第二十七話 世界の進化を促す者
北へ向かう旅は、いつしか日数を数えることさえ億劫になるほど、単調なものになっていた。
カイルとレオンは、ただひたすらに、痩せた大地を歩き続けた。空は、まるで巨大な鉛の天井のように低く垂れ込め、太陽は、その向こう側でぼんやりと滲んだ、熱のない光の染みでしかなかった。
風は常に冷たく、草木の匂いではなく、乾いた土と、風化した岩の匂いを運んでくる。かつてトラヴィス周辺で感じられた、豊かな生命の“鼓動”は、もうほとんど聞こえない。大地は、深い昏睡状態に陥った病人のように、ただ静かに、そしてゆっくりと、死に向かっている。その感覚が、カイルの日常になっていた。
彼は、歩きながら、常に「静寂の心」を保っていた。それはもはや、意識して行う「訓練」ではなく、この死につつある世界の、あまりにも大きな悲しみから自らの精神を守るための、必要不可欠な「盾」だった。彼の心は、静かな湖面のように、世界の様相をただ映し、そして流していく。
その、静まり返った彼の心の水面に、ある日の昼下がり、突如として、鋭利な石が投げ込まれた。
――!!
それは、音ではなかった。思考でもない。もっとずっと根源的で、直接的な、魂の絶叫。
これまで感じていた、広範囲に広がる大地の弱々しい“悲鳴”とは、明らかに質が違う。たった一点から発せられる、ひときわ強く、そして、暴力的なまでに歪んだ“苦痛の叫び”だった。まるで、生きている獣の体から、魂だけを無理やり引き剥がそうとしているかのような、冒涜的な感覚。
カイルは、思わず足を止め、喘いだ。
「……っ!」
「どうした」
レオンが、即座に警戒態勢をとりながら問う。
「あっちです」
カイルは、震える指で、街道から外れた森の奥深くを指さした。
「今……何かが……! ひどく、苦しんでる……!」
それは、今まさに「魂の棘」によって、新たな“汚染”が生まれている瞬間の気配だった。これまで感じてきた異変の、発生源そのもの。レオンの目が、狩人のように鋭く光った。
「行くぞ。ようやく尻尾を掴んだらしいな」
彼はそれだけを言うと、カイルが指さした方向へ、音もなく駆け出した。カイルもまた、痛む頭を叱咤し、その後を追った。
⸻
カイルは、絶叫を道しるべに、森の奥深くへと進んでいく。木々は病的に痩せ細り、下草はほとんど生えていない。まるで、森全体が彼らの行く手を拒んでいるかのような、陰鬱な空気が漂っていた。
やがて、二人は不自然に開けた場所にたどり着く。そして、その光景に、カイルは息を呑んだ。
広場の中央で、一頭の巨大な森熊が、地面に組み伏せられていた。森の主とも呼ばれる、誇り高い獣。その巨体が、まるで黒い蛇のような、不気味な光沢を放つ縄で、四肢を地面に固く拘束されている。熊は激しく抵抗し、大地を揺るがすほどの唸り声を上げているが、その縄はびくともしない。
そして、その傍らに、二つの人影があった。頭から足元まで、深い闇色のフードとローブで全身を覆い、その顔を窺い知ることはできない。
一人が、何らかの術か、あるいは力で、もがく熊の頭を地面に押さえつけている。もう一人は、その手に、見覚えのある、禍々しい光を放つ「魂の棘」を掲げていた。棘は、まるで生きているかのように、低い唸りを上げて振動している。
彼らの動きは、恐ろしいほどに冷静で、無駄がなかった。熊が上げる苦痛の咆哮も、彼らにとってはただの作業音に過ぎないようだった。獣の苦痛に対する共感も、命を弄ぶことへの愉悦さえもない。まるで、職人が道具の手入れをするかのように、ただ、冷徹に、自分たちの目的を遂行しようとしていた。
その瞬間、カイルの心に、これまで経験したことのないほどの、凄まじい感情の奔流が流れ込んできた。
熊の、純粋な恐怖。
自由を奪われた、屈辱。
体に食い込む縄の、燃えるような痛み。
そして、これから自分の身に何が起ころうとしているのか、その得体の知れない恐怖に、魂が張り裂けんばかりに絶叫している。
カイルの「静寂の心」は、そのあまりにも強烈な濁流に、一瞬で呑み込まれた。だが、彼の心を支配したのは、恐怖ではなかった。
それは、静かな、しかし、心の底から湧き上がる、燃えるような怒りだった。命を、ただの道具として扱う、あのフードの人物たちへの、絶対的な拒絶。
「助けなければ」
その衝動が、彼の全身を支配した。考えるより先に、彼の右手は、腰の剣の柄を、固く、固く、握りしめている。
カイルの心が、熊の苦痛と共鳴し、燃えるような怒りに染まった、その刹那。レオンが動いた。
合図は、なかった。ただ、カイルが剣の柄を握りしめたその瞬間、まるで二人の心が一本の糸で繋がっているかのように、レオンは音もなく地を蹴っていた。
森の静寂を切り裂き、銀色の閃光が、熊を押さえつけていたフードの男へと突き進む。
「――チッ!」
フードの男は、背後に目があるかのような驚異的な反応速度で身を翻し、レオンの一撃を辛うじて躱した。だが、その隙に、熊を押さえつけていた力が緩む。
「今だ、カイル!」
師の檄が飛ぶ。カイルもまた、弾かれたように駆け出していた。彼の目標は、魂の棘を掲げていた、もう一人のフードの男だ。
男は、驚く様子もなく、むしろ、待ち構えていたかのように、カイルの方へと向き直った。その両手には、いつの間にか、黒く濡れたような光を放つ、短いナイフが握られている。
「来たか、イレギュラー」
フードの奥から、くぐもった、感情のない声がした。
カイルは、「静寂の心」を発動させた。心の水面を、夜の井戸のように静める。
その水面に、男の殺意が、鋭い雫となって落ちた。
(――右!)
カイルは考えるより先に、左へ跳んだ。瞬間、先ほどまで彼がいた空間を、黒いナイフが音もなく切り裂いていた。毒だ。刃に塗られた、粘つくような悪意の気配を、カイルは感じ取っていた。
だが、次の瞬間、男は剣士とは思えぬ、低い姿勢から、まるで蛇のような予測不能な蹴りを放ってきた。殺意の“波紋”はない。ただ、体を破壊するためだけの、純粋な物理攻撃。
「ぐっ……!」
カイルは咄嗟に腕で防御するが、そのあまりの重さに、体ごと数歩後ずさる。
(感情が、読めない……!)
オークやキメラのような、分かりやすい怒りや苦痛の奔流が、この男にはなかった。ただ、任務を遂行するための、機械的で、冷え切った思考だけ。その無感情さが、カイルの“感覚”を鈍らせ、厳しい戦いを強いていた。
一方、レオンもまた、もう一人の男を相手に、稀に見るほどの苦戦を強いられていた。
レオンの剣技は、間違いなく相手を上回っている。だが、フードの男は、まるで骨がないかのような、人間離れした体術で、その悉くの斬撃を躱していく。掠り傷の一つさえ負わせられない。
レオンは理解していた。彼らの目的は、ここで自分たちと本気で殺し合うことではない。時間稼ぎ、そして、おそらくは自分たちの実力を測ること。そのことに集中しているからこそ、彼らの動きには、恐怖も焦りも、一切の感情の揺らぎがないのだ。
「レオンさん!」
カイルは、相手の蹴りを捌ききれず、体勢を崩した。フードの男は、その好機を見逃さない。懐から、三本の投げナイフを引き抜き、カイルの喉元、心臓、腹部へと、寸分の狂いもなく放った。
絶体絶命。
だが、その瞬間、カイルの静まり返った心に、レオンから放たれた、一つの明確な“雫”が落ちた。
――“右に跳べ”。
それは、言葉ではなかった。ただの、純粋な意志の指向。カイルは、それに従った。
三本のナイフが、彼の体を掠めて、背後の木に突き刺さる。そして、カイルが跳んだことで生まれた、ほんの一瞬の空間。そこに、レオンが投げた石が、空気を切り裂いて飛び込んできた。
石は、フードの男のこめかみを正確に打ち据える。男の動きが、ほんの一瞬だけ、硬直した。
その好機を、カイルは見逃さなかった。彼は体勢を立て直し、渾身の力を込めて、男の腕に剣の峰を叩きつけた。鈍い骨の感触。男は短く呻くと、ナイフを取り落とし、その場に膝をついた。
ほぼ同時に、レオンもまた、相手の関節を巧みに極め、その腕を砕き、戦闘不能に陥らせていた。
⸻
「……何者だ」
レオンは、捕らえた男のフードを剥ぎ取った。現れたのは、まだ若い、しかし、何の感情も浮かんでいない、能面のような男の顔だった。
「目的は何だ」
腕を砕かれた男は、激痛に顔を歪めながらも、拷問を恐れる様子は微塵もなかった。それどころか、その瞳に、じわりと、狂信的な輝きが宿り始めた。
「……我々は“進化の使徒”」
男は、まるで聖句を唱えるかのように、厳かに言った。
「腐りきったこの旧い世界を、一度“無”に還し、新たなる時代を創造する者たちだ」
「狂人が」
レオンが吐き捨てる。だが、男は構わず続けた。
「この土地の浄化――お前たちが汚染と呼ぶものは、偉大なる“あの方”の壮大な計画の、ほんの一部に過ぎない」
男の視線が、カイルを捉えた。
「観測者様がお前のようなイレギュラーに興味を持たれているようだが、それもすぐに終わるだろう。我々の進化の前に、お前のような古い生命は、ただ淘汰されるのみだ」
「それだけか」
レオンが、さらに情報を引き出そうと、剣の切っ先を男の喉元に突きつけた。だが、男は、不気味に、にやりと笑った。
「進化の、栄光あれ!」
その言葉と共に、男は強く奥歯を噛み砕いた。隠し持っていた毒のカプセル。彼の口から、黒い血が溢れ出し、その体は一瞬にして痙攣し、動かなくなった。
「しまっ……!」
レオンは、もう一人の男へと視線を転じた。だが、遅かった。カイルが押さえつけていたその男もまた、同じように、自らの命を絶っていた。
⸻
森の中に、再び静寂が戻った。残されたのは、二つの亡骸と、まだ荒い息をつく熊だけ。
レオンが死体を調べたが、組織を示すような紋章や道具は、何一つ発見できなかった。彼らの狂信的な言葉だけが、唯一の手がかりとして、そこに残された。
カイルは、拘束された熊に近づくと、その黒い縄を剣で断ち切った。自由になった熊は、すぐには動かなかった。ただ、大きな黒い瞳で、じっとカイルを見つめている。
カイルは、彼の心の水面で、熊の感情の波紋を感じていた。恐怖と、苦痛。そして、それらが少しずつ引いていくと共に、自分に向けられる、純粋な問い。お前は、敵か、味方か。カイルは、そっと手を差し伸べた。
「もう、大丈夫だ」
その言葉と共に、彼は、自分の心の中にある、静かで、穏やかな感情を、熊へと送った。熊は、しばらくの間、カイルの手の匂いを嗅いでいたが、やがて、一度だけ、カイルの顔をじっと見つめると、静かに身を翻し、森の奥へと去っていった。
その去り際、カイルの心に、戸惑いと、そして、ほんのわずかな感謝の感情が、温かい波紋となって伝わってきた。
カイルは、男たちが落とした「魂の棘」を拾い上げた。
“進化”。
彼らはそう言った。全ての生命を道具として弄び、大地を殺すことの、一体どこが進化だというのか。
カイルの胸に、静かだが、決して消えることのない、冷たい怒りの炎が灯った。レオンが、彼の隣に立った。そして、カイルが持つ棘を、忌々しげに見つめて、吐き捨てた。
「“進化”か……。狂人の戯言だな」
北方廃墟へ向かう彼らの目的が、今、また一つ、より明確なものになった。それはもう、ただの調査ではない。
あの狂信者たちの、歪んだ理想を、この手で叩き潰すための、戦いの旅なのだと。カイルは、熊が消えていった森の奥を、強く、強く、睨みつけていた。




