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第十六話 町の喧騒と心の調律

 オークとの戦いから数日が経ち、カイルの日常は奇妙な二重生活の様相を呈していた。

 昼間は、白鹿亭の手伝いやレオンとの基礎稽古に汗を流す、ごく普通の剣士見習い。

 だが夜、一人でベッドに横たわると、世界は全く別の顔を見せた。目を閉じれば、宿に満ちる人々の寝息や夢の断片が、寄せては返す波のように彼の意識を洗い、なかなか寝付けない夜が続いた。

 このままではいけない。カイルは無意識に、その新しい感覚に蓋をすることを覚えていった。それは、うるさい音から逃れるために耳を塞ぐような、一時しのぎの対処法でしかなかった。


 その日の朝、レオンはカイルを連れて白鹿亭を出た。行き先はいつもの裏庭ではなかった。

「今日の稽古は、場所を変える」

 朝日を浴びて賑わい始めた大通りを歩きながら、レオンが言った。

「えっと……どこへ行くんですか?」

「市場だ」

 その短い答えに、カイルは思わず足を止めた。市場。そこは、今の彼が最も避けたい場所だった。雑多な人々の感情が、制御不能の濁流となって渦巻いている場所。

「お前のその力は、今のままではただの雑音だ。あらゆる音を拾いすぎて、肝心な声が聞こえない。調律されていない楽器と一緒だ」

 レオンは、前を向いたまま続けた。「これからお前がやるのは、その楽器の調律だ。無数の音の中から、たった一つの弦の音だけを聞き分ける訓練をする」


 市場の入り口に立つと、カイルはごくりと喉を鳴らした。人々の熱気と、様々な商品の匂い、そして、色とりどりの感情が、巨大な生き物のように彼に襲いかかってくる。

(怖い……)

 一度この奔流に呑まれたら、正気でいられる自信がなかった。

「恐れるな。蓋をするな。全てを受け入れろ。その上で、選ぶんだ」

 師の言葉が、彼の背中をそっと押した。カイルは意を決して、喧騒の中へと足を踏み入れた。


 一歩、踏み込んだ瞬間、世界が反転した。

 野菜売りの男の、客を値踏みする欲。

 花売りの少女の、故郷を思う淡い哀愁。

 衛兵の、終わらない任務への退屈。

 恋人と待ち合わせる若い男の、高揚感。

 財布を落とした老婆の、深い絶望。

 喜び、怒り、悲しみ、欲望、希望、後悔。数えきれない感情の奔流が、津波のようにカイルの精神に叩きつけられる。頭の奥が割れるように痛み、視界がぐらりと揺れた。

「うっ……!」

 思わずよろめき、近くの屋台の柱に手をつく。

「これが、最初の壁だ」

 レオンの声は、その濁流の中にあって、不思議なほどはっきりと聞こえた。「この情報の嵐に、まずはお前自身が立つことを覚えろ」


 カイルは何度も深呼吸を繰り返し、どうにか意識を保とうと努めた。受け入れる。選ぶ。師の言葉を心の中で反芻する。

 数分か、あるいは数十分か。時間の感覚が麻痺する中、彼は少しずつ、感情の奔流に押し流されるのではなく、その流れの中でかろうじて立っている感覚を掴み始めていた。


「……少しは慣れたか」

 レオンが問う。

「……はい。なんとか」

「では、始めるぞ」

 レオンは顎をしゃくり、少し離れた場所で果物を選んでいる、裕福そうな身なりの女を指さした。「あの女の感情だけを読んでみろ。他はすべて、背景の音として聞き流せ」


 カイルは言われた通りに、その女に意識を向けた。

 だが、ダメだった。彼女の「どのリンゴが甘いかしら」という単純な思案は、隣で言い争いをする夫婦の怒声や、走り回る子供の歓声といった、より強い感情の波にかき消されてしまう。特定の音だけを聞き分けようとすればするほど、他の全ての音が、より大きな騒音となって彼を苛んだ。

「……できません。他の感情が、邪魔をして……」

「それが人の心だ。単純なものなど、何一つない」

 レオンは冷徹に言い放つ。「もう一度だ」


 カイルは唇を噛んだ。どうすればいい。森でオークの感情を読んだ時、彼は無心だった。だが、今は“読もう”という意識が、かえって邪魔をしている。

(探すな。ただ、在れ。そして、聞け)

 以前、レオンに言われた言葉が、脳裏に蘇った。

 そうだ。無理に雑音を消そうとするんじゃない。この喧騒ごと受け入れて、その中から目的の音を探し出すんだ。


 カイルはもう一度、意識を集中させた。今度の目標は、炭屋と口論している屈強な鍛冶屋だった。彼の感情は、リンゴを選ぶ女よりもずっと強く、明確だった。

「この値段は話が違うだろう!」という、硬質で、角張った怒り。

 カイルは市場の喧騒を一度、全て受け入れた。その上で、鍛冶屋が発する怒りの感情だけを、まるで人混みの中から旧友を探し出すように、注意深く辿っていく。

 見つけた。

 他の無数の感情の中で、彼の怒りだけが、ひときわ鋭い棘のように感じられる。

「……怒っています。炭の値段が、思っていたより高かったことに……」

 カイルがそう報告すると、レオンは初めて、かすかに頷いた。

「……それが、始まりだ」


 その一言に、カイルはわずかな手応えを感じた。彼は少しだけ自信を取り戻し、もう少し訓練を続けようと、再び市場の喧騒に意識を向けた。

 その、瞬間だった。

 それまで感じていた市場のどんな感情とも違う、異質な“流れ”が、彼の感覚に突き刺さった。

 それは、まるで冷たいヘドロのような、粘りつく感情だった。単純な欲望ではない。獲物を品定めし、どうやって罠にかけるかを計算するような、冷徹で、捕食者のような悪意。

 カイルは思わず、その感情の冷たさに身震いした。


 なんだ、これは……?


 彼は反射的に、その悪意の発生源を探した。人混みの中を視線が彷徨い、やがて、一人の男にたどり着く。

 男は、一見するとどこにでもいるような、人の良さそうな顔で笑っていた。裕福そうな身なりの旅人と、気さくに言葉を交わしている。だが、彼から発せられている“感情”は、その人懐こい笑顔とは全くの別物だった。カモを安心させ、油断したところを食い物にする。そんな、蛇のような冷たい歓喜が、男から溢れ出ていた。

 詐欺師か、あるいは盗人。

 カイルは直感的に理解した。


 どうする?

 カイルは凍りついた。これはオークやゴブリンではない。街のルールの中で生きる、ただの人間だ。証拠は何もない。あるのは、自分にしか感じられない、この不快な“感覚”だけ。今、ここで「あの男は危険だ!」と叫んだところで、誰が信じるだろう。頭のおかしい若者だと思われるのが関の山だ。

 だが、何もしなければ、あの旅人は確実に被害に遭う。

 彼の善意が、目の前で踏みにじられようとしている。

 カイルは助けを求めるように、レオンを見た。そして、今の状況を小声で、必死に説明した。

「レオンさん……あの男、なんだか、すごく……嫌な感じがします。あの旅人を、騙そうとしているような……」


 レオンは、カイルが指さす男を一瞥した。だが、彼の関心はそこにはないようだった。彼はただ、カイルの目を見て、静かに問うた。

「……それで? お前は、どうする」


 それは、答えを教えることを放棄した、師の問いだった。この状況でどう振る舞うか。それもまた、お前の力の一部なのだと、その目は語っていた。

 カイルは唇を噛んだ。直接的な介入は悪手だ。ならば、もっと別の方法を。

 彼はしばらく思考を巡らせると、一つの結論に達した。


 男は、馴れ馴れしく旅人の肩を抱き、人通りの少ない路地裏の方へと誘おうとしている。おそらく、そこで仲間と合流するか、何か手の込んだ詐欺を仕掛けるつもりなのだろう。

 カイルは、その後を追った。レオンは、何も言わず、少し離れた場所からその様子を見守っている。

 路地裏に入り、男が旅人に向かって何か巧妙な口上を述べ始めた、まさにその時だった。


「うわっ! す、すみません!」

 カイルは、わざとらしく大きくつまずき、旅人の背中に派手にぶつかった。

「おっと、危ない!」

 旅人は驚いて振り返り、カイルの体を支える。その騒ぎに、詐欺師の男が作り上げていた巧妙な話の流れは、無残にも断ち切られた。

「申し訳ありません! 急いでいて……お怪我はありませんでしたか?」

 カイルは何度も頭を下げる。

 旅人は人の良い笑みを浮かべ、「ははは、大丈夫だ、若者。気をつけなさい」とカイルの肩を叩いた。

 そのやり取りの間、詐欺師の男は、射殺さんばかりの眼光でカイルを睨みつけていた。カイルは、肌が粟立つのを感じた。純度百パーセントの、どす黒い憎悪。その感情が、痛いほど伝わってくる。


 詐欺師は、もはやこれまでと観念したのだろう。ばつが悪そうに舌打ちをすると、

「……用事を思い出した」

 とだけ言い残し、人混みの中へと消えていった。

 旅人は、何が起きたのか全く気づかないまま、カイルに礼を言うと、大通りへと戻っていった。


 一人残された路地裏で、カイルは大きく息を吐いた。心臓が、まだ激しく脈打っている。

 レオンが、いつの間にか彼の背後に立っていた。

「……剣を使わなかったな」

「はい……」

 カイルは、まだ少し震える声で答えた。「とても、剣で解決できるようなことじゃ、なかったので」


 レオンは、ほんの少しだけ、口の端を緩めたように見えた。

「そうだ。それが、お前のその力の本当の意味だ」

 彼は、夕暮れの空を見上げながら言った。

「その力は、お前に剣では斬れないものを見せるだろう。人の心の弱さ、醜さ、そして、時にはその奥にある温かさもな。いつ刃を抜き、そして、いつ刃を鞘に収めたまま耐えるべきかを知る。それもまた、戦士の強さだ」


 カイルは、師の言葉を噛み締めていた。

 今日、彼は剣の稽古よりも、ずっと難しく、そして重要なことを学んだ気がした。

 この厄介な力は、ただの戦闘能力ではない。それは、この複雑な世界と向き合うための、重たい責任そのものなのだ。

 街の喧騒が、先ほどとは少しだけ違って聞こえた。それはもう、ただの騒音ではなかった。無数の人々の、それぞれの人生が奏でる、哀しくも、愛おしい音楽のように、カイルの耳に響いていた。

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