第十四話 黒い棘と内なる声 sideカイル
オークが絶命して、森は静かになった。
まるで分厚い幕が下りたみたいに、あらゆる音が消えた。風の音も、葉の擦れる音も、遠くで鳴いていたはずの鳥の声さえも。そこにはただ、巨大な緑色の死体と、血の匂いと、そして俺とレオンさんだけがいた。
「お前のその力……一体、何なんだ」
レオンさんの声は、静かすぎて、現実感があまりなかった。彼はオークの死体を見ていなかった。俺の目を、真っ直ぐに見ていた。
どう答えればいいのか、わからなかった。
「わかりません」
正直にそう言うしかなかった。喉が乾いて、声が少し掠れた。
「でも、ただ……“そう感じた”んです。あいつが、痛がってるのが。怒ってるのが。怖がってるのが。全部、頭の中に……」
そこまで言って、俺は口を閉じた。それ以上は、うまく言葉にならなかった。自分の頭がおかしくなったんじゃないかと、少しだけ思った。
レオンさんは何も言わなかった。
ただ俺の目をしばらく見て、それからオークの死体に歩み寄った。彼は俺が叫んだ左足を調べ、分厚い皮膚の奥深くに突き刺さっていた、奇妙なものを見つけた。
黒い棘。
金属のようでもあり、骨のようでもあった。不自然なほど鋭く、禍々しい気配を放っている。レオンさんはそれを慣れた手つきで引き抜くと、光に翳すようにしてしばらく眺め、やがて何も言わずに革の小袋にしまった。
それから、俺たちは街へ戻った。
帰り道、俺たちはほとんど口を利かなかった。
俺はレオンさんの少し前を歩いた。彼の足音だけが、一定のリズムで俺の後をついてくる。そのことが、なぜかひどく気になった。彼は何を考えているんだろう。俺のこの訳のわからない力を、どう思っているんだろう。気味が悪いと、そう思っているんだろうか。
森を抜けて街道に出ると、西の空がオレンジ色に染まり始めていた。
奇妙なことだった。あれだけの死闘を終えたというのに、世界は何も変わらずに、ただ時間が過ぎていく。商人たちの荷馬車が、いつもと同じようにのんびりと街を目指していた。
「……歩けるか」
不意に、背後からレオンさんの声がした。
「え? あ、はい。大丈夫です」
「そうか」
会話は、それで終わった。
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白鹿亭の扉を開けると、エイダさんが「おかえり!」と明るい声で迎えてくれた。
その声を聞いて、俺はようやく、自分がちゃんと生きて帰ってきたんだと実感できた。
「まあ、ひどい格好じゃないか。二人とも、すぐに風呂を使いな。お湯を沸かしてやるから」
彼女は俺たちの血と泥に汚れた姿を見ても、余計なことは何も聞かなかった。ただ、眉を少しだけ心配そうに寄せただけだった。そのことが、ひどくありがたかった。
湯船に体を沈めると、全身の筋肉が悲鳴をあげるみたいに軋んだ。肩の傷がじくりと痛む。俺は目を閉じて、今日の出来事をもう一度、頭の中で再生してみた。オークの咆哮。レオンさんの剣閃。そして、俺の頭の中に流れ込んできた、あの激しい感情の奔流。
あれは、本当にオークの感情だったんだろうか。
もしそうだとして、なぜ俺なんかに、そんなものが聞こえたんだろう。
わからない。わからないことだらけだった。
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夕食の後、食堂の客がまばらになった頃、レオンさんと俺は隅のテーブルで向かい合っていた。エイダさんが気を利かせてくれたのか、俺たちの周りには誰もいなかった。
レオンさんは、テーブルの上にあの革の小袋を置いた。そして、中から黒い棘を取り出す。ランプの光を受けて、それは濡れたように鈍く光った。
「これは、オークの足に刺さっていたものだ」
彼は言った。
「自然にできる傷じゃない。何者かが、これをオークに埋め込んだ。オークを狂わせ、凶暴化させるために」
「誰かが……わざと?」
「ああ。この森の生態系を、誰かが意図的に壊そうとしている。ゴブリンの次はオーク。次は、もっと厄介なものが現れるかもしれん」
彼の言葉は、ただの推測には聞こえなかった。ほとんど、事実そのものみたいに響いた。
レオンさんは、棘から俺のほうへ視線を移した。
「カイル」
「……はい」
「お前のあの力。それが何なのか、俺にもわからん。お前自身にも、わからんだろう」
俺は、黙って頷いた。
「だが、一つだけ確かなことがある。それは、普通じゃないということだ。そして、普通じゃない力は、良くも悪くも、いろいろなものを引き寄せる」
彼は、まるで世界中の真理を語るみたいに、静かな口調で続けた。
「お前はもう、ただの剣士見習いじゃない。何か、別のものになってしまったのかもしれん。そのことを、まずはお前自身が自覚しろ」
「別のもの……」
「これから、その力のせいで、厄介なことに巻き込まれるかもしれん。あるいは、その力がお前自身を蝕むことだってあるかもしれん」
レオンさんは、まるで遠い昔の誰かに語りかけるように、そう言った。
「どうする。その力と、これからどう向き合っていく?」
それは、質問だった。
俺の人生そのものについての、ひどく重たい質問だった。
俺は、すぐに答えることができなかった。どう向き合うかなんて、考えたこともなかった。考えられるはずもなかった。
俺はただ、テーブルの上の黒い棘を、じっと見つめていた。
「……今日はもう休め」
長い沈黙の後、レオンさんはそう言って立ち上がった。「答えは、急ぐ必要はない」
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その夜、俺はなかなか寝付けなかった。
ベッドの中で、目を閉じる。すると、暗闇の中で、たくさんの“声”が聞こえるような気がした。宿の中で眠る人々の静かな寝息。壁の向こうで鳴く虫の声。遠くで聞こえる、夜警の兵士の足音。
それらが、以前よりもずっと鮮明に、肌で感じられるような気がした。
俺は、恐る恐る、意識を外へと伸ばしてみた。
オークの感情を感じた時のように。
すると、わかった。
わかる、という感覚が、そこにあった。
二階の部屋で、エイダさんがベルトルドさんの腰をさすってやっている。その優しい手のひらの感触。
厨房の隅で、一匹のネズミがパン屑を齧っている。その小さな喜び。
宿屋の屋根裏で、一羽のフクロウが、獲物を探してじっと目を凝らしている。その鋭い集中力。
それらが、言葉ではなく、感覚の波として、俺の中に流れ込んでくる。
俺は、驚きもせず、恐怖も感じなかった。
ただ、それがそこにあるという事実を、静かに受け止めていた。
世界は、俺が今まで見ていたものとは、少しだけ違ってしまったのかもしれない。
そのことに気づいてしまった夜、俺は、ようやく浅い眠りに落ちた。




