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第二十話 静寂の心

 夜が明けきらぬ、青と紫のグラデーションが空を支配する時間。

 カイルは、白鹿亭の裏庭で一人、木剣を振っていた。昨夜、レオンの前で立てた誓いが、彼の全身に今まで感じたことのない種類の張りつめた熱を帯びさせていた。


 恐怖は消えていない。崖の上から自分たちを見下ろしていた、あの冷たい好奇心の視線を思い出すだけで、今も背筋が凍る。だが、その恐怖はもはや、彼を立ち止まらせるためのものではなかった。それは、彼の足を一歩前へ、もう一歩前へと踏み出させるための、燃えるような燃料に変わっていた。


 一振り、また一振り。

 風を切る音だけが、まだ眠る街の静寂に響き渡る。彼の動きには、もう以前のような迷いや逡巡はなかった。剣の切っ先が描く軌跡を、彼の瞳は寸分違わず追い続けている。それは、ただの反復練習ではなかった。昨日の自分を超えるための、そして、あの得体の知れない敵と対峙するために、己の全てを懸けた、静かな儀式だった。


 やがて、背後に人の気配が立った。レオンだ。

 彼は何も言わず、カイルが息を切らして動きを止めるまで、ただ静かにその様子を見守っていた。カイルの目の中に宿る光が、昨日までとは明らかに違う種類のものであることに、レオンは気づいていた。


「……レオンさん」

 汗を拭い、息を整えたカイルが、次の指導を仰ごうと口を開く。だが、レオンはそれを手で制した。

「その剣を置け」

「え……?」

 予期せぬ言葉に、カイルは戸惑った。

「今日の稽古は、打ち込みではない」


 レオンは、カイルの前に立つと、その目を真っ直ぐに見据えた。

「昨日の覚悟が本物なら、次の段階へ進む。これまでの稽古は、剣の型と力を体に覚えさせるためのものだった。だが、次の敵はそれだけでは勝てん」

 レオンの声は、朝の空気のように、冷たく澄み渡っていた。


「敵は、お前のその力を知った。ならば、次はこちらの裏をかいてくるだろう。お前の心を読む敵もいるかもしれん。あるいは、心を偽り、お前を罠にかける敵もな。今のお前は、その濁流に赤子の手をひねられるように呑まれるだけだ」

 その指摘は、カイルが薄々感じていた不安の核心を、正確に突き刺していた。

「今日からお前が学ぶのは、剣の技ではない。心の技だ。自らの心を、誰にも読まれぬよう固く閉ざし、同時に、相手の心の偽りを見破るための技を身につける」

「心の……技……」

「俺の知る限り、そんな技術は我流で編み出すには時間がかかりすぎる。再び、あの古物商の知識を借りるぞ」


 ⸻


 賢者の書庫の扉を開けると、昨日と同じ、古い紙とインクの匂いが二人を迎えた。エリアスは、本の山の頂上近くで何かを調べていたが、二人の姿を認めると、猿のように身軽な動きで梯子を滑り降りてきた。


「ほう、また来たか。今度はどんな厄介事を持ち込んできた?」

 その片眼鏡の奥の瞳は、好奇心で爛々と輝いている。

 レオンは、挨拶もそこそこに、単刀直入に尋ねた。

「エリアス。“心音継ぎ”の伝説の中に、彼らが自らの心を守るための技術があったという記述はないか。他人の感情の奔流から、精神を守るための方法だ」


 エリアスの眉が、興味深そうにぴくりと上がった。

「……面白いところに目をつけたな、レオン。普通の人間なら、他人の心を読むことばかりに興味を持つものだが。お前さんは、その“防御”に興味がある、と」

 彼は何かを合点したように頷くと、「少し待っていろ」と言い残し、再び書庫の迷宮へと消えていった。ガサガサと本を漁る音、時折聞こえるくしゃみ。カイルは、この時間だけが、外界から切り離されているような、不思議な感覚に陥っていた。


 しばらくして、エリアスは埃まみれになった一冊の古い本を手に戻ってきた。『辺境異聞録』と題された、聞いたこともない書物だった。

「やはり、あった。有名な伝承ではない。北の辺境の一地方にだけ、ごく僅かに伝わっていた口伝を、旅の学者が書き留めたものらしい」


 エリアスは、脆くなったページを慎重にめくり、ある一節を指さした。

「……“心音継ぎ”は、その祝福されし力ゆえに、常に苦しんでいた、とある。世界に満ちるあらゆる生命の喜び、そして、それ以上の悲しみと苦しみが、昼夜を問わずその魂に流れ込み、心休まる時がなかった、そうだ」

 カイルは、その記述に、我がことのように胸が痛んだ。

「だからこそ、彼らは必要に迫られ、ある技術を生み出した」

 エリアスは、少しだけ声を潜め、厳かに続けた。


「その技術は“静寂のサイレント・ハート”と呼ばれ、己の心を、風ひとつない夜の湖面のように、完全に静めるものだったという。一度その境地に至れば、外界からのいかなる感情の波も、その水面に届くことはない。何者の干渉も許さぬ、絶対的な精神の聖域を作り出すことができたそうだ」


「絶対的な……聖域……」

 カイルは、ゴクリと喉を鳴らした。それこそが、今の彼が喉から手が出るほど求めているものだった。


「だが、面白いのはここからだ」と、エリアスは片眼鏡を光らせた。「それは、ただ心を閉ざすだけの技術ではなかった。完全に静まり返った心だからこそ、その水面に落ちた一滴の雫――すなわち、相手が隠そうとする微かな殺意や、巧妙に偽装された嘘の感情がもたらす、ほんの僅かな心の“波紋”を、他のどんな雑音にも惑わされることなく、より鮮明に感じ取ることができた、と記されている」


 究極の防御にして、最強の洞察。

 それは、カイルの未知の力を、制御可能な「武器」へと昇華させるための、まさに天啓のような答えだった。

「……その、修練方法は」

 カイルが、思わず前のめりになって尋ねる。

 エリアスは、残念そうに首を振った。

「……それについては、こう締めくくられているだけだ。『その修練方法は、一族の中で、師から弟子へ、心から心へと伝えられるのみ。今となっては、完全に失われた技術である』とな」


 ⸻


 店を出ると、昼の陽光が目に痛かった。

 具体的な方法は、わからなかった。だが、目指すべき頂は見えた。それだけで、十分だった。

 白鹿亭の裏庭に戻った二人は、どちらからともなく、向かい合って静かに立った。

「方法は書かれていなかった」

 レオンが言った。「ならば、俺たちで編み出すしかない。お前自身の感覚と、俺の経験。その二つを頼りにな」

「はい!」

 カイルは、力強く頷いた。


 それが、これまでで最も長く、そして困難な挑戦の始まりだった。

「まず、目を閉じろ」

 レオンの指示に従い、カイルはゆっくりと瞼を下ろす。

「そして、俺の前にただ立て。何も考えるな。風の音、鳥の声、遠くで聞こえる街の喧騒、そして、目の前に立つ俺の気配……その全てを、“聞くな”」

「聞かない……?」

「そうだ。お前の内側にあるはずの、完全な静寂だけを探せ。そこからが、全ての始まりだ」


 カイルは言われた通りに、意識を自分の内側へと沈めていこうとした。

 だが、できない。

 目を閉じれば、聴覚が、触覚が、そしてあの第六感とも言うべき“感覚”が、より鋭敏になる。


 サァー、と頬を撫でる風の音。

 チチ、と鳴く小鳥の声。

 カン、カン、と響く鍛冶場の音。

 それらが、普段の何倍も大きく、明確に意識の中に入り込んでくる。

 聞くな、と念じれば念じるほど、かえってその音に囚われてしまう。

 やがて、外の音だけではない。自分の内側にある音が、騒ぎ始めた。

 ドクン、ドクン、と脈打つ心臓の音。

 ザー、と流れる血の音。

(観測者……魂の棘……北方廃墟……)

 頭の中に渦巻く、不安や恐怖。

(強くならなければ……でも、どうやって……)

 焦り。

 それらの思考が、次から次へと湧き上がっては消え、彼の精神を掻き乱す。

 そして、ダメ押しのように、街全体から流れ込んでくる、無数の人々の感情の奔流が、彼の意識を呑み込もうとしていた。


 静寂など、どこにもなかった。

 世界は、音と感情で満ち満ちている。自分の内側でさえも。静寂を探そうとすればするほど、自分がいかに巨大な騒音の只中にいるかを、思い知らされるだけだった。


 額から、冷たい汗が流れ落ちる。カイルは、まるで嵐の海に放り出された小舟のように、ただ、その情報の奔流の中で耐えることしかできなかった。

 それは、剣を振るうことよりも、魔物と対峙することよりも、ずっと孤独で、果てしない戦いだった。

 レオンは、その傍らで、ただ静かに腕を組み、苦悶の表情を浮かべる弟子の姿を、厳しい、しかしどこか忍耐強い目で見守り続けていた。

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