第二十四話 北へ向かう者たち1
白鹿亭に戻る道すがら、二人の間には重い沈黙が流れていた。夕暮れの喧騒はすでに夜の静けさに取って代わられ、家々の窓から漏れる温かい光が、トラヴィスの石畳をまだらに照らしている。それは、昨日までと何も変わらない、穏やかな街の夜の風景だった。だが、カイルにはもう、その光景を以前と同じ心で見ることはできなかった。
三ヶ月。
エリアスが告げたタイムリミットが、まるで死刑執行を告げる鐘の音のように、彼の頭の中で繰り返し鳴り響いていた。この穏やかな日常の、すぐ足元で、大地は音もなく死につつある。その恐ろしい事実を知ってしまった今、もう後戻りはできない。
部屋に戻ると、レオンはランプに火を灯した。揺らめく炎が、彼の険しい横顔に深い影を落とす。カイルは、ただ立ち尽くしていた。これから何をすべきなのか、あまりにも巨大すぎる問題の前で、思考が麻痺してしまっていたのだ。
だが、レオンは違った。彼は休むことなく、旅の荷を解くと、中から一枚の古びた羊皮紙を取り出し、小さなテーブルの上に広げた。トラヴィス周辺から、さらに北の荒野までが描かれた、詳細な地図だった。
そして、彼は腰の剣を抜き、おもむろに手入れを始めた。鞘から引き抜かれた刃が、ランプの光を吸い込んで、冷たい光を放つ。シュッ、シュッ、と砥石が剣の表面を滑る、規則正しい乾いた音だけが、静まり返った部屋に響き渡った。
その音を聞きながら、カイルは不思議と、少しずつ冷静さを取り戻していた。
師は、絶望していない。うろたえてもいない。ただ、やるべきことを見据え、そのための準備を、淡々と、そして寸分の隙もなく進めている。その姿が、カイルの心を縛っていた見えない恐怖を、少しずつ解きほぐしていった。
そうだ。俺も、やるべきことをやるんだ。
カイルもまた、自分の荷を解き、先日手に入れたばかりの鋼の剣を、黙って手入れし始めた。
どれくらいの時間が経っただろう。
レオンは、不意に砥石を動かす手を止めると、剣の刃筋を光に翳して確かめた後、静かに口を開いた。
「明日、夜明けと共に出立する」
その声は、窓の外の夜の静寂に、すっと溶けていった。
「目的地は、北方廃墟だ。全ての元凶は、そこにあると見て間違いない」
「……はい」
カイルは、顔を上げずに頷いた。
レオンは、そんな彼の様子をしばらく見つめていたが、やがて、これまでで最も静かで、そして重い声で言った。
「カイル」
「……はい」
「これは、これまでの依頼とは訳が違う。組合からの報酬もなければ、誰からの支援もない。俺たちの、ただの戦いだ」
レオンは、椅子から立ち上がると、窓辺に立った。彼の背中が、月明かりに照らされて、巨大な影を作る。
「敵は、我々が知るどの魔物よりも狡猾で、悪質だ。そして、おそらくは、強い。生きて帰れる保証は、どこにもない」
彼は、カイルの方へは振り返らないまま、続けた。
「……だから、これは命令ではない。お前に、最後の選択を与える」
その言葉に、カイルははっと顔を上げた。
「俺一人なら、どうとでもなる。だが、お前は違う。まだ若い。この街で生きる道も、故郷へ帰る道もあるはずだ。俺の過去の因縁に、お前をこれ以上付き合わせる義理はない。……来るか、来ないか。今、ここでお前自身が決めろ」
それは、師が弟子に与えた、最大限の配慮であり、そして、最後の問いだった。カイルは、固く目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、エイダの屈託のない笑顔。ベルトルドの不器用な優しさ。エリアスの好奇心に満ちた瞳。そして、故郷の村で、彼の帰りを待つ人々の顔。それら全てが、今、目に見えない脅威に晒されている。
逃げることは、できた。レオンの言う通り、全てを彼に任せて、自分は安全な場所へ行くこともできるだろう。だが、それで本当に、心穏やかに生きていけるのか?守りたいものを守るための力を求めながら、いざその戦いを前にして、背を向けるのか?
――違う。
カイルは、ゆっくりと目を開けた。彼の瞳から、迷いは完全に消え去っていた。
「行きます」
その声は、まだ若く、少しだけ上ずっていたかもしれない。だが、その響きには、一片の揺らぎもなかった。彼は、立ち上がると、レオンの背中に向かって、はっきりと告げた。
「俺は、逃げません。レオンさんと一緒に、戦います。それが、俺がここで見つけた、俺自身の道ですから」
レオンは、振り返らなかった。
ただ、その背中が、ほんの少しだけ、揺れたように見えた。
長い、長い沈黙の後、彼は夜空を見上げたまま、静かに言った。
「……そうか」
その一言だけだった。だが、カイルには、それで十分だった。シュッ、シュッ、と、再び剣を研ぐ音が、部屋に響き始めた。その音は、もはやただの作業音ではなかった。北へ向かう二人の、固い決意の音のように、カイルの耳には聞こえていた。
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まだインクのように濃い夜が、トラヴィスの街を支配している時間だった。二人は、白鹿亭を音もなく抜け出すと、人影のない石畳の道を、賢者の書庫へと向かった。昨夜、レオンからエリアスに、夜明け前に訪れるという伝言が既に届けられていた。
道の両脇に並ぶ家々は、まだ深い眠りの中に沈んでいる。聞こえるのは、自分たちのブーツが石畳を打つ、硬質な足音だけ。それは、これから始まる過酷な旅の、序曲のように響いていた。
賢者の書庫の扉を開けると、鈴の音も鳴らなかった。エリアスが、最初から扉に細工をしていたのだろう。店内は、一本のランプの光だけが、うず高く積まれた本の山に、巨大で奇妙な影を落としていた。
店の主は、カウンターの奥の椅子に座っていた。その姿は、カイルが昨日見た時とは、まるで別人のようだった。目の下には深い隈が刻まれ、着古したローブはインクの染みと疲労でよれよれになっている。テーブルの上には、飲み干された薬草茶のカップと、山のような書き損じの羊皮紙が散らばっていた。彼は、どうやら一睡もせずに、二人のために準備を整えてくれていたらしい。
「……来たか」
エリアスは、かすれた声で言った。
「ああ。世話になる」
レオンが短く応える。
「礼を言うのはまだ早い。生きて帰ってきてからにしろ」
エリアスはそう言うと、カウンターの上に広げられていた、二つの巻物を指さした。「時間がない。お前たちが持っていくべきものは、これだ」
一つは、分厚く、ずっしりと重い羊皮紙の束だった。
「北方廃墟、およびその周辺地域の詳細地図だ。昔、わしが若い頃に参加した調査隊が作成したものの写しだがな。今の地図には載っておらん、古い道や水源の位置も記してある」
エリアスがそれを広げると、カイルは息を呑んだ。そこには、精密な筆致で描かれた地形と共に、おびただしい数の注釈が、血の色を思わせる赤インクで書き込まれていた。
『この谷、常に鳴き声』
『原因不明の崩落多し。通行不可』
『魔力の流れ、異常』
その一つ一つの言葉が、北方廃墟という場所がいかに人の生存を拒む、呪われた土地であるかを物語っていた。
「そして、これがもう一つだ」
エリアスは、もう一つの、より小さな巻物をカイルに手渡した。
「お前たちが持ち込んだ“魂の棘”と、坊主の力に関係すると思われる文献の、重要な部分を書き写しておいた」
その羊皮紙の束の一番最後には、エリアス自身の筆跡で、こう記されていた。
『以下は、わしの仮説だ。ただの希望的観測かもしれんが……』
カイルは、ごくりと喉を鳴らして、その先を読んだ。
『“心音継ぎ”の伝説には、彼らが荒ぶる獣の心を“鎮めた”という記述が散見される。もし、土地の汚染が“魂の棘”によって大地がもたらす“苦痛”なのだとすれば……その“苦痛”を鎮めることができるのは、あるいは、同じように心の声を聞くことができる、坊主の力だけなのかもしれん』
カイルの心臓が、大きく跳ねた。自分のこの得体の知れない力が、ただの戦闘能力ではなく、この事態を根本から解決するための、唯一の鍵になるかもしれない。エリアスのその仮説は、カイルの胸に、恐怖と入り混じった、小さな、しかし確かな希望の光を灯した。
「わしにできるのは、ここまでだ」
エリアスは、全ての書物を革の筒に収めると、それをレオンに手渡した。
「この先は、お前たちの領域だ」
彼は、レオンの目を真っ直ぐに見つめた。
「レオン。昔の二の舞は演じるなよ。仲間を失った、あの時の過ちを繰り返すな。今のお前には……守るべき“弟子”がいるのだからな」
その言葉に、レオンは何も答えなかった。ただ、固く、一度だけ頷いた。カイルは、師の横顔に浮かんだ、これまで見たこともないほどの深い苦悩の色を、見逃さなかった。
エリアスは最後に、カイルの方へと向き直った。その片眼鏡の奥の瞳は、学者らしい厳しい光をたたえていた。
「坊主」
「は、はい!」
「その力を恐れるな。使いこなせ。あるいは、それこそが、この絶望的な盤面を覆す、唯一の“鍵”になるやもしれんのだからな」
それは、学者なりの、最大限のエールだった。
カイルは、胸に突き刺さるようなその言葉を、深く、深く、心に刻み込んだ。
「……ありがとうございます」
彼が絞り出した声は、震えていた。
二人は、エリアスに背を向け、書庫の扉へと向かう。カラン、と乾いた鈴の音が、夜明け前の静寂の中に、小さく、そして寂しく響き渡った。




