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第十八話 第三の波

 賢者エリアスの書庫を訪れてから、トラヴィスの街の空気が、少しずつ、しかし確実に澱んでいくのをカイルは肌で感じていた。

 それは、彼の新しい“感覚”が過敏になっているせいだけではなかった。市場の活気は以前と変わらない。酒場の陽気な歌声も聞こえてくる。だが、その表面的な日常の薄皮一枚下で、人々の心に「不安」という名の冷たい地下水が、じわじわと染み出してきているのがわかった。


 東の街道で、また荷馬車が襲われた。

 森でキノコ狩りに出かけた村人が、おかしな唸り声を聞いて逃げ帰ってきた。

 夜、森の木々が不自然に揺れるのを、見張り台の兵士が見た。

 そんな真偽の定からない噂話が、井戸端やカウンターの隅で囁かれ、人々の心を静かに蝕んでいく。冒険者組合に集う者たちの顔つきも、以前より険しくなっていた。彼らは稼ぎ話よりも、どの道が安全で、どの森が危険かという情報交換に時間を費やすようになった。誰もが、何かがおかしいと感じ始めている。だが、その正体がわからないからこそ、得体の知れない恐怖がゆっくりと街を覆い始めていた。


 カイルは、その目に見えない恐怖の正体を知っていた。

“魂の棘”。

 あの黒い呪具が、今も森のどこかで、新たな犠牲者を生み出している。その事実が、ずしりと重く彼の胸にのしかかった。レオンとの稽古は日増しに苛烈を極めていたが、それはもう、ただ強くなるためだけのものではなかった。来るべき脅威に、抗うために。二人の間には、言葉にしなくとも、そんな覚悟が共有されていた。


 その日は、突然やってきた。

 昼下がりの組合の扉が、まるで爆発したかのように勢いよく開き、全身血塗れの衛兵が一人、転がり込んできた。


「……化け物だ」


 彼は床に倒れ伏したまま、喘ぐように言った。

「東の街道……巡回部隊が……喰われた……!」

 組合の中が、水を打ったように静まり返る。

「……どんな奴だった」

 組合のマスターが、カウンターから身を乗り出して尋ねた。

「わからない……わからないんだ……」

 衛兵は、恐怖で焦点の合わない目で宙を見つめた。

「熊の体に、狼の頭がついていた……腕が、何本もあった……悪夢だ。あれは、神が作った生き物じゃない……!」


 その場にいた誰もが息を呑んだ。悪夢の怪物。それはもう、ただの魔物ではない。

 すぐに、組合の掲示板に緊急討伐依頼が張り出された。銀等級以上。破格の報酬。だが、誰もすぐには動こうとしなかった。腕利きの冒-険者でさえ、未知の怪物に命を賭けることを躊躇っていた。


「……来たか」

 カイルの隣で、レオンが静かに呟いた。第三の波だ。

 レオンは人垣をかき分け、迷うことなくその依頼書を剥ぎ取った。

「行くぞ、カイル」

「……はい!」

 カイルは、自分の声が震えていないことに、少しだけ驚いた。恐怖はある。だが、それ以上に、ここで退くわけにはいかないという、腹の底から湧き上がるような強い意志があった。


 ⸻


 再び訪れた東の街道は、凄惨な戦場の跡と化していた。

 ひっくり返り、無残に引き裂かれた荷馬車。辺り一面に飛び散った荷物と、夥しい量の血痕。そして、地面には巨大で、異様な足跡がくっきりと残されていた。熊のものとも、狼のものとも違う、複数の獣の足跡が一つに混じり合ったような、冒涜的な軌跡。


 カイルは悪臭に顔をしかめながらも、神経を研ぎ澄ませた。

(……近い)

 感じる。圧倒的な、苦痛の奔流。それはもはや、一つの生き物の感情ではなかった。いくつもの断末魔の叫びが、無理やり一つの体に押し込められ、不協和音を奏でているかのようだった。


 レオンの合図で、二人は音を殺して森の中へと入る。足跡を辿った先、少し開けた広場で、“それ”はいた。


 カイルは、自分の目を疑った。衛兵の言った通りだった。巨大な熊の胴体に、巨大な狼の首が不自然に生えている。脇腹からは猪の牙が突き出し、背中には鷲のものに似た翼の残骸が痙攣していた。複数の獣を悪意をもって繋ぎ合わせた、神への冒涜そのもの。その肩口には、見覚えのある“魂の棘”が突き刺さり、毒々しい黒い光を放っていた。


「グルルゥ……アアア……!!」

 それは、咆哮ですらなかった。異なる生き物の声帯から同時に絞り出された、ただの苦痛の塊だった。


「カイル、側面から撹乱しろ! 正面に立つな!」

 レオンが叫び、駆ける。キメラはそれに気づき、熊の剛腕を振り回した。凄まじい風圧が空気を震わせる。レオンはそれを紙一重で躱し、懐に潜り込もうとするが、今度は狼の頭が鋭い牙を剥いて噛み付いてきた。熊の力と、狼の俊敏さ。二つの獣の長所だけが、最悪の形で組み合わさっている。


 カイルは師の指示通り、キメラの側面へと回り込んだ。

(感じるんだ……! こいつの“声”を!)

 彼は意識を集中させる。流れ込んでくるのは、純粋な地獄だった。引き裂かれる体の痛み、混ざり合う意識の混乱、そして、ただ目の前のものを破壊したいという、棘によって増幅された衝動。


(違う……動きが読めない……!)

 オークの時とは違う。感情が多すぎて、次の動きが予測できない。熊の腕が動こうとした次の瞬間には、猪の牙が突進してくる。完全に支離滅裂。だが、その支離滅裂さこそが、この怪物の強さだった。


「レオンさん!」

 カイルは援護のために剣を振るうが、硬い体毛に阻まれ、浅い傷しか与えられない。キメラはカイルを鬱陶しそうに睨むと、その狼の口を大きく開いた。

(まずい、来る!)

 カイルがそう感じた瞬間、彼の頭の中に、キメラの苦痛とは全く質の違う、冷たい“何か”が流れ込んできた。


 それは、感情ではなかった。

 もっと無機質で、分析的で、冷え切った“思考”の断片。

 まるで、高みから盤上の駒の動きを眺めるような、絶対的な傍観者の視線。

 それは、純粋な好奇心だった。

 ――この状況で、あの小僧はどう動く? あの力は、どこまで使える?


「……!?」

 カイルは、戦いの最中であることも忘れ、反射的に顔を上げた。

 本能が、視線の主を探していた。

 森を見下ろす、少し離れた崖の上。

 そこに、一つの人影があった。

 夕陽を背にした、黒いシルエット。フードを目深にかぶっており、顔は分からない。ただ、そこに立って、腕を組み、こちらを“観測”している。

 あの、冷たい好奇心は、あそこから来ている。


 カイルは全身の血が凍りつくのを感じた。

 ぞくり、と悪寒が背筋を駆け上る。

 違う。

 この戦いは、偶然ではない。

 この怪物は、俺たちを殺すためにここにいるのではない。


 ――試されている。


 この絶望的な状況そのものが、あの“観測者”によって仕組まれた、自分たちの力を測るための、巨大な実験場なのだ。


 その事実に気づいた瞬間、カイルの思考は、完全に停止した。

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