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第二十五話 北へ向かう者たち2

 賢者の書庫を後にし、白鹿亭へと戻る。街はまだ、夜のしじまに抱かれていた。カイルの胸の中には、エリアスから託された地図の重みと、言葉の数々がずしりと沈んでいる。隣を歩くレオンは、何も語らない。だが、その横顔には、かつてないほどの硬い決意が宿っていた。もう、後戻りはできない。彼らの戦いは、すでに始まっているのだ。


 宿の部屋には、エイダが気を利かせてくれたのか、小さなランプが一つだけ、テーブルの上で静かに灯っていた。その弱々しい光が、これから始まる旅の厳しさと、それでもなお此処にある温もりを、同時に象徴しているかのようだった。二人は、最後の旅支度を始めた。


 革袋に、保存食と水、傷薬、砥石、そしてエリアスから受け取った地図と文献の写しを、一つ一つ確かめるように詰めていく。カチャリ、と武具が擦れる音。革を固く縛る音。その乾いた作業音だけが、重々しく部屋に響いていた。


 その時だった。二階へと続く階段の床が、ギシリ、と小さく鳴った。カイルが顔を上げると、そこに、厚いショールを肩に羽織ったエイダが、静かに立っていた。彼女は、驚いた顔はしていなかった。まるで、こうなることをずっと前から知っていたかのように、穏やかな、しかしどこか寂しげな目で、二人を見下ろしている。

「……行くのかい」


 その声は、囁くように小さかった。

 カイルは、何と答えていいか分からず、言葉に詰まった。だが、レオンが、顔を上げずに短く応えた。

「……ああ。夜明けと共にな」


 エイダは、それ以上何も聞かなかった。彼女は静かに階段を下りてくると、

「ちょっと待っておいで」

 と言って、厨房の方へと消えていった。やがて、彼女は湯気の立つ二つの木の椀と、焼きたてのパンが乗った盆を手に戻ってきた。立ち上る湯気と共に、野菜と干し肉の優しい匂いが、カイルの鼻腔をくすぐる。


「腹が減っては戦はできぬ、だろ?」

 エイダは、いたずらっぽく笑った。だが、その目の奥は、少しだけ潤んでいる。彼女は、二人の前にそっと椀を置いた。「冷めないうちに、お食べ」


 それは、ただのスープではなかった。カイルが一口すすると、疲労で強張っていた体の芯が、じんわりと解けていくような、深い温かさが全身に広がった。人の善意とは、こんなにも温かく、そして、美味しいものだっただろうか。カイルは、夢中でパンをスープに浸し、口へと運んだ。


 食事を終える頃、厨房の入り口で腕を組んで立っていたベルトルドが、無言のまま、こちらへ歩いてきた。

「カイル」

 エイダが、優しくカイルの手を取った。彼女の、働き者らしい少し硬くなった手のひらが、カイルの手を力強く、そして温かく包み込む。

「あたしからの、気休めのおまじないさ」

 そう言って、彼女はカイルの掌に、小さな、手縫いのお守り袋を握らせた。粗末な麻布で作られた、何の変哲もない袋。だが、その表面には、少し不格好な、白い鹿の刺繍が施されていた。

「いいかい」

 エイダの声が、母親のように、しかし力強い響きを帯びる。

「必ず、これを持って、この場所に帰ってくるんだよ。いいね? これは、あんたへの約束だ」


 カイルが、胸に込み上げてくる熱いものをこらえて頷くと、今度はベルトルドが、ずい、と彼の前に立った。彼は、いつものようにぶっきらぼうな顔で、しかし、その目だけは逸らさずに、カイルに言った。


「……死ぬなよ」

 それだけだった。そして、彼は大きな革袋を、カイルの腕に半ば押し付けるようにして渡した。ずしり、とした重み。中には、彼が特別に作ったであろう、長期保存の利く燻製肉や、栄養価の高い木の実が、これでもかというほどぎっしりと詰まっていた。


 カイルは、右手にエイダのお守りを、左手にベルトルドの食料袋を、固く握りしめた。温かい。言葉にできないほど、温かい。


 彼は、この街に来て、ただ強さだけを求めていた。だが、いつの間にか、こんなにも温かいものを、与えられていた。ここが、自分の居場所なのだ。いつか必ず、生きて「帰るべき場所」なのだ。そして、この場所と、この優しい人々こそが、自分が命を懸けて守るべきものなのだと、彼は心の底から理解した。


 カイルは、込み上げる感情をぐっとこらえ、顔を上げた。

 そして、エイダとベルトルドの目を、一人ずつ、真っ直ぐに見つめ返した。

 もう、彼の声に、震えはなかった。


「行ってきます」


 そして、彼は続けた。


「必ず、帰ってきます」


 ーーーーーーーーーーーーーーーーー


 エイダとベルトルドの温かい想いを、カイルは確かな重みとして両腕に感じていた。右手に握りしめた、手縫いのお守り。左腕に抱えた、ずっしりと重い食料袋。それは、ただの物ではなかった。あの二人が、自分たちに託してくれた信頼と、無事を祈る心の重みそのものだった。


 街はまだ、深い眠りの中にいた。活気あふれる昼間の喧騒が嘘のように、石畳の道は静まり返っている。聞こえるのは、規則正しく響く二人のブーツの音だけ。コツ、コツ、というその硬質な響きが、これから始まる旅の厳しさを予感させた。


 カイルは、見慣れた街の風景を目に焼き付けた。閉ざされたままの露店の骨組み、固く閉ざされた家々の窓、遠くのパン屋の煙突からだけ、細く立ち上る白い煙。その全てが、彼が守るべき日常の断片だった。


 やがて、二人の目の前に、巨大な影が立ちはだかった。トラヴィスの街を北から守る、巨大な石造りの北門。それは、これまでの穏やかで、学びの日々だった日常と、これから始まる死と隣り合わせの過酷な旅を隔てる、巨大な境界線のように見えた。


 門の上では、欠伸を噛み殺した見張りの兵士が、槍を手にぼんやりと立っている。彼は、こんな夜明け前に街を出ていく物好きな二人組を、ただ不思議そうに見下ろしているだけだった。


 門をくぐる、その直前。カイルは、思わず足を止めた。彼は、一度だけ、ゆっくりと街を振り返った。自分が駆け抜けた大通り。レオンと初めて訪れた冒険者組合。そして、その向こうにある、小さな宿屋「白鹿亭」。短い間だったが、そこは確かに、彼の心を温めてくれた、かけがえのない居場所だった。


 寂しくない、と言えば嘘になる。だが、彼の心にあったのは、悲しみや後悔ではなかった。胸いっぱいに広がる温かい感謝と、そして、必ずこの場所に帰ってくるのだという、燃えるような誓いだった。


 レオンは、振り返らなかった。彼はただ、門の向こうに広がる、まだ夜の闇に沈む荒野を、真っ直ぐに見据えている。そして、カイルが心を決めるのを、静かに待っていた。やがて、彼は短く、しかし力強く言った。


「行くぞ」


 その声に、カイルはもう一度、強く頷いた。彼はトラヴィスの街の光景を、その温もりを、瞼の裏に焼き付けると、決意を込めて前を向いた。


 二人が巨大な北門をくぐり抜ける。門の内側は、慣れ親しんだ石畳。そして、門の外側へと一歩踏み出すと、足元は、荒涼とした北の荒野へと続く、ごつごつとした土の道へと変わった。空気の匂いが違う。街の生活の匂いから、草と土と、そして未知の何かが混じった、野生の匂いへと。


 ちょうどその時、東の地平線の彼方から、昇り始めた朝日が、世界に最初の光を投げかけた。その光は、二人の背中を力強く押し、彼らの影を、これから向かうべき道の先へと、長く、長く、伸ばしていく。


 二人の影は、まっすぐに、北を指していた。

 旅が、始まった。

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