第十九話 生還者の問い
森を抜けるまでの帰り道、二人の間にはほとんど会話がなかった。
カイルは、師の数歩後ろを、まるで夢遊病者のように歩いていた。肩の傷が熱を持ち、じくじくと痛む。キメラとの戦いで消耗した体力は限界に近く、一歩足を踏み出すごとに、全身の筋肉が悲鳴を上げていた。だが、そんな肉体的な苦痛は、彼の心を覆う寒々とした感覚に比べれば、些細なことに思えた。
観測者。
崖の上から自分たちを見下ろしていた、あの黒い人影。
その存在が、カイルの世界を根底から揺さぶっていた。あの戦いは、生きるか死ぬかの死闘ではなかった。ただの、実験だったのだ。自分たちは、観察ケースの中に入れられた虫けらで、相手はレンズの向こうから、その反応を冷ややかに楽しんでいたに過ぎない。
その事実が、オークに感じた苦痛よりも、キメラに感じた狂気よりも、ずっと恐ろしかった。
「……見られていた」
森を抜け、夕暮れの街道に出た時、カイルはかろうじてそれだけを声に出した。
「崖の上から、誰かが。あの化け物越しに、俺たちのことを……試すみたいに」
「……やはりな」
レオンは、前を向いたまま静かに応えた。その声に驚きはない。まるで、ずっと前からその可能性に気づいていたかのようだった。
「敵は、我々の力量を測っていた。ゴブリン、オーク、そしてあの混ぜ物の怪物。少しずつ駒の格を上げ、こちらがどこまで対応できるかを見ていたんだ」
「じゃあ、俺の……あの力のことも」
「知られたと考えるべきだろうな」
その言葉は、冷たい宣告のように響いた。カイルは、自分の内側にある、まだ名前もないこの力が、すでに未知の敵にまで知られてしまったという事実に、言いようのない恐怖を感じた。
トラヴィスの街の門が見えてきた時、カイルは心の底から安堵していた。日常の風景。行き交う人々。壁の向こう側にある、当たり前の生活の光。それが、今の彼には何よりも尊いものに思えた。
白鹿亭の扉を開けると、エイダがカウンターの奥から飛んできた。
「あんたたち! なんて格好してるんだい!」
二人の血と泥に汚れた姿、そして何よりも、その顔に浮かんだ尋常でない疲労の色を見て、彼女は悲鳴に近い声を上げた。
「すぐに風呂を沸かすよ! ベルトルド! 一番いい傷薬を持ってきておくれ!」
彼女はいつものように快活に、しかしその瞳の奥には隠しきれない深い心配の色を浮かべて、テキパキと動き回った。その温かい騒がしさが、凍りついていたカイルの心を少しだけ解きほぐしていく。
熱い湯に体を沈めると、全身の傷と疲労が、じわりと溶け出していくようだった。カイルは湯船の中で、ぼんやりと天井の染みを眺めていた。
(これから、どうなるんだろう……)
敵は、自分たちのことを知っている。おそらく、この白鹿亭にいることさえも。だとしたら、この温かい日常も、いつ壊されるかわからない。守りたいものが、初めてはっきりと形になった今、それを失うことへの恐怖が、彼の心を締め付けた。
⸻
その夜、夕食を終えた後も、カイルは食堂の隅のテーブルで一人、考え込んでいた。エイダが用意してくれた食事は、いつもと同じように心の底から温まる味がしたが、今日の彼にはその半分も喉を通らなかった。
レオンは、黙ってエールを一杯だけ飲むと、先に部屋に戻っていった。その沈黙が、カileには重く感じられた。師は、何を考えているのだろう。俺のこの中途半端な力のせいで、余計な危険を招いてしまったと、そう思っているのだろうか。
どれくらいの時間が経っただろう。食堂の客もまばらになり、エイダが後片付けを始めた頃、カイルは重い腰を上げて二階の部屋へと続く階段を上った。
部屋の扉を開けると、レオンは鎧を脱ぎ、窓辺の椅子に座って、静かに月を眺めていた。ランプの灯りは消され、月明かりだけが、彼の銀髪と、年輪の刻まれた横顔を青白く照らし出している。
「……カイル」
カイルが部屋に入ると、レオンは窓の外を見たまま、静かに口を開いた。
「一つ、お前に聞かねばならんことがある」
その声は、いつもの師の、厳しくも穏やかな声だった。カイルは緊張に喉を鳴らしながら、彼の前に立った。
レオンは、ゆっくりとカイルの方へ向き直る。その目は、夜の湖面のように静かで、底が見えなかった。
「敵は、お前のことを見ている」
彼は、事実だけを、淡々と告げた。
「お前のその特異な力も、知られたと考えるべきだ。奴らがその力をどう見ているかまではわからんが……少なくとも、興味を持ったことは間違いない。これから、奴らはお前を狙ってくるかもしれん」
レオンはそこで一度、言葉を切った。窓から吹き込む夜風が、彼の銀髪を静かに揺らす。
「だから、問う」
その声には、わずかな躊躇いもなかった。
「……お前は、この件から手を引け。それが、お前にとって一番安全な道だ」
「え……?」
カイルは、自分の耳を疑った。
「俺一人なら、どうとでもなる。だが、お前は違う。まだ若い。お前には、剣士としてではない、別の生き方を選ぶ権利がある。この街で職人になるのもいい。故郷の村へ帰るのもいいだろう。俺の勝手な旅に、お前をこれ以上付き合わせる義理はない」
それは、レオンなりの、最大限の優しさだった。彼はカイルに、選択肢を与えようとしていたのだ。逃げてもいいのだと。これはお前の戦いではないのだと。
カイルは、何も言えなかった。
唇が、乾いて張り付いたように動かない。
そうだ。逃げればいい。故郷へ帰れば、エイダやベルトルドのような、温かい人々がいる。剣を置き、畑を耕し、穏やかに生きる。それは、かつての自分が夢見ていたはずの、幸せな人生だ。この得体の知れない力も、恐ろしい敵も、全て忘れてしまえばいい。
だが。
カイルの脳裏に、崖の上から自分たちを見下ろしていた、あの黒い人影が浮かんだ。あの、冷え切った好奇心。
そして、キメラから流れ込んできた、無数の生き物の苦痛の叫び。
あれを知ってしまった今、見なかったことにして、本当に穏やかに生きられるのだろうか。
白鹿亭の温かさを知ってしまった今、その温かさが脅かされる可能性から、目を背けて生きていけるのだろうか。
違う。
もう、戻れないのだ。
カイルは、ゆっくりと顔を上げた。
彼の目から、迷いは消えていた。
恐怖は、まだある。自分の無力さも、痛いほどわかっている。
だが、それ以上に、譲れないものが、彼の心の中に確かに生まれていた。
「……嫌です」
その声は、小さく、しかし、決して揺らがなかった。
「俺は、逃げません」
彼は、レオンの目を真っ直ぐに見つめ返した。
「この力が何なのか、まだわかりません。怖いとも思います。でも、これがあるからこそ、俺にしか感じられないものがある。あの化け物の苦しみも、敵の悪意も……。だとしたら、これは、俺が背負うべきものなんだと思います」
カイルは、ぐっと拳を握りしめた。
「それに……俺は、レオンさんの隣で戦いたい。あなたの背中を、ただ見ているだけじゃなくて。いつか、あなたの隣に並んで、一緒に敵を斬れるような、そんな男になりたいんです」
それは、少年が初めて、自らの意志で選んだ、茨の道だった。
もう、誰かに守られるだけの弟子ではない。
共に戦う、一人の戦士としての、覚悟の表明だった。
レオンは、何も言わなかった。
ただ、月明かりの中で、カイルの目をじっと見つめていた。
その静かな瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、まるで眩しいものでも見るかのように、柔らかな光が灯ったのを、カイルは見逃さなかった。
長く、重い沈黙の後、レオンはただ一言だけ、こう言った。
「……ならば、明日の稽古は、今日より厳しくなるぞ」




