第二十九話 偽りの平穏
北へ向かう旅が、二週間目に差し掛かった頃だった。
世界から、色が失せて久しかった。空は、まるで洗い忘れた汚れた布のように、常に白んだ灰色に覆われている。大地は、痩せた土と、風化した岩肌を無愛想に晒すばかり。時折見かける木々は、どれも北風に痛めつけられた拷問者のように、苦しげに枝を捻じ曲げていた。
大地から聞こえてくる生命の鼓動は、もうほとんど聞こえない。この世界は、ゆっくりと、しかし確実に、死に向かっている。その事実だけが、二人の旅路に、重たい沈黙の影を落としていた。
食料も、そろそろ心許なくなってきた。そんな折だった。低い丘を越えた瞬間、二人の目の前に、信じられないような光景が広がったのは。
「……村?」
カイルは、思わず呟いた。そこには、周囲の荒涼とした風景とは全く不釣り合いなほど、生命力に満ち溢れた、一つの村が佇んでいたのだ。
痩せた大地にぽっかりと空いた、奇跡のような窪地。そこに、村はあった。家々の壁は綺麗に白く塗られ、屋根は真新しい赤茶色の瓦で葺かれている。どの家の窓辺にも、色とりどりの花が元気に咲き誇っていた。村を囲む畑には、青々とした野菜が、太陽の光を浴びて艶々と輝いている。
二人が呆然と立ち尽くしていると、村の方から、薪を背負った一人の男が歩いてきた。男は二人の姿を認めると、顔中に、人懐こい皺を寄せて、にこりと笑った。
「旅の方ですかな? 遠い所から、ご苦労様です。さあ、こんな所に立っていないで、村でゆっくり休んでいってください」
その声には、何の警戒心も、裏表も感じられなかった。ただ、純粋な善意だけが、そこにあった。カイルは、久しぶりに触れる人の温かさに、心の底から安堵していた。荒みきっていた心が、じわりと解かされていくのを感じる。
村の中は、外から見た以上に、完璧な場所だった。
道は綺麗に掃き清められ、子供たちの屈託のない笑い声が響き渡る。すれ違う村人たちは皆、穏やかで、満ち足りた笑顔を浮かべて、二人に見ず知らずの旅人である自分たちに、親しげに挨拶をしてくれる。争いも、貧しさも、汚れもない。まるで、吟遊詩人が歌う、古の楽園が、そのまま現出したかのようだった。
だが。
「静寂の心」を常に保っているカイルの意識は、その完璧すぎるほどの平穏の中に、ほんのわずかな、しかし、決して見過ごすことのできない“染み”のようなものを、感じ取っていた。
(なんだ……? この感じは……)
それは、違和感、という言葉が最も近かった。
⸻
二人は、村で一番大きな宿屋に、部屋を取ることにした。
宿の女将は、エイダと同じくらい人の良さそうな笑顔で、二人を迎えてくれた。彼女は、二人の旅の汚れを気にする様子もなく、一番良い部屋を、驚くほど安い宿代で提供してくれた。
部屋で荷物を解いた後、カイルはレオンと共に、食料の補給と情報収集を兼ねて、村の中を散策することにした。
そして、その散策の中で、カイルが感じていた微かな「違和感」は、徐々に、明確な「異様さ」へと、その姿を変えていった。
広場で、子供たちが鞠つきをして遊んでいた。そのうちの一人の少年が、勢い余って派手に転んだ。石畳に、膝を強く打ち付けたのが、カイルのいる場所からでもはっきりと見えた。
(痛そうだ……!)
カイルは、思わず駆け寄ろうとした。母親の悲鳴と、子供の泣き声が上がるだろうと、身構えた。
だが、そのどちらも、起こらなかった。少年は、血が滲む膝を、ただ不思議そうに見つめると、ゆっくりと立ち上がった。そして、心配そうに見つめる母親の方を振り返り、にこり、と笑ったのだ。泣き声一つ上げない。それどころか、その表情には、痛みの色さえ浮かんでいなかった。
母親もまた、慌てて駆け寄るでもなく、ただ、その場で、穏やかな笑みを浮かべて、我が子に頷き返しただけだった。
カイルは、その光景に、背筋がぞくりとするのを感じた。
市場で、レオンが保存食を買うために、商人と値段の交渉を始めた。レオンは、この村の様子を探るため、わざとかなり厳しい値段を提示した。
普通の商人なら、ここで怒るか、呆れるか、あるいは、もっと上手な駆け引きをしてくるはずだ。だが、その商人は、違った。彼は、一瞬困ったような顔をしたが、すぐに、あの穏やかな笑みを浮かべると、いともあっさりと頷いた。
「ええ、わかりました。そのお値段で、結構ですよ」
その声には、商売人らしい悔しさも、客への媚びもなかった。ただ、全てを受け入れるかのような、不自然なほどの平然さがあるだけだった。
カイルは、もう、この村の異様さから、目を逸らすことができなかった。
彼は、「静寂の心」の感度を、さらに深めた。村人たちの、心の“響き”を聞くために。そして、彼は、戦慄した。
――同じだ。
全員、全く、同じなのだ。
村人たちの心から流れ込んでくる感情は、ただの一種類しかなかった。穏やかで、平坦で、凪いだ水面のような「幸福」。
だが、その幸福には、何の起伏も、色の濃淡もなかった。嵐の前の静けさのような、不自然な平坦さ。
人間なら誰もが持つはずの、喜びの強弱、未来への期待、過去への後悔、些細な苛立ち、隠された嫉妬、愛する者を思う切なさ。そういった、生きていく上で必ず生まれるはずの、複雑で、豊かで、そして厄介な感情の波紋が、この村の人々の心からは、一切感じられなかった。
まるで、全ての感情を、一つの色――幸福という名の、薄っぺらなペンキで、無理やり塗りつぶされてしまったかのようだった。
この村は、楽園などではない。ここは、心が死んだ人間たちが、ただ、幸福な夢を見続けているだけの、巨大な眠りの棺なのだ。
その過剰なまでの「善意」と「無感情」の正体に気づいた時、カイルは、これまで対峙したどんな魔物よりも、ずっと深い恐怖を感じていた。
宿屋の自室に戻っても、カイルの頭は混乱していた。窓の外では、夕陽がこの穏やかすぎる村を、美しい金色に染め上げている。その完璧なまでの平穏さが、今はただ、不気味な絵画のようにしか見えなかった。
「レオンさん……この村は、おかしいです」
カイルは、絞り出すように言った。彼の声は、自分でも気づかぬうちに震えていた。
「みんな、幸せそうに笑っています。でも……違うんです。なんて言えばいいのか……まるで、みんなが同じ夢を、同時に見ているみたいで。そこには、怒りも、悲しみも、本当の喜びさえもない。ただ、空っぽの幸福感だけが、村中に満ちています」
それは、彼の感覚が捉えた、言葉にし難い真実だった。彼の力は、この村が抱える巨大な病の症状を、誰よりも正確に感じ取っていたのだ。
レオンは、黙ってカイルの話を聞いていた。彼はカイルのように、人の心を直接感じることはできない。だが、長年の経験が培った洞察力は、この村の平穏が、正常な営みの上に成り立つものではないことを、とっくに見抜いていた。
「病に罹っている村は、必ずその中心に病巣を持つ」
レオンは、テーブルに広げた村の簡単な見取り図を、指でなぞった。
「全ての道は、広場にある、あの大樹へと繋がっている。不自然なほどに、な」
⸻
その夜、村が深い眠りに沈むのを待って、二人は音もなく宿を抜け出した。
月明かりに照らされた村は、昼間とは違う、墓地のような静けさに満ちている。家々の窓から漏れる光は一つもなく、物音一つしない。まるで、村人たちが眠っているのではなく、一斉に活動を停止しているかのようだった。
村の中央広場にそびえる、巨大な樫の木。それは、この村の長い歴史を見守ってきた、神木のような存在感を放っていた。
だが、カイルが大樹に近づくにつれて、昼間に感じていた、あの平坦で均一な「幸福感」の波動が、凄まじい強度で彼の精神に押し寄せてきた。それはもはや、心地よいものですらなかった。有無を言わさず精神を上書きしようとする、甘い毒の奔流。
「うっ……!」
カイルは頭を押さえ、思わず膝をついた。
「カイル!」
「大丈夫です……! でも、間違いありません。この木が、この木全体が、あの感情を発しています……! 中心は、根元です!」
カイルは、流れ込んでくる偽りの幸福感に「静寂の心」で必死に抵抗しながら、大樹の根元の一点を指さした。
レオンは、カイルが指さした場所の土を、剣の切っ先で慎重に掘り返し始めた。しばらくすると、剣先に、こつん、と硬いものが当たる感触があった。
二人が手で土を払いのけると、そこにあったのは、月明かりを吸い込んで、青白い、柔らかな光を放つ、奇妙な物体だった。
それは、「魂の棘」に似ていたが、その形状は全く異なっていた。獣を傷つけるための、鋭利で攻撃的な形ではない。まるで、植物の根が絡み合ったかのような、有機的で、禍々しい曲線を描いている。その“根”は、大樹の最も太い根に、まるで宿主に取り付く寄生虫のように、深く、そして固く、食い込んでいた。
そして、その中心部からは、心臓が脈打つかのように、一定のリズムで、穏やかな光の波紋が広がっていた。
あれが、村全体を覆う、偽りの幸福感の発生源。二人は、言葉を失った。力による暴力的な支配ではない。流血も、悲鳴もない。ただ、静かに、そして確実に、人々の心そのものを支配し、魂を緩やかに殺していく。なんと陰湿で、そして、恐ろしい手口だろうか。
「……これが、奴らのやり方か」
レオンが、吐き捨てるように言った。その声には、怒りを通り越した、冷たい戦慄が滲んでいた。
カイルは、目の前の光景に立ち尽くしていた。
これを、どうすればいい?
この“棘”を破壊すれば、おそらく村人たちは正気に戻るだろう。だが、それは同時に、彼らが忘れてしまっていたであろう、貧しさへの苦しみや、人間関係のいざこざ、未来への不安といった、生きる上で避けられない、ありとあらゆる負の感情を、彼らに返すことにもなる。
偽りの楽園は、確かにここにある。それを、自分たちの手で、破壊するのか?苦しみを伴う現実と、感情のない幸福。どちらが、この村人たちにとって、本当に「幸せ」なのだろうか。
それは、カイルがこれまで考えたこともない、あまりにも重い、道徳的な問いだった。
レオンは、そんなカイルの葛藤を見透かすように、静かに、しかし、その瞳の奥に鋭い光を宿して、彼に問うた。
「どうする、カイル」
その声は、夜の静寂の中に、どこまでも重く響いた。
「これが、奴らの言う進化の一つの形かもしれんぞ」
カイルは、答えることができなかった。彼はただ、大樹の根元で脈打つ、青白い不気味な光と、その光に照らされた、穏やかな寝息だけが聞こえる平和な村の家並みを、交互に見つめることしかできなかった。
正しい答えなど、どこにもない。
そんな気がした。




