第三話 旅の始まり
夜が明けた。鳥のさえずりが、まだ冷たい朝靄の中に澄んで響いていた。昨夜の喧騒が嘘のように、村は静けさを取り戻している。人々はそれぞれの家に戻り、眠りにつき、そして今、徐々に新しい一日を始めようとしていた。
レオンは簡素な宿で目を覚ますと、慣れた手つきで腰の剣を確かめた。年季の入った鞘が、静かに音を立てる。老人の目は眠りから覚めてもなお曇らず、戦場で研ぎ澄まされた気配をそのまま保っている。
「……さて、今日から旅路だな」
低く呟き、窓の外に目を向ける。朝日が東の空を染め始め、雲の切れ間から差す光が畑や家並みを金色に照らしていた。
外では、カイルが背中に小さな荷を背負い、きょろきょろと落ち着かない様子で村の広場に立っていた。まだ幼さの残る顔に、不安と期待が入り混じった影が見える。
「カイル」
背後から声がかかった。村長だ。昨夜と同じく落ち着いた顔だが、その目はどこか寂しげだった。
「父さん……」
カイルは姿勢を正した。
村長は彼を見つめ、しばし言葉を探すように間を置いてから口を開いた。
「お前がこの村を離れると聞いて、驚きもしたが……あの方の傍にいれば、きっと多くを学べるだろう。だがな、忘れるな。力を得るのは目的じゃない。お前が望むのは――村を守ることだろう?」
その言葉に、カイルの胸がじんと熱くなった。
「はい……僕、強くなりたいんです。剣も、心も。村を守れる人になりたい。あの夜みたいに、誰かが傷つくのを、もう見ていたくないんです」
村長は頷き、皺の刻まれた手でカイルの肩を軽く叩いた。
「ならば、恐れずに行け。だが、焦るな。守るというのは剣を振るうことだけじゃない。時に言葉で、時に知恵で、そして何より人の心で守るものだ。それを忘れるな」
その言葉は、穏やかでありながらも重かった。カイルは拳を握り、ぐっと力を込めてうなずいた。
「必ず……必ず学んできます。そして、いつか村に帰ってきて、胸を張って守れる人間になります!」
村長はふっと微笑み、少年の頭を軽く撫でた。
「その日を待っておるよ」
そう言って背を向けた村長の姿は、父のようにも見えた。
村を出てしばらくすると、畑が広がり、やがて森の小道へと続いた。草の匂い、遠くでせせらぐ水の音。まだ朝の冷気が残っているが、歩を進めるごとに陽が差し込み、身体を温めていった。
レオンは黙々と歩きながらも、時折振り返ってカイルを確かめる。少年は小走りで追いかけ、必死に歩調を合わせている。
「……ふむ。少しは根性があるようだな」
レオンがぼそりとつぶやくと、カイルは顔を上げて苦笑した。
「まだ始まったばかりですし……でも、足がもうちょっと痛いです」
「当たり前だ。旅とはそういうものだ」
レオンは笑わなかったが、その声音は柔らかかった。しばらく沈黙が続いた後、レオンが不意に口を開いた。
「カイル。お前は村を守りたいと言ったな。ならば問うが……お前にとって守るとは、どういうことだ?」
カイルは歩みを緩め、考え込んだ。
「……僕にとって守るっていうのは、誰も傷つけさせないことです。家族も、友達も、村の人も。あの日、魔物が来て、怖くて震えて……でも、レオンさんが戦ってくれて、皆が助かった。僕も、ああなりたいって思いました」
その真っ直ぐな言葉に、レオンの眼差しが鋭さを帯びる。
「なるほどな。だが、ひとつ教えておこう。守るというのは、剣だけではできん」
「え……?」
カイルはきょとんとした。レオンは歩みを止め、木漏れ日の差す森の中で振り返る。
「剣は最後の手段だ。だが村を守るには、他にも必要なものがある。知恵、仲間、そして己の心の強さだ」
カイルは息を呑んだ。
「知恵……仲間……心……」
「そうだ。剣を振るうだけでは、人は救えん。時に逃げる判断をしなければならん時もある。時に、言葉で争いを避けることも必要だ。お前が本当に守りたいなら、そのすべてを身につけねばならん」
レオンの声は厳しいが、そこに嘲りはなく、ただ真実だけがあった。
「でも……どうすればいいんでしょう?」
カイルは俯きながら尋ねる。
レオンは少し間を置いてから答えた。
「答えは簡単だ。旅をすることだ」
「旅……」
「そうだ。見知らぬ土地を歩き、見知らぬ人と出会い、時に敵と戦い、時に食を共にする。そのすべてが学びになる。お前が夢見る“守れる人間”になる道は、歩みの先にしかない」
カイルの胸に、その言葉は深く刻まれた。
「……はい! 僕、どんなことがあっても、この旅で学びます!」
その声に、レオンは小さく頷き、また前を向いて歩き出した。
昼を過ぎ、二人は小さな丘に登った。そこからは、広大な草原と遠く連なる山脈が見渡せる。金色に揺れる草原は風に波打ち、遥かな旅路の始まりを示しているかのようだった。カイルは思わず立ち止まり、目を輝かせた。
「すごい……あんなに遠くまで道が続いてる……!」
レオンは隣に立ち、静かに言った。
「これから先、お前は数え切れぬ景色を目にするだろう。美しいものも、恐ろしいものもな。だが、それらすべてが、お前を強くする」
カイルは真剣な顔で頷いた。
「僕……必ず未来を掴みます。そして、村を守れる人になります」
老人は横目で少年を見やり、ほんのわずかに口元をほころばせた。
「ならば歩け、カイル。道は果てしなくとも、一歩ずつ進めば必ず辿り着ける」
そうして二人は、風に吹かれながら丘を下り、新たな旅路へと足を踏み出した。