第十五話 剣と感覚の融合
オークとの死闘から、数日が過ぎた。
カイルの中に芽生えた新しい“感覚”は、祝福というよりは、むしろ扱いにくい呪いのように彼を苛んでいた。
街を歩けば、すれ違う人々の雑多な感情が、まるで不協和音のように流れ込んでくる。行商人の焦り、恋人を待つ女の期待、衛兵の退屈、物乞いの嫉妬。それらが意思とは無関係に意識の表面を撫でていき、じわじわと彼の精神を削っていく。夜、眠りにつけば、宿屋に泊まる人々の夢の断片までが微かに流れ込んでくる始末だった。
彼は無意識に、その感覚に蓋をしようと試みていた。心を固く閉ざし、内側に引きこもることで、どうにか平静を保っている。だが、そのせいで朝の稽古では精彩を欠いていた。
「集中できていないな」
白鹿亭の裏庭で、木剣を構えたまま動きの止まったカイルに、レオンが低い声をかけた。
「……すみません」
「何を感じている」
それは質問というより、事実の確認に近かった。レオンには、カイルが何に苦しんでいるのか、既にお見通しのようだった。
「いろんな、声みたいなものが……聞こえてきて。稽古をしていても、風の音とか、木の葉の擦れる音とか、全部が大きく聞こえすぎて……」
カイルは俯き、正直に打ち明けた。
「だから、今は……何も感じないように、しています」
「愚かな」
レオンは短く言い放った。「嵐が来た時に、目と耳を塞いでやり過ごそうとするようなものだ。それでは、いずれ呑まれるぞ」
レオンは自身の木剣をゆっくりと持ち上げる。
「カイル。その力を、恐れるな。拒絶するな。逆だ。もっと研ぎ澄ませ」
「え……?」
「今から俺は、お前を斬る。だが、体は動かさん」
レオンはそう言うと、ただ目の前に立ったまま、ぴたりと動きを止めた。カイルは何を言われているのか理解できず、困惑の表情を浮かべる。
「どういう……」
「剣を振るう前、人間は必ず思考する。思考は、殺気や敵意といった“流れ”を生む。お前はオークの感情を読んだ。ならば、俺の“流れ”も読めるはずだ。俺が剣を振るう、その一瞬前を読んでみせろ」
それが、レオンがカイルに課した、新しい訓練の始まりだった。
カイルはゴクリと唾を飲み込み、目の前の師に意識を集中させた。心を覆っていた分厚い壁を、少しだけ取り払う。
(レオンさんの、“流れ”……)
だが、何も感じない。
目の前に立つレオンは、まるで年経た岩のようだった。感情の波一つない、静まり返った湖面。殺気も、敵意も、何もかもが無に等しい。ただ、そこに“在る”だけ。達人の精神は、これほどまでに平坦なのか。
「……考えすぎるな。探すな。ただ、在れ。そして、聞け」
レオンの声が、静かに響いた。
カイルは言われた通り、意識を無にしようと試みる。探すのをやめ、ただ、感じることに徹する。
その瞬間、レオンの木剣が動いた。
ゆるやかで、軌道も単純な振り下ろし。だが、カイルは反応できなかった。気づいた時には、木剣の切っ先が彼の喉元にぴたりと添えられていた。冷や汗が、首筋を伝う。
「……今の、“流れ”が読めたか」
「いえ……何も……」
「だろうな。お前はまだ、外からの情報にばかり気を取られている。風の音、鳥の声、そして、俺が動くのではないかというお前自身の不安。それらが邪魔をしている」
レオンは再び木剣を構える。
「もう一度だ。今度は、もう少し速く行く」
言葉と共に、レオンの姿がぶれた。先ほどとは比べ物にならない速さの突きが、カイルの胸を狙う。カイルは咄嗟に後方へ飛び退き、どうにかそれを避けた。だが、それは“見てから”の反応だった。感覚で読んだわけではない。
「違う!」
レオンの叱責が飛ぶ。
「目で追うな! 肌で感じろ! 魂で聞け!」
何度か打ち合いが繰り返される。カイルは必死だった。レオンの剣筋を追いながら、その根源にあるはずの“流れ”を捉えようとする。だが、ダメだった。速く、重い剣撃を捌くのに精一杯で、そんな余裕はどこにもない。むしろ、打ち合ううちに流れ込んでくるレオンの圧倒的な存在感に気圧され、自分の感覚が麻痺していくようだった。
木剣が手から弾き飛ばされ、カイルは尻餅をついた。肩で大きく息をする。
(無理だ……こんなこと……!)
悔しさが、絶望に近い感情となって胸に広がった。この力は、オークの時のような、極限の状況でしか使えない、気まぐれな奇跡のようなものなのかもしれない。
カイルが俯き、膝についた土を払うこともできずにいると、レオンが静かに言った。
「……立て。最後だ」
カイルは唇を噛み、ふらつく足で立ち上がった。もう一度、木剣を構える。
(これが最後……)
彼はもう、勝とうとも、避けようとも思わなかった。ただ、レオンの言う通り、在るがままに、全身の意識を目の前の師に向けた。
レオンは動かない。
時間だけが、気まずい沈黙を乗せて過ぎていく。
焦りが、カイルの心に芽生え始めた、その時だった。
――フッ、と。
カイルの右肩に、まるで冷たい風が吹き込むような、奇妙な感覚が走った。
それは殺気ではなかった。もっと微かで、糸のように細い、意識の“指向”。
「!」
カイルは考えるより先に、咄嗟に右肩を引いていた。
何も起こらない。レオンは、木剣を構えたまま微動だにしていない。
だが、彼の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだように見えた。
「……今日は、そこまでだ」
レオンはそう言うと、カイルに背を向け、母屋の方へと歩き去っていった。
カイルは一人、その場に立ち尽くしていた。今のは、一体何だったのだろう。確かな手応えは、何一つない。それでも、最後に感じたあの微かな感覚だけが、右肩に残り続けていた。
⸻
【レオンの視点】
カイルの背中が、宿屋の扉の向こうに消えるのを見届けてから、レオンは一人、街の城壁まで歩いた。夕暮れの空が、トラヴィスの街並みを赤く染めている。
(……やはり、カイルは何かを掴みかけている)
今日の稽古の最後。レオンは剣を振るうのではなく、ただ、カイルの右肩を斬る、と強く“思考”しただけだった。殺気すら乗せない、純粋な意志の指向。並の戦士では、決して気づくことはできない。
だが、カイルは反応した。未熟で、不確かではあったが、確かに彼の意識を読んでみせたのだ。
とんでもない才能だ。
それは、レオンが長い戦いの人生の中で出会った、どんな剣士とも違う、異質なものだった。獣の鋭い直感にも似ているが、もっと深く、相手の内面にまで干渉するような力。
厄介なものを拾ってしまった、と彼は思う。
あの力は、磨けば比類なき武器となろう。だが、磨き方を間違えれば、持ち主の魂ごと砕きかねない、危険な諸刃の剣だ。
レオンは懐から、オークの足から抜き取った黒い棘を取り出した。
夕陽にかざしてみる。冷たい金属のような光沢。微かに、人の手では作り出せないような、歪な紋様が刻まれているように見えた。
これをオークに埋め込んだのは、誰だ?
目的は、森の混乱か。あるいは、トラヴィスの街そのものか。
ゴブリン、そしてオーク。次は、何が来る。
まるで、手駒を一つずつ、こちらの力量を試すように繰り出してきている。そのやり口には、陰湿で、粘つくような悪意を感じた。
そして、思う。
この棘の出現と、カイルの力の覚醒は、果たして偶然なのか。
あまりにも、出来すぎている。まるで、強大な磁石が、北と南から互いを引き寄せ合うように。
(……北)
不意に、あの古びた依頼書のことを思い出す。
北方廃墟。
かつて、レオン自身も関わったことのある、忌まわしい場所。あそこには、人の理性が及ばぬ、古き時代の“何か”が眠っている。
まさか、とは思う。だが、あの場所から漏れ出した瘴気が、森を狂わせ、カイルのような特異な人間を目覚めさせたとでもいうのか。
そこまで考えて、レオンは思考を打ち切った。
憶測で物事を判断するのは、戦場で最も早く死ぬ人間のやることだ。
彼は黒い棘を、再び懐にしまった。
今は、答えを出す時ではない。
今はただ、やるべきことをやるだけだ。
あの未熟な弟子を鍛え上げる。彼の剣を、そして、何よりも彼の心を。
その特異な力が、いずれ彼自身を呑み込む濁流となるか、あるいは、行く末を照らす一条の光となるか。
それは、師である自分の導きと、そして、カイル自身の覚悟にかかっている。
レオンは、深い闇に沈みゆく森の稜線に目をやった。
戦いの匂いが、風に乗って運ばれてくるような気がした。




