第三十話 苦悩
「どうする、カイル。これが、奴らの言う進化の一つの形かもしれんぞ」
レオンの問いが、夜の静寂の中に、重く、そして冷たく響き渡った。
カイルは答えることができなかった。彼の目の前で、大樹の根に寄生した“棘の亜種”が、心臓のように、穏やかな光を脈打たせている。その光の波紋が広がるたびに、村全体が偽りの幸福感に満たされていくのが、彼の“感覚”にはわかった。
彼は、視線を村へと向けた。
どの家も、静かな寝息に包まれている。そこに住む人々は、おそらく、悪夢を見ることさえないのだろう。苦しみも、悲しみも、不安も、怒りも、嫉妬もない。ただ、穏やかで、平坦で、満ち足りた夢だけを見続けている。
それは、一つの楽園の形なのかもしれない。苦しみから解放された、究極の平穏。自分は、それを壊す権利があるのだろうか。この村の人々を、再び、あの荒涼とした北の地で生きるという、厳しい現実の苦しみの中へと、引きずり戻す権利が。
カイルの脳裏に、様々な人々の顔が浮かんだ。必死に生きる「灰色の丘」の猟師たち。白鹿亭で、夫の体を案じ、旅人の無事を祈る、エイダの温かい心。不器用な優しさで、自分たちの旅を支えてくれた、ベルトルドの無骨な背中。
彼らの心には、常に不安や、苛立ちや、悲しみがあった。だが、それがあったからこそ、彼らの優しさや喜びは、本物の輝きを放っていたのだ。
カイルは、目の前の村人たちの、あの均一な、のっぺりとした笑顔を思い出す。
あれは、生きていない。ただ、幸福という夢を見せられているだけだ。人間が、人間であるということは、苦しむ権利でもあるのかもしれない。悲しみ、怒り、絶望する。その自由さえも奪い去ることこそが、最大の冒涜なのではないか。
カイルは、ゆっくりと顔を上げた。
彼の心は、定まっていた。
「楽園なんかじゃ、ありません」
その声は、静かだったが、鋼のような硬い意志が宿っていた。
「これは、ただの、綺麗な檻です。魂を、殺すための」
彼は、レオンの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「悲しいことや、辛いことがあるから、人は優しくなれるんだと、俺は思います。それを全部取り上げてしまったら、もう、人間じゃない。俺は……そんな世界を守るために、剣を握ったわけじゃありません」
レオンは、何も言わなかった。ただ、カイルの言葉を、その瞳の奥で、静かに受け止めていた。
「……俺が、やります」
カイルはそう言うと、レオンが止めるより先に、自らの剣を抜き放った。彼は、大樹の根元で青白い光を放つ、呪われた寄生木へと向き直る。
一瞬、ためらいが心をよぎる。これを壊せば、この村の偽りの平穏は、完全に終わる。自分は、これから、この村の人々から、幸福な夢を奪い去るのだ。
だが、彼はその迷いを、強く振り払った。
「――っ!」
短い気合と共に、カイルは剣を振り下ろした。鋼の刃が、“棘”の中心を正確に捉える。
――パリンッ!
ガラスが砕けるような、甲高い音が響いた。
次の瞬間、“棘”はまばゆい光を放ち、まるで最期の悲鳴を上げるかのように、甲高い音――いや、音ではない、無数の幸福な感情が凝縮されたような精神的な叫び――を、カイルの頭の中に直接叩きつけてきた。
「ぐ、あああっ!」
カイルはその場に膝をつく。だが、その光と叫びは、ほんの一瞬で、まるで陽炎のように掻き消えた。
後には、砕け散って黒い砂と化した“棘”の残骸と、これまで村全体を覆っていた、あの平坦な幸福の波動が、嘘のように消え失せた、完全な静寂だけが残された。
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二人は、夜が明けるのを、村を見下ろせる少し離れた丘の上で待った。
やがて、東の空が白み始め、村の家々の煙突から、朝食の支度をする煙が立ち上り始める。いつもと同じ、穏やかな村の朝の光景。
だが、その日は、何かが決定的に違っていた。最初に聞こえてきたのは、赤ん坊の、火が付いたような泣き声だった。
これまで、この村では決して聞こえることのなかった、生命力に満ちた、けたたましい泣き声。それを合図にしたかのように、村のあちこちから、様々な「人間」の音が、溢れ出し始めた。
「なんで俺の畑に断りもなく入るんだ!」
「あんたこそ、昨日貸した金をまだ返してもらってないだろう!」
些細なことで言い争う、男たちの怒声。
「ああ、どうしよう。パンを焦がしちまった……」
小さな失敗を嘆く、女のため息。
そして、昨日、膝を擦りむいても笑っていた少年が、母親に「痛いよお」と、大声で泣きじゃくる声。
村は、「人間らしさ」を取り戻していた。それは同時に、偽りの「平穏」の、完全な終わりでもあった。
カイルは、その光景を、ただ黙って見つめていた。彼の心の水面には、今、混乱と、怒りと、悲しみと、後悔と、そして、生きている人間の、どうしようもなく厄介で、そして、愛おしい感情の波紋が、嵐のように広がっていた。
レオンが、彼の隣に立った。
「行くぞ」
その声に、促される。カイルは、一度だけ、混沌が始まった村を、深く、深く、目に焼き付けた。
自分たちの行いは、本当に正しかったのだろうか。その問いの答えは、まだ、見つからない。おそらく、永遠に見つかることはないのかもしれない。
カイルは、その重い問いを、自らが背負うべき十字架として、静かに受け入れた。守るべき「日常」とは、決して、絵に描いたような美しいだけの楽園ではない。
時にはいがみ合い、時には涙を流し、それでも、必死に生きていく。その、どうしようもなく厄介で、不格好で、しかし、かけがえのない営みそのものなのだと。
彼は、この旅に出て、初めて、その本当の意味を知った。二人は、混沌が始まった村に背を向け、再び、北へと続く、荒涼とした道へと足を踏み出す。
カイルの足取りは、これまでのどの旅よりも、ずしりと重かった。だが、その瞳には、昨日よりもずっと強く、そして深い光が宿っていた。




