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第十七話 賢者の書庫

 あの市場での一件以来、カイルの世界との関わり方は、決定的に変わってしまった。

 以前はただの騒音でしかなかった街の喧騒は、今や無数の感情が織りなす巨大なタペストリーのように感じられる。彼は、その一枚一枚の糸の色を、不器用ながらも少しずつ見分けられるようになってきていた。それは、世界がより豊かになったということでもあり、同時に、世界の抱える痛みが、より直接的に彼の心に流れ込んでくるということでもあった。


 その日の朝、レオンはカイルに稽古を休むと告げた。

「今日は、剣を置け。頭を使う日だ」

「頭、ですか?」

「我々は、敵についてあまりにも知らなすぎる。オークの足にあったあの棘、そして、お前のその力。どちらも、ただ闇雲に剣を振るうだけでは対処できん。知識が必要だ」

 レオンの目は、いつになく真剣だった。

「この街に、エリアスという男がいる。古い物や、奇妙な物語ばかりを扱う、風変わりな古物商だ。奴なら、何か知っているかもしれん」


 白鹿亭を出る前、カイルはレオンに頼み込んだ。

「あの……あの棘に触れてみてもいいですか」

「……何をするつもりだ」

「わかりません。でも、ただ、もう一度“聞いて”みたいんです。今なら、オークの時とも、この前の稽古の時とも違う何かが、わかるかもしれないから」


 二人の部屋に戻り、レオンがテーブルの上に例の黒い棘を置く。カイルは椅子に座り、目を閉じて、ゆっくりと精神を集中させた。市場の喧騒を調律した時のように、自分の意識を一本の針のように研ぎ澄ませていく。そして、その針の切っ先を、目の前にある異質な存在へと、そっと向けた。


 ――来た。

 冷たく、鋭い感覚が、彼の精神を逆撫でする。

 それは、純粋な悪意の塊だった。オークから感じた、苦痛に歪んだ怒りとは違う。もっとずっと理知的で、歪んだ愉悦に満ちている。生き物をただの“素材”としか見ていないような、無機質な残酷さ。そして、その奥底にある、何かを成し遂げたという、ねじくれた達成感。

(これは……作ったやつの感情だ……)

 カイルは確信した。これは、この黒い棘を作り出した者の、魂の残滓だ。

「うっ……!」

 それ以上探ろうとした瞬間、まるで拒絶されるかのように、鋭い偏頭痛がカイルを襲った。彼は思わず目を開け、こめかみを押さえる。

「……どうだった」

「……すごく、冷たい感じがしました。そして、何かを壊して、喜んでいるような……」

 カイルは途切れ途切れに報告する。レオンは黙ってそれを聞くと、

「……行くぞ」

とだけ言って、棘を再び懐にしまった。


 ⸻


 エリアスの店は、大通りから何本も外れた、忘れられたような路地裏にあった。

「賢者の書庫」という、少し大げさな名前が書かれた看板が、埃をかぶって傾いている。扉を開けると、カラン、と乾いた鈴の音が鳴り、黴と古い紙、そして正体不明の薬品が混じったような、独特の匂いが鼻をついた。

 店内は、まさしく本の森だった。床から天井まで、うず高く積まれた古書の山が、迷路のように続いている。壁には、由来のわからない武具や、黄ばんだ地図、奇妙な生物の骨格標本などが、所狭しと飾られていた。


「……なんだ、レオンか。生きていたのか」

 本の山の陰から、ひょっこりと顔を出したのは、痩身の老人だった。片眼鏡モノクルをかけ、着古したローブをまとっている。年の頃はレオンと同じくらいに見えるが、その目に宿る光は、剣士のそれとは違う、探求者のように爛々とした輝きを放っていた。

「エリアス。お前も、まだこんなガラクタに埋もれて暮らしているのか」

「ガラクタとは心外だな。これらは歴史の囁き、忘れられた真実の欠片だよ」

 エリアスは肩をすくめると、レオンの後ろに立つカイルに片眼鏡のレンズを向けた。

「ほう。珍しいな、お前が弟子をとるとは。太陽が西から昇るかもしれん」

「用があって来た」

 レオンは旧友との挨拶もそこそこに、本題を切り出した。彼は懐から黒い棘を取り出し、エリアスの目の前のカウンターに置く。


 エリアスの表情が、初めて変わった。

 彼は棘を慎重に指先でつまみ上げると、レンズを覗き込み、あらゆる角度からそれを観察し始めた。

「……これは、ひどいな」

 老学者は、低い声で唸った。

「この材質……黒鉄鉱のようだが、違う。まるで、負の感情を練り固めて作ったような、不自然な密度だ。それに、この紋様……」

 棘の表面に刻まれた、肉眼ではほとんど見えない微細な紋様を、彼は指でなぞる。

「古代の呪印術の類いか。だが、私の知るどの体系にも当てはまらん。一体、どこでこれを?」


 レオンがオークの一件を簡潔に話すと、エリアスは顎鬚を扱きながら、深く考え込んだ。

「獣を狂わせる呪具、か……。心当たりがないわけではない」

 彼はそう言うと、危険な古書の山によじ登り、目当ての一冊を引き抜いてきた。『古の大戦における異端魔術』と題された、分厚い革張りの本だった。

 埃を払い、黄ばんだページをめくっていく。やがて、彼はある挿絵の前で指を止めた。そこに描かれていたのは、黒い棘と酷似した呪具だった。


「……“魂のソウル・ソーン”」

 エリアスは、掠れた文字を読み上げた。

「古の大戦末期に、ある狂信的な魔術師の一派が作り出したとされる呪いの武具。生物に埋め込むことで、その魂に直接苦痛を与え、憎悪と狂気だけを増幅させる……。文献によれば、これを使役された獣は、痛みで正気を失い、死ぬまで暴れ続けるだけの生ける兵器と化した、とある」

 その忌まわしい記述に、カイルは息を呑んだ。オークから感じた、あの苦痛に満ちた怒りの正体が、今わかった気がした。

「……その魔術師たちは、どうなったんですか?」

「大戦の終結と共に、歴史から姿を消した。彼らの技術も、全て失われたはずだったが……」

 エリアスは、カウンターの上の棘に、改めて警戒の目を向けた。「どうやら、現代にその亡霊を蘇らせようとしている馬鹿者がいるらしいな」


 エリアスはしばらく黙り込んでいたが、不意に、カイルの顔をじっと見つめた。

「……坊主。お前、何か変わったものが見えたり、聞こえたりはしないか?」

 その唐突な質問に、カイルは心臓が跳ねた。レオンと視線が交差する。レオンは、かすかに頷いた。話していい、という合図だった。

 カイルは、自分がオークの感情を読み取ったことを、おそるおそる話した。


 話を聞き終えたエリアスは、驚くでもなく、むしろ何かを確信したように深く頷いた。

「……やはり、そうか」

 彼は再び書庫の迷宮へと消え、今度は先ほどよりもさらに古びた、小さな手帳のような本を手に戻ってきた。『忘れられた北の民話集』と、表紙にはかろうじて読める文字が残っている。

「確定した話じゃない。ただの伝説、おとぎ話として聞いてくれ」

 エリアスはそう前置きして、あるページを開いた。

「かつて、この大陸の北の果てに、あらゆる生き物の心の声を聞くことができたという、特殊な一族がいたそうだ」

 カイルの喉が、ごくりと鳴った。

「彼らは“心音継ぎ(しんおんつぎ)”と呼ばれていた。獣の心を鎮め、人の偽りを見抜き、時には草木の囁きさえも感じ取ることができたという。だが、その特異な力ゆえに、他の人間たちから畏れられ、迫害され、いつしか歴史の闇に消えていった……。ほとんどの学者は、ただの空想の産物だと考えている」


 エリアスは、本から顔を上げると、カ-イルの目を真っ直ぐに見た。

「お前さんがその一族の末裔だ、なんて言うつもりはない。だが、世界には、時折、そういう古い力が不意に発現する人間が生まれることがある。お前さんの力は、あるいは、それに近いものなのかもしれんな」

 その言葉は、断定ではなかった。ただの、可能性の提示。

 だが、それはカイルの心に、これまで感じたことのない巨大な波紋を広げていた。俺は、一体、何者なんだ?


「その……“心音継ぎ”がいたという北の果て、というのは」

 今まで沈黙を守っていたレオンが、低い声で尋ねた。

「ああ」とエリアスは頷く。「人々が“禁忌の地”と呼んで近づかぬ、あの北方廃墟よりも、さらに奥の一帯だと、この本には記されている」


 その言葉が出た瞬間、店の空気がわずかに凍りついた。

 北方廃墟。

 あの、墓標と呼ばれる依頼書。

 カイルの中で、バラバラだったはずの点が、おぼろげな線で結びつき始めていた。

 森の異変。魂の棘。俺の力。そして、北方廃墟。

 偶然ではない。これらは全て、一つの巨大な何かに繋がっている。


 店を出ると、空はすっかり夕暮れの色に染まっていた。

 カイルは、まだ頭の中が整理できずにいた。「魂の棘」という武器の正体。「心音継ぎ」という伝説の一族。あまりにも、情報が多すぎた。

 だが、不思議と心は落ち着いていた。自分が何者なのか、敵が何者なのか、その輪郭が、ほんの少しだけ見えたからだ。

 道は、まだ遥か遠い。だが、進むべき方角が、おぼろげながら示された。

 カイルは隣を歩く師の横顔を見上げた。レオンは何も言わない。だが、その目は、ただ一点、北の空の先を、静かに見据えているようだった。

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