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第二十八話 狂信者の残響

 その夜の野営は、これまでとは全く違っていた。


 レオンは、普段よりもずっと時間をかけて、慎重に野営地を選んだ。三方を岩壁に囲まれた、見通しの良い窪地。彼はそれだけでは満足せず、獣道に繋がるいくつかの経路上に、小石を積んだり、乾いた枝を置いたりといった、ごく簡素だが有効な罠を仕掛けた。誰かが近づけば、必ず音でわかるように。


 カイルもまた、黙々とその手伝いをしながら、絶えず周囲に意識を張り巡らせていた。風が木々を揺らす音、遠くで鳴く夜鳥の声。その一つ一つが、昼間の戦闘で死んでいった、あのフードの男たちの最後の息遣いを思い出させた。


 焚き火の炎が、二人の顔を無言で照らし出す。食事は、ベルトルドが持たせてくれた燻製肉と、硬いパンだけだった。いつもなら、旅の空腹を満たしてくれる無骨で力強い味が、今夜のカイルには、まるで砂を噛んでいるかのように感じられた。


 昼間の光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。投げナイフの、黒く濡れたような切っ先。感情というものが全く感じられない、機械のような剣筋。


 そして、何の躊躇いもなく、自らの命を絶った、あの狂信的な瞳。魔物を倒すのとは、違う。


 オークやキメラを斬った時、彼の心にあったのは、恐怖と、それを乗り越えた達成感だった。だが、今日、彼が対峙したのは、紛れもなく人間だった。歪んで、狂って、人間性を捨てていたとしても、元は、自分たちと同じ人間だったはずだ。


 その死を目の当たりにした今、彼の心を満たしているのは、後味の悪い、ずしりとした重みだけだった。


 同時に、彼の理解を超えた恐怖が、じわじわと心を蝕んでいた。自分たちの命さえも、まるで価値のないもののように投げ出す、あの思想。あれが、これから自分たちが戦う相手なのだ。その事実が、カイルの喉元に、冷たい刃を突きつけているかのようだった。


 二人の間には、これまでになく重苦しい沈黙が流れていた。ただ、パチパチと薪が爆ぜる音だけが、時折、その沈黙を破る。


 ⻑い時間が過ぎた後、不意に、レオンが口を開いた。彼は、焚き火の向こうにある深い闇を見つめたまま、まるで自分自身に言い聞かせるように、反芻した。


「進化の使徒。浄化。そして、“あの方”、か」


 それは、あの狂信者たちが遺した、唯一の手がかりだった。カイルは、顔を上げた。


 レオンは、ゆっくりとカイルに視線を移した。その瞳には、戦いの後の疲労とは質の違う、深い思慮の色が浮かんでいた。


「カイル。今日戦った奴らについて、どう思った」


「強かったです。でも、それよりも……」


 カイルは、言葉を選んだ。


「不気味でした。まるで、心がないみたいで」


「そうだ」と、レオンは頷いた。


「奴らは、ただの賊やならず者とは違う。ましてや、金で雇われた傭兵でもない」


 彼は、焚き火に細い枝を一本投げ入れた。炎が、一瞬だけ強く燃え上がる。


「奴らは、自分たちの行いを、絶対の正義だと信じ込んでいる。自分たちこそが、この腐りきった世界を“進化”させる、選ばれた存在なのだと。だから、迷いがない。躊躇がない。そして、死ぬことさえも、その偉大な計画のための一部なのだと、本気で信じている」


 レオンの声は、静かだったが、その言葉の一つ一つには、過去の戦場で同じような敵と対峙したことがある者だけが持つ、確かな重みがあった。


「そういう敵が、一番厄介だ。道理も、情けも、一切通じん。奴らにとって、俺たちのような旧い人間は、ただ淘汰されるべき障害物でしかないのだからな」


 レオンの言葉を聞きながら、カイルは、昼間の戦闘を思い出していた。あのフードの男たちの瞳。そこにあったのは、憎しみや怒りではなかった。ただ、自分たちの信じるもののために、障害物を排除するという、冷え切った使命感だけ。


 心が無いのではない。一つの狂信的な思想で、心が塗りつぶされているのだ。


 だから、あれほどまでに感情の“波紋”が少なかったのだ。カイルは、自分たちがこれから対峙する相手の、本当の異常性を、ようやく理解した。それは、自分たちの常識が、一切通用しない、全く別の理屈で動く生き物なのだ。


 レオンの言葉が、焚き火の爆ぜる音の中に、静かに溶けていく。


カイルは、師が語る敵の異常性を、昼間の戦闘の記憶と重ね合わせていた。そうだ、あのフードの男たちには、恐怖も、焦りも、そして、命を奪うことへの愉悦さえもなかった。ただ、そこにあったのは、揺るぐことのない、冷え切った使命感だけ。自分たちの常識が、一切通用しない相手。その事実が、ずしりとした重りとなって、カイルの心に沈んでいた。


 彼は、意を決して、ずっと胸の中で渦巻いていた疑問を口にした。それは、これからの戦いの根幹に関わる、彼自身の力の限界についての問いだった。


「レオンさん」


 カイルの声に、レオンは視線を上げた。


「俺は……今日の戦いで、自分の力が、まだ全然足りないって思い知らされました。でも、それだけじゃありません」


 彼は、焚き火の炎に照らされた自分の手のひらを、じっと見つめた。


「森で助けた熊の心は、温かくて、分かりやすかった。怖がってることや、感謝してくれてることも、ちゃんと伝わってきました。でも……」


 カイルは、言葉を選んだ。あの無機質な感覚を、どう表現すればいいのか、分からなかった。


「あの使徒たちの心は、まるで分厚い氷の壁に覆われているみたいで、ほとんど何も感じ取れませんでした。ただ、冷たくて、空っぽで……。時々、針で刺すような殺意が聞こえるだけ」


 彼は、不安を振り払うように、レオンの目を真っ直ぐに見た。


「この力は、相手の心を読む力だと思っていました。でも、心が無い相手には、もしかして、無力なんでしょうか。だとしたら、俺はこれから、どうやって戦えばいいんでしょうか」


 それは、カイルが初めて直面した、自身の能力の、絶望的なまでの壁だった。この力がなければ、自分はただの未熟な剣士見習いに過ぎない。その唯一の武器が、これから対峙すべき最も危険な敵には通用しないかもしれない。その可能性は、彼の心を暗くさせた。


 レオンは、カイルの葛藤を、ただ黙って聞いていた。そして、全ての言葉を吸い込むかのような長い沈黙の後、静かに、しかし、きっぱりとした口調で言った。


「お前は、根本的に勘違いをしている」


「え……?」


「お前の力は、読心術などという、安っぽいものではない。心の響きを聞く力だ」


 レオンは、一本の薪を拾い上げ、その先端で地面に円を描いた。


「響きとは、音だけではない。歌声もあれば、雑音もある。そして、何も聞こえない“無音”もまた、一つの明確な響きだ」


 彼は、カイルの目を見て、続けた。


「感情がないのなら、その“無音”を聞け。機械のような思考なら、その冷徹な“規則性”を読め。人間の心は、本来、決して静まることも、完全に規則的になることもない。だからこそ、奴らが持つその不自然な静けさこそが、奴らの本質を示す何よりの証拠だ」


 レオンの言葉が、カイルの心に、染み込んでいく。


「奴らが人間性を捨てたというのなら、その人間ではないという歪みそのものが、奴らの最大の弱点になる。人の温かみを知るお前の力は、その歪みを、この世の誰よりも正確に感じ取れるはずだ。敵の剣筋を見るな。心の形を、その歪みを、見ろ」


 心の、形。


 その言葉は、カイルの世界に、新しい扉を開いた。そうだ。俺が感じ取っていたのは、ただの感情ではなかった。熊の温かい心、ドルガンの渇いた心、そして、あの使徒たちの、氷のように冷たく、歪んだ心。その「形」そのものを、俺は感じていたのだ。


 レオンは、カイルの中に光明が差したのを見て取ると、静かに言った。


「これからの稽古は、その心の形を、より正確に捉えるためのものになる。感情豊かな心、無感情な心、そして、偽りの感情で覆われた心。その全てを、お前の内なる水面で見極める。……厳しい道のりになるぞ」


 ⸻


 その夜、会話が終わり、二人はそれぞれの仮眠についた。


 昼間の戦闘で張り詰めていた重苦しい空気は、今、新たな目標が定まったことで、鋼のように硬質で、しかし前向きな緊張感へと変わっていた。

 カイルは、毛布にくるまりながら、すぐに眠ることはしなかった。


 彼は、レオンに示された新たな道標を胸に、静かに目を閉じる。そして、自分の内側にある、あの静かな湖面へと、意識を沈めていった。


 これまで、彼はその水面に映る「波紋」ばかりに気を取られていた。だが、今は違う。彼は、水面の奥深く、そのさらに底にある、自分自身の魂の形を見つめていた。


 そして、意識を空へと飛ばす。この荒涼とした北の地でも、ひときわ強く、そして決して揺らぐことなく輝く、一つの星。北極星。


 彼は、その星の光が、自分の心の水面に、一点の曇りもなく映り込むのを、イメージした。それは、これから目指すべき目的地。それは、対峙すべき、強大な敵の象徴。


 恐怖は、まだ体の芯に、冷たい澱のように残っている。だが、それを上回るほどの、静かで、そして燃えるような決意が、彼の心を支配していた。


 嵐の前の、つかの間の静寂。その中で、カイルの心は、来るべき戦いと、まだ見ぬ修練に向けて、さらに深く、そして強く、研ぎ澄まされていく。


 夜風が、彼の頬を撫でていった。その冷たさが、今はひどく、心地よかった。

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