二人の間を、まるで亡者の嗚咽のように吹き抜けていく。


 どれくらいの時間、そうしていただろうか。カイルが、凍りついたように動けないでいると、隣に立つレオンの気配が、わずかに変わった。


 彼から発せられていた、過去への追憶と、静かな怒りの嵐。それが、すっと、凪いでいく。カイルが顔を上げて師の横顔を見ると、そこに浮かんでいたのは、もはや感傷ではなかった。ただ、これから為すべきことだけを見据える、戦士の顔だった。


「行くぞ」


 レオンは短く言うと、カイルを促し、廃墟から姿を隠せる岩陰へと移動した。そこは、最後の野営地とするには、うってつけの場所だった。


「敵は、我々の存在に、まだ気づいていないかもしれん。だが、この土地全体が、奴らの庭だ。既に気づいていると考えるべきだ」


 レオンは、焚き火も起こさず、冷たい岩肌にエリアスの地図を広げた。その声は、冷徹で、一切の感情を排した、指揮官のものだった。


「正面から行けば、犬死にするだけだ。エリアスの地図によれば、ここから尾根の西側を回り込んだ先に、古い地下水路の入り口がある。おそらく、今はもう忘れ去られているはずだ。そこから、内部に潜入する」


 彼は、地図上の一点を、指先で強く示した。


「内部に入れば、俺が物理的な脅威を引き受ける。お前は、俺の背後で、その“感覚”を研ぎ澄ませ。二人で、一つの目と耳になるんだ」


 レオンは、地図から顔を上げ、カイルの目を見た。


「いいか、カイル。廃墟全体に広がる、この巨大な悪意の奔流の中から、敵の中心核――観測者の居場所を探り当てろ。それが、お前の役目だ」


「はい!」


 カイルは、力強く頷いた。自分は、ただ師に守られるだけの弟子ではない。この作戦の成否を分ける、重要な一部なのだ。その責任の重さが、彼の恐怖を、武者震いへと変えていった。作戦会議を終え、二人がしばしの休息をとろうとした時だった。


「レオンさん」


 カイルが、意を決して口を開いた。


「潜入する前に、俺の力で、少しだけ中の様子を探ってみます」


 レオンは、わずかに眉を上げたが、何も言わずに頷いた。カイルは、再び尾根の上に戻ると、風の当たらない場所に静かに座り、目を閉じた。「静寂の心」。彼の意識が、ゆっくりと、しかし確実に、自分の内なる水面の、そのさらに奥深くへと沈んでいく。


 そして、彼はその研ぎ澄まされた意識を、一羽の鳥のように、眼下に広がる黒い廃墟へと、解き放った。


 ――来た。


 最初に感じたのは、無数の、苦痛の叫びだった。廃墟の下層部を徘徊しているであろう、「魂の棘」を埋め込まれた異形の魔物たち。その魂が、絶えず苦痛の不協和音を奏でている。


 次に、規則正しい、冷たい“響き”を感じた。機械のように廃墟の各所を巡回している、「進化の使徒」たちだ。彼らの心には感情がなく、ただ、与えられた命令を遂行するためだけの、冷徹な思考だけが、時計の針のように時を刻んでいる。


 カいるは、それらのノイズを全て聞き流し、意識をさらに深く、廃墟の中心へと集中させた。黒い瘴気が立ち上る、折れた塔の最上階。


 そこに、それはいた。


 ひときわ巨大で、冷徹で、そして、まるで宇宙の深淵を覗き込むかのような、絶対的な一つの意識。それは、もはや人間の思考ではなかった。ただ、全てを分析し、観察し、そして、見下している、純粋な知性体。


 間違いなく、「観測者」だ。カイルが、その中心核の意識に、そっと触れた、その瞬間だった。


「――見つけた」


 言葉ではない。思考の奔流が、カウンターのように、カイルの精神に直接流れ込んできた。それは、冷たい好奇心に満ちていた。迷路に迷い込んだ鼠を、上から眺めるような、愉悦の色さえあった。


「……っ!」


 カイルは、まるで雷に打たれたかのように、弾かれたように意識を現実へと引き戻した。彼は、岩陰で待つレオンのもとへ、転がるように駆け下りる。


「気づかれました! 俺たちのことを、待っています!」


 その絶望的な報告に、しかし、レオンは動じなかった。それどころか、彼の口元には、まるで獲物を追い詰めた狩人のような、獰猛な笑みさえ浮かんでいた。


「好都合だ」


 彼は、ゆっくりと立ち上がった。


「これで、相手も待ち構えるしかなくなった。余計な罠を仕掛ける余裕も与えん」


 カラン、と乾いた音を立てて、レオンは腰の剣を抜き放った。夜明け前の、最も深い闇の中、黒々とした廃墟のシルエットが、巨大な獣のように、眼前に横たわっている。

「行くぞ、カイル」


 その声は、静かだったが、戦いの始まりを告げる、鬨の声のように響き渡った。

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