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第二十三話 広がる汚染

 ドルガンがばつが悪そうに去っていった後も、組合の酒場は相変わらずの喧騒に満ちていた。だが、カイルの世界は、ほんの少しだけ違って見えていた。いや、聞こえている、と感じるべきか。彼は、レオンに倣って黙々とシチューを口に運びながら、意識の片隅で、自らの内なる水面を静かに見つめていた。


「静寂の心」。

 それは、まだ彼にとって、時折しか訪れることのない、奇跡のような瞬間だった。だが、一度その入り口を知ってしまえば、彼はもう、以前のようにただ情報の奔流に呑まれるだけの少年ではいられなかった。


 彼は、訓練の延長として、周囲の喧騒や感情を意識的に「聞き流し」ていた。隣のテーブルで繰り広げられる、依頼の成功を自慢する大声。それは、大きな石が投げ込まれたかのような、派手でわかりやすい波紋を立てる。カイルはそれを認識し、そして、心を揺らさずに見送る。


 カウンターで一人、故郷を思って杯を傾ける傭兵の、静かな哀愁。それは、もっとずっと小さく、しかし長く尾を引く波紋だ。カイルはそれもまた、ただ、そういうものとして受け流す。


 彼の心は、街の広場に立つ掲示板のようになっていた。無数の情報が貼られては、剥がされていく。だが、掲示板そのものが、その内容に一喜一憂することはない。


 その、穏やかになった精神状態の中、ふと、これまでなら他の大きな音にかき消されてしまっていたであろう、ひどく微かで、しかし不穏な囁き声の“波紋”を、カイルは拾い上げた。


 三つ隣のテーブル。つい先ほど森から戻ってきたらしい、泥と疲れにまみれた三人組の冒険者だった。彼らは、声を潜め、真剣な顔つきで何かを話し合っている。


「……おい、聞いたか? 東の森の様子が、どうもおかしいらしい」

 一人の男が、エールの杯で口元を隠しながら言った。


「ああ。獣の姿がめっきり減ったそうだ。獲物どころか、小鳥一羽見かけなかったと、昨日帰ってきた連中が言っていた。まるで、森から生命がごっそり抜け落ちたみたいにな」

 もう一人が、眉間に深い皺を寄せて応える。


「それだけじゃねえ。俺たちが見てきたんだが、あの辺りだけ、妙に木の葉が枯れてる。まだ秋には早すぎるってのによ。まるで、そこだけ冬が来たみたいだった」


 カイルは、シチューをすくう匙を、思わず止めた。東の森。キメラと戦った、あの森だ。獣が消え、木々が枯れる。それは、オークやゴブリンが暴れた結果として起こる現象とは、明らかに質が違っていた。もっと根源的で、静かで、だからこそ、ひどく不気味な異変。


 カイルは、ちらりとレオンの顔を窺った。師は、表情を変えずに食事を続けている。だが、カイルにはわかった。彼の心の水面にもまた、同じ噂の波紋が、静かに、しかし深く広がっているのが。レオンもまた、その噂に静かに耳を傾けていたのだ。


 彼の眉間に、これまで以上に深い一本の線が刻まれていく。レオンもまた、気づいている。これは、ただ事ではない、と。


 カイルは、師の横顔を窺った。レオンは、表情こそ変えなかったが、その瞳の奥で、いくつもの思考が高速で駆け巡っているのを、カイルは感じ取っていた。獣が消え、木々が枯れる。それは、自分たちが対峙している敵の、真の目的と何か関係があるのだろうか。

 レオンが、何かを言いかけた、まさにその時だった。


 バンッ!!


 まるで攻城槌が打ち付けられたかのような轟音と共に、冒険者組合の重い木の扉が、勢いよく内側へと開け放たれた。

 酒場の喧騒が、ぴたりと止まる。全ての冒険者たちの視線が、入り口に立つ一人の人物へと注がれた。


 カイルもまた、驚いてそちらを振り返り、そして、自分の目を疑った。

「……エリアスさん?」

 そこに立っていたのは、賢者の書庫の主人、エリアスその人だった。だが、その姿は、カイルが知る飄々とした老学者のそれとは、似ても似つかぬものだった。


 着古したローブは乱れ、彼のトレードマークである片眼鏡は、あらぬ方向へとずり上がっている。普段は古書の埃でのみ汚れているはずの顔は、今は土と汗にまみれ、何よりも、その表情。そこには、いつものような知的な好奇心の色はなく、純粋な、剥き出しの焦りと危機感が浮かんでいた。彼は、まるで何かに追われるように肩で息をし、血走った目で必死に組合の中を見回していた。


 やがて、その視線が、隅のテーブルに座るレオンとカイルの姿を捉える。

「……レオン!」

 エリアスは、かすれた声で叫ぶと、周囲の冒険者たちが作る人垣を、赤子をかき分けるようにして突き進んでくる。そのただならぬ様子に、誰もが道を開けた。


 彼は、二人のテーブルにたどり着くや否や、カウンターに激しく両手をつき、前のめりになった。

「探したぞ! 大変なことがわかった!」


 その叫び声は、静まり返った組合の中に、奇妙なほど大きく響き渡った。エリアスは、ぜえぜえと息を整えながら、握りしめていた一枚の羊皮紙を、テーブルの上に叩きつけるようにして広げた。それは、インクの染みと、慌てて書きなぐったような文字で埋め尽くされている。


 周囲の冒険者たちが、何事かと、遠巻きにこちらへとにじり寄ってくる気配がした。その視線に気づいたエリアスは、はっと我に返ると、ぐっと身を乗り出し、声を潜めた。その囁き声は、先ほどの叫び声よりも、ずっと緊迫感を帯びていた。


「……あの“棘”だ」


 彼は、レオンの目を真っ直ぐに見つめて言った。

「あれは、我々が考えていた以上に、遥かに厄介な代物だった」

 その言葉の重みに、カイルは息を呑んだ。酒場の喧騒は、もうどこにもなかった。世界から、音が消えたようだった。


 レオンは、エリアスのただならぬ様子と、周囲に集まり始めた好奇の視線を一瞥すると、短く言った。


「……場所を変える」


 三人は、足早に組合を後にした。夕暮れの喧騒に満ちた街を、彼らはほとんど無言で突き進む。行き交う人々の陽気な話し声や、露店から漂う食事の匂いが、まるで別の世界の出来事のように感じられた。カイルの胸中は、エリアスがもたらした不吉な予感で満たされていた。


 賢者の書庫に駆け込むと、エリアスは扉に内側から鍵をかけると、乱雑に積まれた本の山をかき分け、店の奥へと二人を導いた。そこは、彼の私的な研究場所のようだった。様々な道具やレンズが散らばる作業台の隅に、ぽつんと、一つの植木鉢が置かれていた。


 カイルは、その鉢を見て、思わず息を呑んだ。

 中にあるべき植物は、黒く炭化したように縮こまり、指で触れればそのまま崩れてしまいそうだった。だが、異常なのはそれだけではない。鉢の中の土。それは、本来あるべき生命力に満ちた黒土ではなく、まるで全ての養分を抜き取られたかのような、白に近い、死んだ灰色の砂へと変わり果てていた。


「これは……」

「好奇心は、時に、見たくない真実を暴いてしまう」

 エリアスは、苦々しげに言った。

「オークから抜き取った棘の、ほんの小さな欠片を、この鉢に刺しておいたんだ。ただの変化の観察のつもりだった。だが……」

 彼は、枯れ果てた植物を、指先でそっと撫でた。

「たった三日で、この有様だ。元気だった薬草が枯れ、土は完全に死んだ。これは、ただの毒じゃない。もっと根源的な……生命そのものを“喰らう”何かだ」


 その恐ろしい結果から新たな仮説を立てたエリアスは、寝る間も惜しんで、再び古文書の海に潜ったのだという。そして、以前は見落としていた、ある一節を発見したのだと。


 彼は、埃をかぶった分厚い書物――『影の大戦の記録』と題された禁書の一種――を祭壇のようにテーブルの中央に置くと、あるページを開いた。そこには、禍々しい棘が、大地に突き刺さっている挿絵が描かれている。


「我々は、間違っていたのかもしれん、レオン」

 エリアスは、震える指でその一節をなぞった。「“魂の棘”がもたらす獣の狂気は、人の目を欺き、恐怖を煽るための、ただの陽動に過ぎぬ、とここにはある」

「……陽動?」

「ああ。その真の機能は、もっと別のところにある。聞け」


 エリアスは、古びたページに落ちるランプの光を頼りに、厳かな声でその文章を読み上げた。


「――その真の機能は、大地に深く根を張り、その土地が持つ生命力そのものを吸い上げ、不毛の死の大地へと変えることにある」


 その言葉が、書庫の静寂の中に、重く、そして絶望的に響き渡った。


 カイルの頭の中で、組合で聞いた冒険者たちの噂が、雷鳴のように反響した。

 ――獣の姿がめっきり減った。

 ――森から生命がごっそり抜け落ちたみたいに。

 ――あの辺りだけ、妙に木の葉が枯れている。

 

 全てが、繋がった。黒幕の目的は、単に魔物を暴れさせて混乱を引き起こすことではなかった。もっと大規模で、時間をかけて、このトラヴィス周辺の土地そのものを、回復不可能なまでに汚染し、生命の存在できない死の大地へと変えること。


 それは、もはや冒険者が魔物を一体一体倒して解決するような、単純な問題ではなかった。

 レオンは、黙って目を閉じていた。だが、固く握りしめられた彼の拳が、その内心の激しい動揺を物語っていた。敵は、彼が想像していた以上に、遥かに狡猾で、その目的は遥かに悪質だった。


 エリアスは、二人の沈黙を肯定と受け取ったのか、震える声で続けた。その声は、学者としての冷静さをかなぐり捨てた、一人の市民としての、純粋な恐怖に染まっていた。


「古文書の記述通りなら、奴らの計画はまだ準備段階だ。だが、このまま“棘”が増え続ければ……」

 彼は、一度言葉を切り、まるで宣告を下すかのように言った。

「森が完全に沈黙するまで、もって半年……いや、今の汚染の進行速度を考えれば、三ヶ月かもしれん」

「……!」

「そして、森が死ねば、川は涸れ、大地は痩せる。このトラヴィスの街も……いずれは同じ運命を辿ることになる」

 タイムリミット。

 その言葉が、カイルの頭の中で、死刑執行を告げる鐘のように鳴り響いた。もう、悠長に稽古をしている時間はない。自分自身の力の謎に、思い悩んでいる暇もない。


 事態は、彼らの想像を遥かに超える速度で、破滅へと向かって突き進んでいた。書庫の中の、頼りないランプの光が、三人の顔に深い影を落とす。


 カイルは、自分の手のひらを見つめた。まだ、あまりにも小さく、無力な手。レオンは、ゆっくりと目を開けた。その瞳の奥には、これまでにないほど冷徹で、そして、硬質な決意の光が灯っていた。


 トラヴィスの街で過ごした、穏やかな時間は、今、音もなく終わりを告げた。

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