第十三話 森の不協和音
ゴブリン斥候を討伐してから一週間が過ぎた。カイルの肩の傷はもうほとんど痛みもなく、傷跡だけが、彼にとって初めての「勝利の証」として残っている。あの一戦以来、カイルの中の何かが変わった。朝の稽古で木剣を握る手には、以前よりも確かな力がこもっているように感じられたし、街の喧騒の中を歩いていても、以前のようにただ気圧されることはなくなった。地に足が着いている。その感覚が、彼に静かな自信を与えていた。
その日も、二人は冒険者組合に顔を出していた。目当ては、次の依頼を探すためだ。掲示板の前に立ち、カイルは真剣な眼差しで羊皮紙に目を通す。もう、どれを選べばいいか分からない、と途方に暮れていた以前の彼ではない。自分たちの実力で何ができて、何ができないか。その線引きが、おぼろげながら見え始めていた。
「おい、聞いたか? また東の街道で被害が出たらしいぞ」
「今度はゴブリンじゃねえって話だ。なんでも、猪みてえにデカい狼が荷馬車をひっくり返したとか……」
近くで依頼を選んでいた冒険者たちの会話が、カイルの耳に届いた。東の街道。それは、先日自分たちがゴブリンを討伐した、まさにその場所だった。
カイルが眉をひそめていると、組合の扉が勢いよく開き、血相を変えた商人が駆け込んできた。
「た、大変だ! 荷物が……! 荷物がやられた!」
男は息も絶え絶えに叫ぶ。「化け物だ! あんなデカいオーク、この辺りの森にいるはずがねえ!」
オーク。その名に、組合の中がざわついた。ゴブリンよりも遥かに体格が大きく、凶暴な魔物。銅等級の冒険者が単独で相手にできるような存在ではない。
「オークだと……?」
レオンが低い声で呟く。その表情は、普段の冷静さをかなぐり捨て、険しいものに変わっていた。彼はすぐさま商人のもとへ歩み寄る。
「詳しく聞かせろ。場所はどこだ。数は」
「ひ、一匹だ! だが、とんでもなくデカかった……! 場所は東の街道から森に少し入ったところで……」
話を聞き終えたレオンの顔には、明確な警戒と疑念が浮かんでいた。
「レオンさん……?」
「……おかしい」
レオンはカイルの方を振り返らず、独り言のようにつぶやいた。
「ゴブリンの次はオーク。まるで、誰かが順番に駒を並べているようだ。この森の生態系が、何者かによって歪められている」
その言葉に、カイルは背筋が寒くなるのを感じた。ただ魔物が増えたという話ではない。その背後には、明確な“意志”が存在する。レオンはそう言っているのだ。
レオンは受付カウンターへ向かうと、今しがた張り出されたばかりの緊急依頼書を、他の冒険者が手を伸ばすよりも早く引き剥がした。
【緊急討伐依頼:東街道に出現したオークの討伐】
「行くぞ、カイル。これは、ただの魔物退治ではないかもしれん」
師の横顔に浮かんだ緊張に、カイルはゴクリと唾を飲んで頷いた。
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再び訪れた東の森は、以前とは明らかに空気が違っていた。小鳥のさえずりはなく、不気味なほど静まり返っている。まるで、森全体が巨大な捕食者の出現に怯え、息を潜めているかのようだった。
道には、荷馬車のものと思われる無残な残骸が散らばり、巨大な足跡が地面を深く抉っていた。
「……酷い」
カイルは言葉を失った。足跡の大きさから、相手が尋常なサイズではないことが分かる。
「気を抜くな。相手はもう、我々の存在に気づいているかもしれん」
レオンは剣の柄に手をかけ、油断なく周囲を警戒する。カイルもそれに倣い、神経を研ぎ澄ませた。
森の奥へ進むにつれて、空気がどんどん重くなっていく。獣の糞尿と、血の匂いが混じったような、むせ返る悪臭が鼻をついた。
その時、カイルはふと足を止めた。
「……?」
何か、奇妙な感覚があった。剣を握る手に、じりじりと静電気が走るような、微かな痺れ。そして、頭の奥で、低いノイズのようなものが響いている。それは音ではない。もっと別の、直接的な何かだ。
「どうした、カイル」
「いえ……なんだか、変な感じがして」
カイルが戸惑いながら答えた、その瞬間だった。
ガサッ!と前方の茂みが大きく揺れ、咆哮と共に巨大な影が飛び出してきた。
「グルオオオオォッ!!」
緑色の分厚い皮膚、豚のような鼻先に突き出た牙、そして血走った目。身の丈はレオンの倍近くあろうかという、一匹のオークだった。その手には、引きちぎった大木をそのまま棍棒にしたような、凶悪な武器が握られている。
「下がってろ!」
レオンが叫び、オークの棍棒を自らの剣で受け止める。凄ま-じい衝撃音が響き、レオンの足が地面にめり込んだ。さすがの彼でも、正面からの殴り合いは無謀だ。
オークは二撃、三撃と、嵐のように棍棒を振り回す。レオンはそれを最小限の動きで捌き、致命傷を避け続けているが、防戦一方で反撃の糸口が見えない。
カイルはただ、その圧倒的な力の差を前に立ち尽くすことしかできなかった。足が竦む。ゴブリンとは違う。次元の違う暴力が、彼の生存本能を麻痺させていた。
(ダメだ……勝てない……!)
恐怖が、思考を黒く塗りつぶしていく。
その時だった。
頭の奥で響いていたノイズが、不意に一つの明確な“感情”の奔流となって、カイルの意識になだれ込んできた。
――イタイ、クルシイ、コロス、コロスコロスコロス!!!
「う、ぁ……!?」
それはオークの感情だった。純粋な、混ぜ物なしの、ただ破壊と殺戮だけを求める、真っ赤な衝動。だが、その激しい怒りの奥底に、カイルは別の何かを感じ取っていた。
(違う……怒りだけじゃない。これは……苦痛? 恐怖……?)
オークは何かを恐れている。何かに苦しんでいる。その感情が、カイルの心に直接流れ込んでくる。まるで、自分の感情であるかのように。
「カイル! ぼうっとするな!」
レオンの叱責が、混乱するカイルの意識を引き戻した。見れば、レオンがオークの攻撃を誘い、懐に飛び込む好機を窺っている。だが、オークの巨体が邪魔で、決定的な一撃を放てずにいる。
(今だ……! 今しかない!)
カイルは恐怖を振り払った。流れ込んでくる感情の奔流に意識を集中する。
(あいつが苦しんでいるのは……左足だ!)
オークの怒りの裏にある、微かな苦痛の信号。それが、彼の左足から発せられているのを、カイルは“感じて”いた。
「レオンさん! 左足を!!」
カイルは、自分でもなぜそんなことが分かったのか理解できないまま、絶叫していた。
その声に、レオンは一瞬だけ驚いたように目を見開いた。だが、彼は少しも躊躇わなかった。弟子の言葉を信じ、オークが棍棒を振り下ろした隙を突いて、その巨体の下を滑り込むように駆け抜ける。そして、返す刀で、オークの左足のアキレス腱を正確に切り裂いた。
「グギャアアアアア!?」
それまでとは質の違う、本物の苦痛に満ちた悲鳴が森に響き渡った。巨体を支えきれず、オークが前のめりに膝をつく。
その一瞬の隙を、レオンが見逃すはずもなかった。彼は崩れ落ちるオークの首筋に駆け上がると、渾身の力を込めて、その延髄に剣を突き立てた。
地響きを立てて、巨大なオークが地面に沈黙する。
森に、再び静寂が戻った。
カイルは、その場にへたり込んでいた。肩で大きく息をしながら、自分の掌を見つめる。先ほど感じた、あの奇妙な感覚はもう消えていた。
だが、オークの断末魔の感情――苦痛と、恐怖と、そしてほんのわずかな“解放”のような感情が、まだ自分の心に生々しくこびりついている。
「……カイル」
レオンが、血に濡れた剣を下げながら、カイルの前に立った。その目は、オークの死体ではなく、カイル自身を真っ直ぐに見つめていた。
「お前、なぜ左足だと分かった」
その問いに、カイルはなんと答えていいか分からなかった。
「分かりません……でも、ただ……“そう感じた”んです。あいつが、痛がってるのが……」
レオンは何も言わなかった。ただ、厳しい表情でカイルを見つめ、そしてオークの死体に歩み寄ると、その左足を調べ始めた。
やがて、彼は何かを見つけ、唸るような声を上げた。
オークの足の裏、分厚い皮膚の奥深くに、黒く変色した、まるで金属の棘のようなものが突き刺さっていた。それは、自然にできた傷ではなかった。明らかに、何者かによって意図的に埋め込まれたもののように見えた。
「……やはり、ただ事ではないな」
レオンは棘を睨みつけ、呟いた。森を狂わせている“何か”。その正体に、わずかに触れた気がした。
そして彼は、再びカイルの方へ向き直る。その目には、先ほどまでの厳しさとは違う困惑と、そして今までカイルが見たこともないような、深い興味の色が浮かんでいた。
「お前のその力……一体、何なんだ」
その問いは、森の静寂の中に、重く、そして静かに吸い込まれていった。




