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第三十一話 荒野の旅路、再び

 偽りの楽園を後にしてから、何日が過ぎただろうか。


 カイルは、もう日数を数えるのをやめていた。ただ、目の前に伸びる、終わりのない道を歩くだけだ。朝日が昇れば目を覚まし、乾いたパンと燻製肉を腹に入れ、日が暮れるまで歩き、そして、岩陰で眠る。その繰り返し。


 二人の間に、会話はほとんどなかった。それは、気まずいからではなかった。レオンは、カイルが自らの決断の重みと向き合うための、静かな時間を与えてくれていた。そしてカイルは、その沈黙の中で、必死に自分の心と対話していた。


(俺のしたことは、正しかったのだろうか)


 その問いは、まるで亡霊のように、彼の思考に付きまとった。目を閉じれば、今も思い出す。自分たちが去った後の、あの村の混沌を。


 泣き叫ぶ子供の声。怒りに顔を歪めて、互いを罵り合う男たちの声。そして、失われた偽りの幸福を嘆く、老婆のすすり泣き。


 彼が村にもたらしたのは、「解放」などという綺麗なものではなかった。ただ、痛みを伴う、厄介で、ままならない「現実」だけだった。


 あの平穏な無知の中で、彼らは幸福だったのではないか。自分は、ただの独善で、彼らのささやかな楽園を破壊しただけの、傲慢な闖入者だったのではないか。


 その問いが、鉛のように、彼の足取りを重くする。旅路は、彼の内面を映し出すかのように、日増しにその厳しさを増していった。


 緑という色は、もう世界のどこにも見当たらなかった。空は、常に白んだ灰色に覆われ、大地は、風化した獣の骨のような、白い岩肌を晒している。時折生えている木々は、どれも黒く焼け焦げたかのように、生命の気配を失っていた。


 風は、常に二人の体を叩きつけた。それは、ただ冷たいだけではなかった。まるで、この土地に蓄積された、無数の嘆きや怨念を運んでくるかのように、ひどく重く、そして物悲しい音を立てて吹き荒れた。


 カイルは、歩きながら、常に「静寂の心」を保っていた。だが、その目的は、以前とは少し違っていた。敵の気配を探るためではない。自分自身の内側から、嵐のように湧き上がってくる後悔と疑念の感情に、呑み込まれてしまわないようにするためだった。


 彼は、心の水面に浮かび上がる、あの村の光景を、ただ、見つめる。


 泣き叫ぶ子供。その波紋を、見つめる。

 言い争う男たち。その波紋を、見つめる。

 涙にくれる老婆。その波紋を、見つめる。


 そして、それらが自然に消えていくのを、ただ、ひたすらに待つ。それは、痛みを伴う、苦しい修練だった。


 ⸻


 ある日の夜、二人は巨大な岩がくり抜かれたような、天然の洞窟で野営をしていた。焚き火の炎だけが、この荒涼とした世界で、唯一の温かい色を持っていた。


 レオンは、いつものように黙々と剣の手入れをしている。その姿は、まるで世界の成り立ちそのもののように、不変で、揺るぎなかった。


 カイルは、その師の背中を見ながら、ぼんやりと考えていた。レオンさんなら、あの時、どうしただろうか。彼もまた、自分と同じように、あの偽りの楽園を破壊しただろうか。あるいは、もっと違う、賢明な答えを持っていたのだろうか。


 わからない。


 だが、彼が、自分の決断を尊重してくれたことだけは、事実だった。あの時、レオンは、全ての責任をカイルに委ねた。それは、彼に対する、師としての信頼の証だったのかもしれない。


(だとしたら、俺は……この重さから、逃げちゃいけないんだ)


 カイルは、ゆっくりと目を閉じた。そして、これまでのどの訓練よりも深く、自分の内側へと、意識を沈めていった。


 彼は、心の水面に浮かぶ、あの村の混沌とした光景を、もう一度、正面から見据えた。


 泣き声、怒声、嘆き。それらの波紋が、彼の心を激しく揺さぶる。だが、今度は、彼はただそれを見送るだけではなかった。


 その波紋の、さらに奥深く。その源泉へと、意識を集中させた。


 ――なぜ、子供は泣くのだろう。


 痛いからだ。母親に、助けてほしいからだ。それは、生きている証だ。


 ――なぜ、男たちは言い争うのだろう。


 自分の正義を、信じているからだ。生活が、懸かっているからだ。それは、必死に生きようとしている証だ。


 ――なぜ、老婆は嘆くのだろう。


 失われたものの温かさを、知っているからだ。それは、心を失くしてはいなかった、という証だ。それらは全て、不格好で、厄介で、そして、どうしようもなく、人間らしい感情のほとばしりだった。


 偽りの幸福の中では、決して生まれることのなかった、本物の生命の輝きだった。


 カイルは、気づいた。


 自分は、彼らに苦しみを与えたのではない。ただ、彼らが本来持っていたはずの、人間らしさを、取り戻させただけなのだと。


 その先に待つのが、幸福か、あるいは不幸か。それは、彼ら自身が決めていくことだ。自分にできるのは、ただ、その選択の自由を、彼らに返すことだけだった。


 そう思い至った瞬間、カイルの心を縛っていた、重い枷が、ふっと、音もなく外れたような気がした。


 罪悪感が、消えたわけではない。あの村の光景は、おそらく一生、彼の心から消えることはないだろう。


 だが、それはもう、彼を苛む亡霊ではなかった。彼が、自らの意志で背負っていくべき、一つの傷跡に変わっていた。カイルが、ゆっくりと目を開ける。焚き火の炎が、彼の瞳の中で、静かに揺れていた。


「……顔つきが変わったな」


 不意に、レオンが言った。彼は、いつの間にか剣の手入れを終え、こちらを静かに見ていた。


「え……」


「背負うべきものの重さを、ようやく理解した顔だ」


 レオンは、それ以上何も言わなかった。だが、その言葉は、どんな慰めよりも、カイルの心に深く染み渡った。


 カイルは、焚き火の向こうに広がる、北の夜空を見上げた。道はまだ、厳しく、荒涼としている。敵は、まだ、その姿さえもはっきりとしない。


 だが、彼の心は、旅立つ前よりも、ずっと静かで、そして、強くなっていた。彼は、自分が背負うと決めた傷跡の、その確かな重みを、どこか誇らしい気持ちで、受け止めていた。

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