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第二十二話 静寂を破る者たち

 井戸の水面に落ちた一枚の枯葉。

 その日、カイルが掴んだ小さな気づきは、彼の世界との関わり方を、静かに、しかし根底から変えつつあった。

 彼はもう、情報の奔流にただ苛まれるだけの無力な存在ではなかった。心の門を開け放ち、流れ込んでくる無数の感情や音を「そういうものだ」とただ認識し、受け流す。その技術は、まだひどく不格好で、成功するよりも失敗することの方がずっと多かったが、それでも彼の心に確かな支柱を打ち立てていた。


「少しは、顔つきが戻ってきたな」

 朝食の席で、レオンがぼそりと言った。ここ数日、まともに食事が喉を通らなかったカイルが、夢中でパンを頬張る姿を見てのことだった。

「はい。なんだか……少しだけ、楽になった気がします」

「そうか。ならば、次の段階へ進む」

 レオンのその言葉に、カイルはパンを飲み込み、顔を上げた。

「次の、段階?」

「いつまでも井戸の前に座っているわけにもいかん。お前がその力を本当に武器にするのなら、戦いの中で自在に使えなければ意味がない」

 レオンは静かに立ち上がった。

「裏庭へ来い。今日からは、動きながら静寂を保つ訓練をする」


 白鹿亭の裏庭には、秋の気配を含んだ、冷たく澄んだ空気が満ちていた。

 レオンはカイルに木剣を渡すと、自身もそれを手に取り、ゆっくりと間合いを取った。

「いいか、カイル。これから俺は、お前に打ち込む。だが、お前は目で見て避けるな」

「目で……見ない?」

 あまりにも無茶な要求に、カイルは目を丸くした。


「そうだ。目で追うから、心が乱れる。思考が邪魔をする。そうではない。目を閉じろとは言わん。だが、意識は目の前の俺ではなく、お前の内側にある、あの静かな水面に向け続けろ」

 レオンは、木剣を水平に構えた。その姿には、一切の隙がない。

「俺の敵意が、殺気が、お前の心の水面に落ちる。その“雫”を感じてから動け。目で見て避けるのではない。心で感じて、避けろ。それが、今日お前が学ぶべきことだ」


 カイルは、ごくりと喉を鳴らした。座って精神を集中させるだけでもあれほど苦労したのだ。動きながら、しかも、レオンの剣を受けながら、あの静寂を保つ。それがどれほど困難なことか、想像するだけで身が震えた。

 だが、彼はもう、できないとは言わなかった。

「……はい!」

 短く、しかし力強い返事と共に、彼は木剣を構えた。そして、意識を自分の内側へと沈めていく。

(大丈夫だ。あの井戸の水面を、思い出すんだ)

 彼は、流れ込んでくる情報を無理に拒絶しない。風の音、土の匂い、レオンの気配。その全てを、ただ受け入れ、聞き流していく。

 ほんの数秒間。彼の心に、あの透明な静寂が訪れた。


 その、瞬間だった。

 ――ぽつん。

 心の水面に、鋭く、冷たい雫が落ちた。

 レオンの敵意。

 カイルは考えるより先に、体が勝手に動いていた。右足を半歩引き、体を捻る。

 ヒュッ、と鋭い風切り音を残して、レオンの木剣が、先ほどまでカイルの頭があった場所を通り過ぎていった。


(……避けられた!)

 歓喜が、胸の奥から湧き上がってくる。その感情が、彼の心の静寂をわずかに乱した。

 その隙を、レオンが見逃すはずもなかった。

 ゴンッ!と、鈍い衝撃。

 気づいた時には、カイルは背中から地面に打ち付けられていた。レオンの第二撃である、胴への薙ぎ払いを、全く感知できていなかったのだ。

「ぐっ……!」

「一つの雫に心を奪われるな」

 レオンは、倒れたカイルを冷徹に見下ろしながら言った。

「波紋は広がり、そして消える。それだけだ。いつまでもそれに囚われるな。次の雫は、常にお前の予期せぬ場所へ落ちる」


 カイルは、咳き込みながら立ち上がった。

 わかってはいる。だが、それがどれほど難しいことか。

 再び、訓練が始まった。

 レオンは、ゆっくりとした、しかし淀みのない動きで打ちかかってくる。カイルは必死に心を静め、その一撃の予兆である“雫”を捉えようとする。

 雫を感じ、避ける。


 だが、避けたという安堵や、次の一撃への恐怖といった感情が、すぐに彼の心の水面を波立たせる。そして、その乱れを突かれて、レオンの木剣が容赦なく彼の体を打ち据えた。何度も、何度も、地面に転がされる。腕に、足に、背中に、鈍い痛みが蓄積していく。動と静。その二つを両立させることは、今のカイルにとっては、水と油を混ぜ合わせようとするような、不可能に近い挑戦に思えた。


 どれくらいの時間が経ったか。カイルは、もう全身が泥と汗にまみれ、息も絶え絶えだった。体力よりも、精神の消耗が激しい。

「……今日は、そこまでだ」

 レオンが、ようやく稽古の終わりを告げた。

 カイルは、その場にへたり込んだ。悔しさと、自分の不甲斐なさで、唇を噛み締める。

「……全然、できませんでした」

「当たり前だ」

 レオンは、木剣を肩に担ぎながら言った。「座って一日で掴んだものを、立って一日で使いこなせると思うな。そんな安っぽい力ではない、お前のそれは」

 その言葉には、厳しさの中に、ほんのわずかな慰めが混じっているような気がした。


「一つだけ、助言をやろう」

 レオンは、空を見上げながら言った。

「お前はまだ、“雫”が落ちてくるのを待っている。受け身すぎる。そうではない。お前自身が、相手の心に波紋を立てさせろ。お前の動きで、お前の気配で、相手の心を揺さぶり、そこに生まれた“雫”を逆に利用するんだ」

「俺が……相手の心を……?」

「そうだ。真の戦いとは、剣を交える前に、すでに心と心の探り合いで始まっている。その探り合いで、お前は圧倒的な優位に立てるはずだ。……その意味がわかるまで、お前はまだ、ただ打たれ続けるしかないだろうな」

 レオンはそれだけを言い残すと、母屋の方へと戻っていった。


 一人残されたカイルは、泥だらけの手で顔を覆った。

(相手の心を揺さぶる……)

 あまりにも、今の自分には遠すぎる境地だった。

 だが、彼は絶望していなかった。

 今日、彼は何度も打ちのめされた。しかし、その中で、ほんの数回だけ、確かにレオンの剣を“感じて”避けることができた。ゼロではない。その事実が、彼の心を折れさせなかった。彼は、痛む体を叱咤して立ち上がると、もう一度、ゆっくりと木剣を構えた。


 まだ陽は高い。一人でもできることは、まだあるはずだ。レオンに与えられた、あまりにも遠い境地。今はまだ、その意味さえも分からない。だが、いつか必ずそこに辿り着いてみせる。その一心で、彼は日没まで無心に剣を振り続けた。


 その夜。

 二人は夕食と情報収集を兼ねて、冒険者組合の酒場を訪れていた。

 夕暮れ時の組合は、一日の仕事を終えた冒険者たちの熱気でむせ返るようだった。エールが呷られる音、依頼の成功を自慢する大声、金勘定をする皮算用、そして、負け戦の愚痴。様々な感情が渦巻くこの場所は、「静寂の心」を試すには、ある意味でうってつけの環境と言えた。


 カイルは、レオンに言われた通り、あえて心の門を完全に閉ざさなかった。流れ込んでくる情報の奔流を、井戸の水面に映る雲のように、ただ、受け流す。まだひどく不格好で、時折、隣の席の男の怒声に意識を引きずられそうになるが、それでも以前のように呑まれることはなくなっていた。


「あら、坊やたちじゃないか。お疲れさん」

 注文したシチューを運んできた赤毛の受付嬢が、気さくに声をかけてきた。

「今日はどうだったんだい? いい仕事はあったかい?」

「いえ、今日は稽古を……」

 カイルがそう答えかけた、まさにその時だった。

 背後から、わざとらしく、ねっとりとした声がかけられた。


「へえ……稽古、ねえ。いつまでもお師匠様の後ろにくっついて、お遊戯でもしてるのかい、ひよっこ」


 カイルは、びくりと肩を震わせた。振り返るまでもない。ドルガンだ。彼は、仲間と思われる数人の冒険者を引き連れて、カイルのテーブルの前に仁王立ちになっていた。その目には、いつものように、獲物を見つけた肉食獣のような、下卑た光が浮かんでいる。


「なんだい、その目は。この前のゴブリン退治で、少しは自信でもついたか? ああ?」

 ドルガンは、わざとらしく周囲に聞こえるような大声で言った。


「聞いたぜ。お師匠様と二人掛かりで、たかがゴブリン数匹に半日もかかったんだってなあ!」


 周りのテーブルから、くすくすと下品な笑い声が漏れた。以前の自分なら、ここで顔を真っ赤にして、何か反論しようとしていただろう。あるいは、悔しさに唇を噛み締め、俯いていただろう。

 だが、今のカイルは違った。


 彼は、ドルガンが発する罵詈雑言の言葉を、ただの「音」として聞いていた。そして、その音の裏側から流れ込んでくる、もっとずっと強烈な感情の“波紋”を、静かな心の水面で感じ取っていた。

(……ああ、そうか)

 カイルは、初めて理解した。


 ドルガンの心から流れ込んでくるのは、純粋な悪意や憎悪ではなかった。もっとずっと、泥臭くて、みっともなくて、そして、悲しい感情の渦だった。自分よりも若く、まだ何者でもないはずの少年が、あの“蒼鷲”レオンの指導を受けていることへの、焼けつくような嫉妬。


 銅等級から一向に抜け出せず、停滞している自分自身の不甲斐なさへの、苛立ちと劣等感。

そして、何より――。

 誰でもいい、誰かに認められたい。すごい奴だと思われたい。このちっぽけな自分を、見てほしい。そんな、喉がからからに渇ききった子供のような、痛々しいまでの渇望。


 それらが渾然一体となって、ドルガンという人間を内側から突き動かしている。彼の吐き出す汚い言葉は、その苦しい感情の、ほんの上澄みに過ぎなかったのだ。


 カイルは、もう怒りも、恐怖も、悔しさも感じていなかった。

 ただ、目の前の男が、どうしようもなく哀れに見えた。


 彼は、何も言わなかった。

 ただ、静かな、凪いだ瞳で、ドルガンを見つめ返した。

 その瞳には、侮蔑も、敵意も、何も映っていなかった。


「……なんだよ、その目は」

 ドルガンの声が、わずかに揺らいだ。

 彼は、カイルからの反撃を待っていた。恐怖に歪む顔か、怒りに満ちた反論か。そのどちらかを期待していた。だが、目の前の少年は、まるで深い井戸の底からこちらを見つめているかのように、ただ静かなままだった。その静寂が、ドルガンをどうしようもなく苛立たせ、そして、怯えさせた。


「……ちっ、つまらねえ奴だ!」


 彼は、それ以上カイルに絡む気力を失ったようだった。吐き捨てるようにそう言うと、ばつが悪そうに仲間たちの方へ向き直り、足早に酒場の奥へと消えていった。


 嵐が去った後も、カイルは、ただじっと自分の手のひらを見つめていた。隣で、レオンが何も言わずに、エールを一口飲む音がした。カイルは、戦わなかった。剣を抜かなかった。それどころか、言葉さえ発しなかった。ただ、相手を“理解”した。そして、それだけで、ドルガンの言葉という名の剣は、カイルに届く前に、その力を完全に失ってしまったのだ。


「静寂の心」とは、ただ敵の殺気を読むための技ではない。それは、刃なき戦いを終わらせるための、あまりにも静かで、そして、強大な力なのかもしれない。カイルは、その計り知れない力の入り口に、今、ようやく立ったばかりだった。

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