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第二十六話 北方廃墟へ

 トラヴィスの北門をくぐり抜けた瞬間、世界の匂いが変わった。


 ついさっきまで背中に感じていた、パンが焼ける匂いや、人々の生活が発する埃っぽい温かさが、まるで分厚い扉の向こうに閉ざされたかのようにぷっつりと途絶える。代わりにカイルの肺を満たしたのは、乾いた土と、枯れ草と、そして、どこまでも広がる空の、途方もなく広大な匂いだった。


 旅が、始まったのだ。

 その事実は、言葉よりもずっと直接的に、カイルの全身に染み渡ってきた。背中に食い込む荷物の重みが、白鹿亭で託された約束の重みと完全に一致している。レオンは、カイルの数歩前を、いつもと変わらない、一定のリズムで歩いていた。その背中だけが、このだだっ広い世界で、カイルが進むべき方角を示す、唯一のコンパスだった。


 最初の数日間、道はまだ、世界が彼らに対して親切であろうとしてくれているように見えた。


 時折すれ違う商人たちの荷馬車が立てる砂埃を避けながら、二人は緑の丘陵地帯をひたすら歩いた。昼間は、空のあまりの青さに、時々めまいがするほどだった。夜になれば、南の空とは比べ物にならないほど無数の星が、まるで黒いベルベットの上に撒かれたダイヤモンドダストのように、冷たい光を放って瞬いていた。綺麗だとは思った。だが、それ以上に、その星々はひどく無関心に見えた。彼らが何をしようと、世界はただ、いつもと同じようにそこにあるだけなのだと、言われているような気がした。


 カイルは、歩きながら「静寂の心」の訓練を続けていた。風の音を聞き流す。鳥の声をやり過ごす。自分の足音さえも、他人事のように聞く。そうしていると、時々、別のものが感じられるようになった。大地から発せられる、微かで、温かい生命の“鼓動”だ。それは、トラヴィス周辺では、まるで豊かなオーケストラのように、力強く響いていた。


 だが、旅が五日目を過ぎたあたりから、そのオーケストラの音は、少しずつ、確実にボリュームを下げていった。


 農村の姿はまばらになり、街道は整備されなくなり、轍の跡もかすかな、ただの獣道へと変わっていく。生命力に満ち溢れていた森の木々は、徐々にその背を低くし、枝は、まるで絶えず吹く北風に謝り続けているかのように、苦しげに捻じ曲がっていた。


 世界の彩度が、一日ごとに一枚ずつ、薄い膜を剥がされるように失われていく。鮮やかな緑はくすんだオリーブ色へ、肥沃な黒土は乾いた黄土色へと。


 そして、大地から聞こえていた生命の“鼓動”は、今や、遠くでかろうじて聞こえる、弱々しいノイズのようになっていた。


 エリアスの言っていた、土地の汚染。それは、観念的な知識ではなく、五感で感じる、否定しようのない現実として、二人の旅路に重くのしかかっていた。

 ⸻


 ある日の夕暮れ、二人は道沿いにぽつんと立つ、一軒の宿場町にたどり着いた。


「灰色の丘」と呼ばれるその町は、その名の通り、まるで世界から色を抜き取られたかのような、くすんだ色合いの場所だった。建物の壁も、人々の服装も、そして、そこに住む人々の顔つきさえもが、一様に灰色がかっている。


 宿屋の酒場は、トラヴィスのような陽気な雰囲気とは無縁の場所だった。疲れ切った顔の猟師や旅人たちが、テーブルで安物のエールを、まるで薬のように、黙々と喉に流し込んでいる。室内に漂うのは、湿った木材と、安酒の酸っぱい匂いだけだった。


 カイルとレオンも、壁際のテーブルで、味のしないシチューをスプーンでかき混ぜていた。


 その時、隣の席に座っていた猟師風の男たちの、ひそひそとした会話が耳に入ってきた。カイルは、その会話の“波紋”を、静かな心の水面で拾い上げた。それは、不安と、焦燥と、そして、どうしようもない諦めが混じった、ひどくざらついた感情の波だった。


「駄目だ。今日も、一匹も獲物がなかった」


 一人の男が、汚れた髭を撫_ながら言った。その声は、ひどく乾いていた。


「鹿も、猪も、まるで神隠しにでも遭ったみてえに、一匹残らず姿を消しちまった。このままじゃ、冬を越せねえ」


「動物だけじゃねえ」と、もう一人が応える。

「北の森の奥じゃ、もうキノコも生えねえらしい。木の実も、なる前に腐って落ちちまうそうだ」


「一体、どうなっちまったんだ……。呪いでもかけられたってのか、この土地は」


 カイルは、その会話を聞きながら、パンを握りしめる手に、力が入るのを自覚した。


 呪い。


 その言葉は、もはやただの比喩ではなかった。彼は、彼らの話す森の“死”の光景を、ありありと想像することができた。そして、その原因である、あの黒い棘の冷たい感触を、思い出していた。


 レオンは、黙ってスープをすすっていた。だが、その目は、猟師たちの絶望を、そして、その背後にある巨大な悪意を、静かに見据えているようだった。

 ⸻


 その夜、二人は宿場町を離れ、少し先の岩陰で野営をした。


 パチパチと爆ぜる焚き火の炎だけが、この荒涼とした世界で、唯一の温かい色を持っていた。

 頭上には、恐ろしいほどの数の星が、凍てつくような光を放って瞬いている。あまりの星の多さに、カイルは、まるで宇宙の真ん中に放り出されたかのような、荘厳で、残酷な孤独を感じていた。


「レオンさん」


 カイルは、炎を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「この世界は……病気なんでしょうか」


 それは、旅を始めてからずっと、彼の胸の中にあった、素朴な疑問であり、そして、純粋な恐怖だった。


 レオンは、火の番をしながら、しばらく黙り込んでいた。薪が爆ぜる音だけが、二人の間に響いていた。やがて、彼は、静かに、そして諭すように語り始めた。


「病気、か。そうかもしれん」


 彼の声は、まるで遠い昔の物語を語る吟遊詩人のように、夜の静寂に響いた。


「だが、人間が病気になるのと同じだ。世界も、時には病気になる。熱を出し、咳き込み、弱る。それは、そういうものだ」


「……」


「そして、病気には、二種類ある。放っておいても治る病気と、そうでない病気だ。我々が今追っているのは、間違いなく後者だ。誰かが、意図的に世界に毒を盛っている」


 レオンは、火の中に、乾いた小枝を一本投げ入れた。炎が、一瞬だけ強く燃え上がる。


「世界を救うなどと、大げさなことを考える必要はない。医者が患者を診るのと同じだ。我々は、まず病巣を探し出し、それを正確に切り取る。ただ、それだけだ。我々がやろうとしているのは、そういう、ひどく地味で、根気のいる仕事だ」


 彼の乾いた比喩は、カイルの心に、不思議なほどの落ち着きをもたらした。


 そうだ。世界を救いたいんじゃない。病気の原因を取り除きたいだけなんだ。エイダや、ベルトルドや、故郷の村の人たちが、当たり前に笑って暮らせる、あの健康な日常を、取り戻したいだけなんだ。


 目的が、はっきりと、研ぎ澄まされていく。カイルは、顔を上げた。そして、焚き火の向こう側、遥か北の夜空に、ひときわ高くそびえる、氷の刃のようにギザギザに尖った山脈のシルエットを、真っ直ぐに見据えた。


 エリアスの地図によれば、あの山の向こうに、北方廃墟はある。これまでの旅は、ただの序章に過ぎない。


 本当の戦いは、あの山の先で、始まろうとしていた。道は、まだ、ひどく長くて、暗い。それでも、進むべき方角は、この世界の誰よりも、はっきりと見えていた。

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