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第二話 カイル

 朝霧が薄く立ち込める森の小道。土の湿った香りと、草木の匂いが混ざり合い、鼻先をくすぐる。老齢の冒険者は、ゆっくりと歩を進める。背中には剣、腰には小さな荷物。昨日の山道の疲れは残っているが、心はどこか軽やかだった。


「やはり、旅というのは……いいものだな」


 小鳥のさえずり、遠くで小川がせせらぐ音。自然の中に身を置くと、長く閉じこもっていた隠居生活では味わえなかった感覚が蘇る。体力は衰えたが、心と技術はまだ衰えていない。目に映る景色、耳に届く音、手で触れる感触すべてが新鮮で、歩みを止めることなく森を進む。


 オルステッド村を出て数日、レオンは広大な草原をひたすら歩き続けていた。空には雲ひとつなく、降り注ぐ陽射しが地面を熱くする。遠くに広がる山々の稜線がぼんやりと霞んで見え、まるでこの旅の終わりがどこまでも遠いことを物語っているようだった。


 その時、風に乗って微かに聞こえてきたのは、人の悲鳴と、獣の甲高い咆哮だった。レオンは、長年の経験が研ぎ澄ました聴覚で、それが魔物の鳴き声だと瞬時に見抜く。その音は、この先のフォルナ村の方角から聞こえてくるようだった。


「……厄介だな」


 レオンは小さく呟き、足早に駆け出した。彼の骨太な体躯は、老いによって動きが鈍くなっていたが、それでも剣士として培った身のこなしは健在だ。森を抜け、丘を越えると、視界の先に一つの村が見えた。そして、立ち昇る黒煙と、村中を駆け回るゴブリンたちの姿も。


 ゴブリンは、緑色で、ごつごつと瘤のようなものができた肌をしている。つり上がった目は獰猛な光を宿し、大きくとがった鼻の下から覗く牙が、その邪悪さを物語っていた。彼らは手に粗末な武器を持ち、無秩序に村を破壊し、家々から食料や金品を奪っていた。村の自警団らしき男たちが勇敢に立ち向かっていたが、数と力で劣る彼らは次々と倒れていく。


 村の広場では、数人の自警団員が、十数匹のゴブリンに囲まれ、絶体絶命の窮地に陥っていた。彼らの剣はボロボロに折れ、盾は大きくひび割れている。背後には、幼い子供を抱え、怯えきった表情で立ち尽くす村人たちの姿があった。


「もう駄目だ……」


 自警団の一人が、力なく呟いた。ゴブリンたちは勝利を確信したかのように、甲高い奇声を上げ、一斉に襲いかかろうとする。


 その瞬間、甲高い悲鳴が混じった。群れの一体が膝から崩れ落ち、胸元に深々と剣が突き刺さっていた。


「……まったく、骨休めはしばらくお預けか」


 低く洩れた声と共に、煙の向こうから一人の老人が歩み出る。レオンは剣を引き抜くと、血を払うように軽く振り、ゆったりと腰を落とした。


 次の瞬間、正面から突っ込んできたゴブリンが力任せに棍棒を振り下ろす。レオンは身じろぎもせず、ほんのわずかに首を傾けただけでそれを躱す。刹那、肘の返しで剣を押し上げ、喉を正確に切り裂いた。


 彼の動きには派手さはない。若者のように大きく剣を振るうこともなければ、力で押し潰すこともない。ただ、必要な分だけ身を動かし、必要な分だけ刃を走らせる。長い年月で磨かれた「最小の動き」が、敵の急所を正確に穿つのだ。


 後方から忍び寄る気配を察すると、振り返らずに左足を半歩引いた。同時に、剣先を背後に流す。刃は、勢い余って飛びかかってきたゴブリンの腹を正確に貫いていた。


「っ……!」


 驚きの声を上げる村人たちをよそに、レオンは微動だにせず次の標的を見据える。目に映るのは敵の姿ではなく、呼吸の乱れ、肩の揺れ、重心の傾き――それだけ。


 無駄を削ぎ落とした所作の一つひとつが、確実に敵の命を奪っていった。若者には真似できない、長い時間を生き抜いた者だけが持つ「老練さ」。それが、群れを相手取るレオンを支えていた。


 最後の一匹が恐怖に背を向けて逃げ出そうとした瞬間、レオンはゆるやかに剣を振り抜いた。飛んだのは、刃の閃光ではなく――ただ一筋、風を裂くような静かな音。次の瞬間、逃げたゴブリンはその場に膝をつき、動かなくなった。


 全てのゴブリンが倒れると、村には静けさが戻った。レオンは深く息をつき、剣を鞘に戻す。その時、彼の目に、村の奥から出てきた一人の少年が映った。少年はレオンの姿を認めると、駆け寄ってきて、彼の前にひざまずいた。


「ありがとうございます! あなたのおかげで、この村は救われました!」


 少年は目を輝かせ、レオンを見上げていた。レオンは、かつて自分が持っていた、剣士に対する純粋な憧れを、少年の瞳の中に見出した。


 彼は、レオンから見て十代半ばといったところだろうか。太陽の光を吸い込んだような輝く金髪は泥に汚れ、服もボロボロに破れていた。しかし、その瞳だけは、濁ることなく、まっすぐとレオンを見つめていた。


「お前は?」


 レオンが問いかけると、少年は少し頬を赤らめながら、自分の名前を告げた。


「俺は、カイルです。この村の自警団見習いをしています」


 レオンは、カイルをじっと見つめる。その瞳には、かつての自分と同じように、戦いへの憧れと、何よりも大切な故郷を守りたいという強い意志が宿っていた。


「……そうか。助けたいと思う気持ちがあるなら、いつか剣は持てるようになる」


 レオンは、カイルの肩を軽く叩いた。その言葉は、老剣士から若者への、人生をかけた助言だった。カイルは、レオンの言葉を胸に刻むように、静かにうなずく。


 その後、レオンは村の長から感謝を述べられ、その日の夜は村長の家で歓待を受けることになった。村人たちが用意した豪華な食事が並び、暖炉の火がレオンの疲れを癒してくれる。村長は、深々と頭を下げた。


「レオン殿、この度は本当にありがとうございました。あなたがいなければ、この村は、我々は、どうなっていたか……」


 村長の言葉は、心からの感謝に満ちていた。レオンは静かに村長を見つめ、酒を一口含む。


「礼には及びません。たまたま通りかかっただけのことで」


 レオンの言葉に、村長はどこか懐かしむように微笑んだ。


「いや……まさか、あの頃、戦場を渡り歩いていたという剣士殿にお会いできるとは。名を聞けば、覚えている者も多いでしょう」


 村長が口にした言葉に、レオンの顔から微かに笑みが消える。彼は静かに酒を飲み干し、遠い目をして語った。


「もう昔の話です。剣を振るうのも骨が折れる、ただの老いぼれですよ。ただ、目の前で困っている人を見捨てるほど、落ちぶれてはいません」


 その言葉には、かつての栄光を遠い過去のものとして、静かに受け入れている老剣士の矜持が滲んでいた。村長は、レオンの言葉に深くうなずき、再び感謝の言葉を述べた。


 食卓では、村長とレオン、それに大人たちが笑い合い、今後の話題で盛り上がっていた。けれどカイルは、その輪に入りきれず、ただ黙ってパンをちぎっていた。小さく息を吸い込んで、カイルはうつむいたままつぶやいた。


「……僕、いつか村を守れる人になりたいんです」


 笑い声が止まり、一瞬だけ食卓に静けさが落ちた。驚いたように顔を上げたカイルに、村長は優しくうなずいた。


「この子は、カイル。幼い頃に魔物に両親を奪われ、それからは私が引き取って育てておるんです。この村を守れるような、立派な剣士になりたいと、いつも言っておって……」


 村長の言葉に、レオンはカイルを静かに見つめる。酒を注ぐカイルの顔には、はっきりとした決意が滲んでいた。食事を終え、レオンが部屋に戻ろうとすると、カイルはそっと彼の後を追い、真剣な眼差しで語り始めた。


「レオンさん。あなたと一緒に旅をさせてください」


 カイルは、真っ直ぐにレオンを見つめ、懇願する。


「この村を、俺の故郷を、自分で守れるくらい強くなりたいんです。どうか、あなた様の剣を、俺に教えてください!」


 その言葉は、レオンの胸に響いた。それは、かつて自分が抱いた、誰よりも強くなりたいという純粋な願いだった。


 レオンは、旅の目的を失いかけていた自分の心に、新たな炎が灯るのを感じていた。この若者を、自らの手で鍛え、故郷を守る「護り人」として育てる。それは、失われた過去を再び取り戻す、最後の冒険になるのかもしれない。

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